岩田昌征さんのコメント(1月24日付け)に応えて

1)日本的経営・生産システム(会社主義)の評価について

私は、岩田さんが引用されていた鍵山整充著『企業および企業人』(白桃書房、1977年)を読んでいませんが、戦後の第一世代から1970年代頃までの経営者には、このような考え方の人々がけっこう多かったのではないでしょうか。その背景の検討は興味ある研究課題ですが、戦後日本の大企業では、戦時中の経営者が追放されサラリーマンが一挙に経営者になったことや、ひと頃までは大学での経済学教育でマルクス経済学が主流だったこと、さらには50年代頃まで(その現実を知り得ないまま)ソ連・中国などの社会主義が発展過程にあったことも影響していると思います。マルクスの労働疎外論や搾取論を意識し、自らの属する企業を資本主義の悪弊から距離を置こうとする修正資本主義のイデオロギーだといえます。修正資本主義は、かつて資本主義の欺瞞的延命策という面が一面的に強調されていたと思いますが、それは福祉国家概念と共に、同時に社会主義的理念の部分的内部化の側面があると言うべきでしょう。(私のこの理解は、唯物史観に於いて、資本主義から社会主義への移行は封建制から資本主義への移行と異なり、政治権力の移行が先で経済社会の変革はその後の課題という通説と異なり、前者の場合も、資本主義自身の危機と労働運動や社会主義運動の相乗効果によって経済社会の変化が先行する、という理解に基づいていますが、ここではこれ以上立ち入りません)。従って、岩田さんが紹介されている「財界巨頭」の1997〜98年あたりを境に日本的経営が変容したと指摘されている点は、時期はともかくとして、私も同感です。労働基本権や生存権が形骸化しつつも、なお労働紛争の調停や裁判所の司法判断の面などで機能している現状は、「労働力商品化の完全復活」だとは思いませんが、その方向への資本主義的反動だと考えております。

2)日本会社主義と社会主義的変革との関連について

私はソ連型社会主義についてもユーゴスロヴァキアの自主管理社会主義についても、自分で研究したことはなく、岩田さんを初めとする専門家の研究成果についてきちんと勉強したこともありません(岩田著『現代社会主義:形成と崩壊の論理』はぜひ拝読したいと思っております)。私の社会主義論は、主として資本主義の原理並びに現代資本主義の観察から直感的に発想してきたものです。

資本主義の原理からとは、資本主義が市場経済の経済法則(価値法則)で充足している宇野弘蔵のいう経済原則を、人間の主体的な営みを通じて実現する社会と理解していますが、これを、市場経済を全面的に計画経済に置き換えることだと理解することは、遠い将来はともかく、現実には不可能と言ってよいでしょう。ソ連型の社会主義計画経済の失敗はその一例だったと思います。そうだとすると、市場経済を残しつつ(利用しつつ)資本主義を克服すると言うことは、資本主義を資本主義たらしめている(宇野弘蔵が資本主義の基本的矛盾の基礎にあるとした)「労働力の商品化」の止揚に焦点を置くしかない。そこに上記の「人間の主体的営み」の焦点があると考えたわけです。ところが、この「労働力の商品化の止揚」の具体的内容については、宇野学派の中でもあまり明確ではありませんでした。宇野先生が大学院のゼミで「労働者が自分で自分の賃金を決めることができれば、社会主義と言っていいだろう」とつぶやかれていたことだけが記憶に残っていました。

現代資本主義の観察からと言うのは、1980年代に行われた東大社会科学研究所の「福祉国家」をテーマとする共同研究に従事して、それが「権利としての社会保障」つまり生存権や、労働基本権を「公認」した資本主義であり、それこそが(管理通貨制や大衆民主主義と共に)現代資本主義の本質の一つであること、そしてそのそれぞれが、社会主義の理念を部分的に資本主義に内部化したものであると認識したことに由来します。

