小沢氏よ、民主主義者たらんとすればあと一歩だ

著者: 三上治 みかみおさむ : 社会運動家・評論家
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政治家をめざしてきた小沢一郎にとってその晩年をこんなかたちで迎えることは不本意なことであるかもしれない。彼の中には師であった田中角栄のことが去来していると想像できる。僕も「政治資金規正法」違反をめぐる事件の帰結が検察審査会での強制起訴の議決に至った時、田中角栄の最後を思い起こした。それは決して悪いイメージとしてではない。田中角栄がロッキード事件で起訴され、流布されていた時の政治家像は闇の権力者であり、金権政治家というのが圧倒的だった。僕もその像から遠からぬところで彼をみていた。しかし、やがて彼の闘いを幾分かは理解し、その像は変わった。それはよく闘った政治家の像である。僕は小沢一郎が師と同じようによく闘って欲しいと思う。

政治家でなくてもこの世では人間は意思を超えた場所に誘われ、予期せぬ闘いを強いられるものである。人間の本源たる関係には意思を超えて関係を規定するところがあるからだ。人間は意思だけでは生きられない。意思は意思を超えて関係を規定するものとの闘いの中でこそ意味を持つ。僕らが現実の中では多くの悪戦の中にあるのは同じことである。政治家だって自分が構想した舞台でいつも戦えるわけではない。舞台の大半は自分の意図を超えて向こう側からやってくる。小沢一郎が「資金規正法」問題という舞台に引きずりだされことには多くの契機が関与している。田中角栄がロッキード事件という同じに。意思に反して舞台や場に出されたとき、それとどう戦うかで政治家の真価は問われる。そこがロドス島である。

この事件についてはいろいろの評価がある。僕もまたこれについて少なからぬ論評を書いてきた。これは「政治の中のカネ」の現実的な矛盾の中から発性したものでも、その解決のために提起された事件でもない。「政治とカネ」という観念(金権政治)を利用した権力行為であり、権力による政治家支配、あるいは排除の行為である。現実の「政治とカネ」はタブーであり、誰も本当のことは語れない。だからこの現実的解決の道は提示されない。これは現代の政治的正義というべき虚構の観念なのだ。それ故に官僚や政治家はこれを権力支配の武器に用いてきたし、メディアはそれに寄り添ってきた。田中角栄や小沢一郎という権力の側にあった政治家がこういう場に立たされるのは本人には不本意なものでも、そこでの彼らの闘いは権力と自由や民主主義の実際を示してくれるだろう。悪戦の中にあるとき政治家は本当は最良の場にあるのかもしれない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion163:101007〕