対話風の議論から 小沢一郎政治裁判と日本の政治権力(2)
A 君は「憲法の核心は権力の問題である」と言っていたね。それは憲法(法)が政治権力の統治のための道具ではなく、権力を制限し、縛る道具であれということをいいたいわけだ。これが国民の思想となっていないというか、それが肉体かしたものとしては存在していない、それを問題にしていると理解していいか。
三上 それでいいのだと思う。ただ、それは誰しもいうことだね。なぜ、肉体化された思想としてないかということが肝心のところだね。今年は1960年の安保闘争から50年目だね。あの闘争の歴史遺産ということを話してみようか。1960年の5月20日に当時の岸内閣が安保条約の調印の強行採決をする。この採決は国会法(法律)ということでは合法的行為であるが、理念的には違法である。これに抗議して6月15日に学生たちは国会に突入し占拠した。この行為は法律的には不法侵入や占拠として違法であるかもしれないが、民主主義の実現という行為としては理念的には合法であった。この理念的ということと法律的ということが逆になっているところを注目して欲しい。理念的ということは法律の上位概念である憲法でも憲法精神でもいいけれど国民的意思としてはというようにいってもいい。でも、政治権力はこの理念のところを封殺して、法律のところだけを使って対処し、この行為を抑圧した。行為の歴史的意味を抹殺した。この理念の領域は抹殺したのである。僕はこの問題をずうっと考えてきた。法律がその上位概念と言うか、由来にあたる憲法(国民の意思的存在)を無視でき、それを問題にしないことで行為の歴史的意味を抹殺することを考えてきた。それは法律が政治権力の道具であり、その上位概念としての憲法も無視されていくのは、憲法も含めて政治権力の道具としてあることに帰着すると思えた。政治権力(統治権力)の絶対化や超権力化はそれを制限するものがないことは、憲法が在っても憲法として機能していないこと(存在していないに等しいこと)だが、それは政治権力(統治権力)の存在様式にあると思えた。
政治権力と国民の関係を含めた政治権力の存在様式ということなのだ。この政治権力(統治権力)の存在様式は抵抗が存在していないことが特徴といえる。権力のあるところに抵抗があるというのはフーコーの言説だけど、日本人には存在していない、あるいは弱いということかな。憲法は政治権力への抵抗である。その表現が憲法であるということがある。抵抗のない憲法は政治権力の道具になってしまう。
A 日本の憲法に権力への抵抗という思想が存在していない、その裏打ちがないということか。
三上 結局のところ憲法が力を持つのは政治権力(統治権力)への抵抗の存在があるからだよね。逆じゃない。憲法に力があるから抵抗があるのではない。抵抗があるから憲法が生きる(存在する)ということだ。日本では抵抗が人々の行動を律する思想的エトスとして存在していないということがある。それが言い過ぎなら弱いということだね。権力への抵抗、その思想的存在(肉体化された存在)があって、国民主権というのは意味を持つ。抵抗というのは政治権力からの自立(自由)ということと同義である。抵抗というのは権力と知と共同意識が一体となって流布されるものに疑念を持ちそれを対象化することだよね。権力の力の支配というよりは、同意形成というその生成に対する抵抗ということを自覚して欲しいのだけれど。政治権力は権威と力を持ってそれを行使し、権力の生成をするのだけれど、権威(人々が同意し、同調していくのはもの)への抵抗が必要だし、それが難しい。抵抗を権力の抑圧の体系に対する暴力的抵抗ととらえがちであるが、人々の同意(同調)を促し、それに参加をさせていく権力の生成様式の方に目をやらなければならない。そこでの抵抗ということの方が難しいわけだしね。本当に「政治と金」の問題は何か、それはどのように解決可能かという認識や構想がないと権力の繰り出してくる像に乗せられてしまう。これはね、政治の中で金はどのように集められ、使われているのか、それがどんなものか少し現実的な判断を持てば、マスメディアの報道や像など疑わしいと思う。生の存在の場での『これはおかしい』という反応や疑問を想像力で権力の動きにまで広げてみることが抵抗なのだ。むかし、想像力が権力をとるという言葉があったけど、想像力は抵抗の基盤なのだ。人権や基本権は僕らの生存の場で生きていることだが、この事件であの人はどんな運命にあうのか、その人間が権力から受ける仕打ちは、マスメディアや世間から受ける仕打ちであり、それが権力の機能する場だ。権力は裁判という救済装置があるという。裁判にかけられただけで失ったものは多い。それは裁判結果では失ったものはもどらない。だから推定無罪ということが言われるのだけど、これは行為に対する権力の判断に対する抵抗としてある。被疑者にかけられるだけで失われるものへの疑念というか、疑問があるということだ。こういう基本権は権力への抵抗なしに存在しないし、基本権の感覚や感性が権力への抵抗を可能とする。
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