すなわち、労働力の商品性が具体的には、① その価格=賃金が市場で決まり、② 売れないときは(失業)は生存の危機を招き、③ 資本家による労働力の行使(消費)は労働者にとっては疎外された労働となる、の3点にあるとすれば、①’ 賃金の自己決定、②’生存の保障、③’ 主体的労働の3点が実現すれば「労働力の商品化の止揚」を言えるのではないか、と考えました。そして、旧ソ連では②’ が、ある種の過剰雇用を伴って実現しただけで、①’ と②’ はほとんど実現していなかったのではないか、それに対して、先進資本主義諸国では ①’ は「団体交渉権」という労働基本権で賃金決定への発言権が公認され、②’ は生存権(社会保障の権利)が公認されて、実質はともかく制度面では部分的な脱資本主義化、それも社会主義的理念の部分的内部化として進行している、と考えたのです。ただ、③’ については、欧米ではボルボの一工場に見られるような部分的実験はあっても、全体として労働者はアフターファイブを人間本来の生活と考え、労働はそのための苦行とする理解を脱していないのに対して、日本の大企業では、労働(というより仕事と言った方が正確かもしれません)を「生きがい」とする「会社人間」が生まれていることを見出したのです。もちろん彼らの労働は、結果としてはひたすら資本の利潤追求と成長に資するもので、その裏側には家庭と地域社会の崩壊という負の側面を伴っていたのですが、日本の会社主義がこのような労働者と労働を生み出したという点は、「労働力の商品化の止揚」に社会主義を求める理解からすれば、社会主義論において無視できない重要性を持つと考えております。ただ、この点を具体的に社会主義論の中にどう活かすことができるのかについては、まだ十分な結論に達しておりません。なお、以上の点について、私はソ連崩壊の直後、1990年秋に開かれた経済理論学会の共通論題で「労働力の商品化とその『止揚』−−福祉国家・日本的経営・社会主義−−」と題して報告していますが、後に正題と副題を入れ替えて、拙著『現代資本主義の論理』(日本経済評論社、1997年)第1章に収録しました。この理解は後に岡本磐男さんから批判的コメントをいただき、それにまだお答えしていないままになっております。

順序が逆になりましたが、社会主義への展望との関連での岩田さんのご質問には、日本の法人資本主義における所有の在り方(具体的には法人間の株式持合と自社株をたいして所有しない従業員出自の経営者)の評価についての問題がありました。これも理論的には上記論文で、資本主義の基本的矛盾の基礎を「労働力の商品化」ではなく、所有論視角からの「生産の社会的性格と領有(所有)の私的(資本主義的)性格」に求める通説への疑問と関連して多少述べました。生産手段の私的所有が資本主義の前提であることはその通りで、原理的世界では所有者(資産家)が資本の人格的担い手(経営者でかつ資本家)であることは確かですが、株式会社制度は後者を前者から次第に分離する傾向を作り出し、支配的大株主が法人に集中した日本の企業集団における株式持合のシステムは、その極限を作り出したものと言えそうです。これを直ちに「萌芽的な」社会的所有と言えるかどうかはまだ留保していますが、少なくとも「所有」が眠っている、つまりあまり機能していないということは言えそうだと思っています。そして私は、私的所有を社会的所有に置き換えることで直ちに好ましい社会主義になるとは考えておらず、社会を担う主体としての人間倫理の確立や民主主義的政治制度の徹底を欠いたまま所有を社会化すれば、旧ソ連のような国権的社会主義や、極端な場合にはポルポト支配下のカンボジアのようなグロテスクな「社会主義」にもなりかねません。従ってやはり「労働力商品化の止揚」を重視するしたいのです。

以上のような私の理解は、岩田さんが「右岸」と「左岸」という言い方で言及され、研究会当日の会場での質問にもありました資本主義と社会主義の収斂説ではありません。現代資本主義の現実のなかに、社会主義の理念がどこまで(岩田さんが言われる)「歪曲された」「不完全な」形で発生し内部化してきているかに注目し、それをさらに推進するには何か必要かを考える立場からの立論です。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study704:160204〕