矢吹晋の尖閣問題に関する講演を二度聞いた。去年10月27日(土)と今年の2月23日(土)である。両日とも明治13年(1880年)の「分島改約」問題──日本案の沖縄二分割、清国案の琉球三分割案──をかなり詳しく説明した。流石である。
勿論、矢吹一人がこの問題を視野に入れていたわけではない。『日本の領土』(伊藤隆監修、百瀬孝著、河出書房新社、平成22年)には、「もしこのとき、調印すれば、宮古島八重山諸島は中国領になり、日清戦争で台湾とともに日本領土になり、第二次世界大戦後再び中国領になったことになる」(49ページ)とある。要するに今日の尖閣列島問題は起こらなかったわけである。
「分島改約」問題の要にして簡なる説明は、『高等学校 琉球・沖縄史』(新城俊昭、東洋企画、那覇市、1997年)第5章3「琉球処分」(141-148ページ)にある。必読であろう。
それでは、グラント前アメリカ大統領の来日と日清調停をチャンスに明治政府が熱心に推し進めた「分島改約」条約交渉を失敗させた最大要因は何か。矢吹晋『尖閣問題の核心』(花伝社、2013年)では「李鴻章が最後の段階で妥結を拒否」(11ページ)としか書いてない。その最大要因をテーマにした論文こそ西里喜行(琉球大学教授)「琉球分割交渉とその周辺」(『新琉球史 近代・現代編』琉球新報社、1992年)である。それによれば、日清による国土・国民の分割に反対する琉球王朝エリートたちが清国内で展開した必死の条約調印阻止運動がぎりぎりになって、清朝トップエリート達を説得しえたからである。ある琉球エリートは「一死をもって天恩を泣請し、すみやかに国主を救い国土を存せらるるを賜りたし」と言う請願書を残し、仮調印の一ヶ月後に自害した。1880年11月20日、この請願書を清国政府にとどけた者こそ、私が2月16日の「ちきゅう座 交流の広場」で紹介した詩「魚釣台前瞬息過」の作者蔡大鼎である。同じ日、日本国全権大使も清国政府を訪れて、即時調印を迫り、遅延を約束違反として詰問した。(53ページ)要するに、明治日本の反逆者が平成日本の愛国者なのである。
「分島改約」問題に関する国学院大学名誉教授の山下重一「改約分島交渉と井上毅」(『琉球・沖縄史研究序説』御茶の水書房、1999年)を無視できない。ここでは、日清交渉の機会を創ったグラント前アメリカ大統領が明治天皇の前で語った言葉を本論文から引用しておこう。「余の聞く所によれば、清国においては該島嶼間の境界を分画し、太平洋に出る広濶なる通路を彼に与ふるの議にも至らば、彼これを承諾すべしと。」(195ページ)まことに歴史とは反転するものだ。今日、中国を太平洋に進出させないように、尖閣問題で日本を活用するアメリカが、尖閣問題の発端の発端たる琉球処分問題では、清国の太平洋進出を容易にしてあげれば、沖縄諸島の多くが日本領になりますよ、と助言していた次第である。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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