小沢一郎政治裁判はまだ現在の政治的事件である(一)

「政治資金規正法違反」の容疑に問われた小沢一郎の裁判は政治裁判だった。このことはその後の選挙で自民党が圧勝するや、きれいさっぱりと忘れ去られたような扱いを受けていることによくあらわれている。政治的利用価値が終わったとして権力側からは見捨てられるようにある。歴史の流れも、政治の流れも速い。それに流されて茫然とたたずんでいるようにあるほかない場所からはこれは忘れさせられていく事態と感得しえることだが、権力の幇間であるメディアはよく知っていて忘却させる役割を演じているのだろう。梅原猛の『古代幻視』を読んでいると政治的に葬られた人々の怨念が生霊となって報復する様がよく描かれていて驚くが現在の人たちはもうそういう執念はないのだろうか。権力を開いて行くにはあの怨霊の幾分かの執念は必要ではないか。ここで健忘症に陥れば何倍化の形で権力の所業としてそれは帰ってくるのではないか。むかしのように神社も像もいらないが、権力との持続的な闘いだけは必要である。

政治の中での権力の動きはかつての時代(例えば中世や近世といわれる時代)から見ればずうっと複雑になった。対外的な関係の及ぼす影響も強くなったが、政治システムそのものが錯綜したものになっているからだ。政治システムは手段の領域、あるいは手続きの領域が複雑化していることであるが、本来なら政治的意思の表現の一機関であるはずの官僚的機関が大きくなったということにほかならない。だから、権力の意思といってもその主体が誰で、どのような方法でそれは発現しているのかも、簡単に把握はできない。僕らはこれを念頭に置き、小沢一郎政治裁判を僕らの手でこそ終わらせるべきだ。

「小沢一郎を政治的に排除する。民主党が政権にある間は政治的監禁状態にして置き、民主党の指導部を変節させる。そこまでが権力の構想したプログラムであったのかもしれない」。僕は以前にこう書いた。これはもちろん、現在でも変わらない考えである。何故なのか。これは戦後の日本の政治を支配してきた政治権力にとって政権交代した民主党の政治が実現したら困る事態になると考える面々が存在したたからである。それは戦後の日本の占領解除後の支配力を持ってきたアメリカの政治権力であり、それとの共同利害を持ってきた日本の保守権力であり、官僚的権力である。そこに独占体とでもいうべき日本の資本制権力を加えてもいい。現在の日本の政治権力は国民の共同意志に基づく政権力として存続しているという幻想態として存在している。《続く》

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