戦後の日本の政治権力は国民の政治意思によって代表として選ばれたもので構成されている。という幻想態の中で存在する。国家権力は天皇の意思によって形成されているという戦前の存在とは違う。戦後憲法が国民主権をうたい、法治国家の形態をとっていることでもこのことは言えることである。幻想態としての日本国家は国民の意思によって出来あがっているということは一応のところ言えるのである。しかし、国民の意思によって構成されているはずの国家権力は果たしてそうであるのか、という疑問はいつも出てきた。現在もそうである。国家が幻想態として国民の共同意思の産物であっても、その形態を通して貫徹されるのは特殊な階級や階層の利害であり、従って国家権力はその利害によって構成されるということはある。幻想態としての国家と国家権力の構成とに矛盾はあり、そのことにいつも僕らは留意しておく必要がある。
戦後の日本の国家権力がどのような階級や階層の利害を代表しているか、つまりはどのような階級や階層の意思を代表しているかは様々に論議されてきたことであるが、大ざっぱに言えば資本家とりわけ独占体と官僚、それにアメリカの政治権力がその実態をなしているといえる。かつて、日本の国家権力を支配しているのはアメリカの政治権力か、日本の独占体かという議論があったが、これは現在ではもう少し緻密に、言う必要がある。日本の社会の特殊な階層や団体の利害と言う意味では独占体が、政治まで含めれば官僚が関係し、それにアメリカの政治権力が関与していると言えるだろう。この三つが国家権力の構成的実体であり、彼らの意思が国家権力の実態をなしているのだ。僕らは国家が国民の共同意思として成立しているという幻想態と国家権力の構成実態との矛盾を変えなければならない、と考えてきた。国民、あるいは大衆の意思が共同の意思となり、それが国家をなし、それに矛盾のない国家権力を構成することをさしあたりの政治的な目標と考えてきた。俗に民主主義の実現であるが、政治、つまりは国家の問題で日本の大衆、あるいは民衆の政治的課題はそこに在ると考えてきた。日本における政治的革命とはそういう問題であると考えてきた。やはり、日本は未だ近代国家にあらず、法治国家にあらずということが政治領域では重要な問題であると考えてきたといえる。社会的にはいろいろのことが考えられるにしても、政治的にはそうであったのだ。民主党への政権交代の歴史的意味はそこにあったというのが僕の判断であった。多分、それが革命に匹敵されることとして期待され、また恐れられたのもそこに理由があった。
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