大革命における「友愛」(フラテルニテ)の問題。
岩田先生は、<内田氏も説いたように、1789年フランス大革命で謳われた理念は、自由・平等・所有であってfraternitéはない>https://chikyuza.net/archives/5004と言われます。
確かに「自由・平等・友愛は、共和二(一七九三)年においてフランス人の国民的標語ではなかった」(オラール)と言われているのだそうです。(以下で紹介するの深瀬氏の論文による。)
しかし「友愛」という標語が、大革命の時代に――国民的標語ではないとしても――用いられているのも確かです。
ネットで検索すると、大革命期の「友愛」を論じているものとして、
深瀬忠一氏 <フランス革命における自由・平等・友愛と平和原則の成立と近代憲法的(今日的)意義 >
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15311/1/55(4)_p1-53.pdf
鵜飼哲氏 <「博愛」(Fraternite)について>
http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/10832/1/ronso1110300540.pdf
があります。
前者にはボルジェットの論文の紹介が、後者はM・ダヴィッドの論文の紹介がありますので、一部を引用します。
まず、深瀬氏の論文から
<彼[ボルジェット]は、先ず、思想的に、「世界市民的(人類普遍の)友愛」観念が、(フランス革命に向かって)次第に「否定(rejet)」される傾斜を持ち、「自由と平等」の「国民(nation) 」の「友愛」が必要となり、「祖国(Patriotisme) 」が「新しい友愛」として成立し、「自由・平等・友愛の三部標語 (trilogie)」が形成される過程を検討・分析している。>
<このボルジェットの研究によって、・・・実際上「友愛」の標語はほとんど見られなかった実証的研究に対して、實は、「自由・平等・友愛」の原則が、実在的に見て、まさに三位一体の相互不可分の論理的・構造的関係にあることを明らかにした>
<「友愛」概念について、「祖国Patrie」に「特権的地位」を与え、それを「自由と平等の存立条件」とし、「祖国」を「新しい友愛の源泉…」(「自由と平等が、祖国の条件」である)と説くことによって、「祖国」概念に活力を与え、「最も強力で持久力ある影響」とを及ぼし「フランス革命」の思想を準備したのは、J.J.ルソーであったことを指摘し、強調し、詳細に分析した。…これを要するに、それは、一八世紀フランスに支配的ないし多数であった「君主主義者monoarchistes」(ボシュエに代表される)と同時に「世界市民主義者(cosmopolites)から、同時に遠ざかるものであった。>
鵜飼氏の論文から。
<フラテルニテの意味の変遷を、ダヴィッドは五つの時期に分けて記述しています。>
<第一期。意外なことに『百科全書』の「フラテルニテ」の項にはこの言葉に寵められた新しい観念は見当りません。・・・一言で言えば百科全書派の人々にとって「フラテルニテ」は過去の言葉であり、とりわけこの言葉の持つキリスト教的なコノテーションのために、彼らの関心を惹かなかったようです。>
<それに対し、ルソーの諸著作こそ、「フラテルニテ」の驚くべき再生に最も貢献したことは明らかです。>
<大革命から共和制成立に至る第二期に、「フラテルニテ」ははっきりと政治用語としての地位を獲得します。この時期この言葉が、…革命への参加者の幅を、「よき市民」の枠を基本的には拡大する方向性を持っていたこと…>
<第三期のジャコバン独裁期になると、市民=兄弟の資格が厳しく問われ、「フラテルニテ」とは誓約の儀式を通じて可視化されるべきものになります。そしてこの言葉が反革命派とみなされた人々に対する暴力的排除を示唆する場合も多くなり、ついに「共和国の団結・不可分性・自由・平等・フラテルニテ、さもなくぱ死」という有名な標語が現れることになります。>
<九四年のテルミドールのクーデタでロベスピエールが失脚した後の第四期になると、「フラテルニテ」という言葉が急速に姿を消していくことが観察されます。それには次のような二重の理由があったようです。まず、…反共和派に「フラテルニテ」の範囲を拡大していくことは内外の情勢からしてにわかには不可能であったこと、他方ではこの言葉自体が、すでにあまりにジャコバン的な響きを持っていたこと。…こうして…標語としての「フラテルニテ」は執政政府時代から第一帝政にかけてほぼ完全に消滅し潜伏期に入ります。>
< 最後の第五期はダヴィッドの本の直接の対象にはなっていません。>
以上のような指摘を踏まえると、大革命期(あるいは革命前)における「友愛」(フラテルニテ)の問題を考察せず、<1848年になってフランスで「友愛」理念が樹立された>と理解されること、またこの理念の樹立を、「1793年のルイ16世の処刑」と結びつけて理解されることには、問題があるのでは?と思われます。
岩田氏の「見えざる手」理解について
すでに野沢先生が「岩田昌征氏の疑問点に答える」https://chikyuza.net/archives/5008 を書かれているのですが、この機会に私も「見えざる手」について、先生方にお伺いしたいと思います。
伊東光晴氏は次のよう言われる。<この見えざる手に導かれてという意味は、大方のエコノミストたちが理解しているような、需要と供給によって価格が決まるなどというようなものではない。スミスは、産業間資本移動の自由に基づく調整メカニズムに委ねたほうがいいと言ったのである。>(「経済政策」はこれでよいのか p.154-155)
また根井雅弘氏は<新古典派経済学の成立以降、「競争」という言葉は、まず、「完全競争」の条件(均質の商品・原子論的市場構造・完全知識・参入退出の自由)が満たされた状況を指し、「均衡」という言葉は、すべての市場において需要と供給が等しくなった状況を指すようになったが、古典派の人々は、これとは異なった見解をもっていた。
古典派の「競争」とは、簡単に言えば、極大利潤率を求めて各産業の間を自由に出入りする資本の可動性のことを指していたが、この意味での競争は、究極的には、各産業において均等の利潤率が成立した状態に導くだろう。この状態が、実は、古典派の「均衡」なのである>(経済学の歴史 p.358)。
これらの指摘に従えば、岩田先生の<『国富論』の「見えざる手」は、今日の現代ミクロ経済学の教科書・研究書で強調される市場メカニズム論の元祖>https://chikyuza.net/archives/4832という理解には、疑問が生じるのですが、如何でしょうか。