小石と砂利と砂に水

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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マーケティングという仕事の性質なのか、それとも外資の立場で取るに足りない手勢を率いて、巨像のような同業が群雄割拠している日本市場を切り開かなければならない立場がそうさせたのか、一つでも手にあまるいくつものことを並行して進めていた。

製品はどれにしても、アメリカの重厚長大産業や自動車産業向けに開発されたもので、同じ業界とはいえ日本には日本のやりかたがあるし、それにあった製品やサービスが日本のご同業から提供されていた。いってみれば、袖も裾も長すぎる、なにこれ?というスーツを売りに行くようなもので、どれもこれも度を越えて大きいし、重くて使いにくい代物だった。

そんな売るに売れないものでも、もたもたしていればレイオフになる。アメリカ本社に日本市場の特殊性を説いたところで聞く耳などありゃしない。売れない理由なんか聞くつもりははなからない。言ったところで、じゃあどうする?って切り返えされて終わる。どうするがなければ、そんなヤツはいらないと選手交代になる。

あれもこれもと可能性を求めて走り続けて、こっちで一つ、あっちで一つと実績を上げながら、野球で言えば、ぽてんヒットでも、デッドボールでかまいやしない、なんとかして存在を示さなければ明日がない。明日がないことを待っている同僚や上司もいるなかで走り続けて、命をつなぐようなことをしていれば、自分なりの仕事の回し方とでもいうのかやり方が必然的に決まってくる。

あれもこれもあって、一つのことをいつまでもやってられない。十五分単位で時間をきって、あっちをちょこ、こっちをこうしてとぐるぐる回りしながら、いくつものことを並行して進めていく術を工夫していく。大きなプロジェクトのようなことでも要素要素に分けていけば、前にやったことと似たようなことも多いし、部品のように使いまわしもきく。要素に分けてしまえば、変な比喩になるが、どんな仕事や作業でも小石や砂利にそして砂に分けられる。こっちの小石、あっちの小石とかたづけながら、砂利やそこからこぼれる砂のような雑務を組み合わせていく。

それはちょうど大きなバケツ、あっちのバケツ、こっちのバケツ、この間使ったバケツの使いまわしのように、片付いたものから放り込んで、この辺でちょっと調整しておこうかと整理しては、部品に相当する小石や砂利や砂を満遍なくバケツのなかに押し込んでいく。小石が大きすぎると小石と小石の間が空いてしまう。そこに砂利をと思っても入れ込めないことがある。残る隙間が多ければ、大きければ、バケツの利用効率が低いとでもいったらいいのか、なんとかして作業効率を上げるために小石の大きさをバケツの大きさに合わせる。

能力にも時間にも限りがあるなかで、最大限の有効性を求めてとなると、小石ばかりじゃしょうがないし、大きさも無駄な空間を残さないように、そして小石と砂利と砂の使いようを想定しながらの作業になる。砂利や砂に相当する作業は、しばし五分や十五分、総計してみれば、なかには一時間や二時間かかるものがあるにしても、あっちの小石、こっちの小石を片付ける間の隙間の時間の使いようで、なんとでもしていく工夫を繰り返す。そこでこぼれた砂、いってみれば小石と砂利の間の隙間埋めの小さな作業で、そのために日程とか予定とか考えるまでもこともない。あれこれしているなかで、ちょっと息抜きで片付けてしまう、ときには通勤電車のなかで目を通してしまう資料もあれば、そのときに答えをだしてしまうこともある。

あれこれなんとかかんとかしてバケツに小石や砂利に砂、そして最後に目にはほとんど見えない隙間さえも水を入れて、もうこの辺で止めて様子見、後は客の状況しだいで気長に待っているしかないことも多い。いつまでたっても市場を開けられなければ、そんな市場はほっぽり投げて、次のバケツ、その次のバケツ、バケツを入れ替えならが、あっちへこっちへと走っていれば、バケツの作り方も使い方も上手になっていく。バケツを間違えると、何をどう工夫をしても入れるべき小石もなければ砂利もない。

なんにしても要素にまでブレイクダウンすれば、多少の調整や手直しがあったにしても、どこにでも使いまわしがきく。ボルトはボルトだし、ベルトはベルト、チェーンはチェーン、ポンプはポンプ。それはソフトウェアでも同じで、それぞれ用途に応じてさまざまな仕様のものがあるが、用途に応じて使い分ければいいだけで、全体図を描くには「されど」というのもわかった上で使い回ししていけばいい。

工作機械にしても半導体の検査装置にしても、製鉄や印刷機械、純水システムもクリーンルームも製薬もチョコレートやビールもタイヤやオムツですら、どれもこれもみんな特殊。それでも、どんなものでも要素に分解していけば、必ず共通項があっちにもこっちにもあるのが見えてくる。

業界なり客なりをそれぞれ特殊なバケツとでも考えて、手持ちの小石を放り込んで、様子を見ながら、また小石、そして砂利に砂をとしているうちに、バケツもそろそろいい加減になって、新規市場で新規顧客を取り込んで……。

能力いっぱい、プツンと切れない限界まで引き伸ばしてのあれやこれやも、たとえていうなら、バケツに小石と砂利と砂、そして最後は水でかためて仕事を回していって、あがったところで営業に棚からぼた餅の受注で引き継いで、次のバケツとやっていれば、それなりに要領を得てきて、なにがあっても驚きゃしない、いっぱしのマーケティング小僧になっていく。

p.s.

<十五分>

あれもこれもとやらざるを得なくなって、気がついたら十五分単位であっちをやってこっちをとになっていた。三十代後半のことだから、もう三十年も前のことになる。還暦過ぎて、植物工場にかかわって植物生理学に首をつっこんだが、ここにきておさらいでもしておこうかと、『ふしぎの植物学』田中修著を読んだ。一般人向けの新書。なにもなくても読んでいけるが、なんとも重複が苛立たしい本だった。

それでも拾うものは拾う。いくつか拾ったなかで十五分には正直驚いた。十五分刻み、体内時計からきているらしい。

『ふしぎの植物学』にはなんども十五分がでてくる。わかりやすいところを引用しておく。

「赤シソや青シソは、夜の長さが九時間四十五分になってもつぼみを作らない。しかし、夜の長さが一〇時間より長くなれば、つぼみをつくる。オナモミは、夜の長さが八時間十五分ではつぼみを作らないが、八時間三十分になればつぼみをつくる。このように、多くの植物は、一五分の夜の長さの違いを識別する」

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion8723:190614〕