スミスの「見えざる手」は『国富論』と『道徳感情論』にそれぞれ1回ずつ出ている。岩田昌征氏は11月29日の「評論・紹介・意見」欄でそれらの間に位相の違いがあるのでないかと疑問点を出している。そのさいに経済学者である奥野正寛氏と馬場宏二氏の本を参考にしているが、私はそれらを読んでいないので、両氏に対するコメントはできない。そこで岩田氏の疑問点にだけ、以下簡単であるが、答えたい。
その前に一言。世の一般の「経済学者」先生に言っておきたい。彼らはほとんどが、スミスと言えば、「(神の)見えざる手」を主張した人と言う。そのことは「いわゆる」近代経済学でもマルクス経済学でも変わりない。その人たちに言いたい。スミス研究のまじめな本を開いてほしいが、その暇がないと言うのであれば、自分で「見えざる手」がどこに出てくるか当たっていただきたい。それは『国富論』でいえば、第4編の重商主義批判をするところで出てくる。そしてその言葉が使われているところだけでなく、最低限その付近の、あるいはその章のなかで読んでほしい。つまり文脈を、全体を、理解していただきたい。そうすれば、産業構造が遠方の外国貿易と輸出精巧工業に傾いて脆弱になっている状態を、健全で強固な農・工・商の産業構造を再建するという課題のもとで出ていることが分かるであろう。さらに望むらくは、視野を他の編にも広げれば、「見えざる手」は重商主義階級や地主貴族の封建階級の利己心を批判するもので、中層・下層階級の利己心が道徳的で法的正義にかなって国民経済を作ることを内容にしていることが分かるであろう。
そこまでスミス研究者でない人に求めることは無理かもしれない。でも大学教授であれば学生を指導する時に「木を見て森を見ず」とならないように注意するだろう。そのことを自分にも向けてほしい。そうでないと、見ても見ないことになる。神話となっている「見えざる手」の文字があることを確かめるだけに終わってしまう。スミスが「神の」と形容していないことも疑問に感じなくなってしまう。「常識」の間違いを正す学者が「常識」に縛られる。かつて公式的なマルクス主義が批判された。それに匹敵するか、それ以上の公式的スミス主義が蔓延する。
マルクスは最初の刊行書である『経済学批判』で読者に求めたことがある。彼はその前の『経済学批判要綱』で「経済学批判序説」を書き、そこで自分の方法と目標を述べていたが、それを『批判』では出さなかった。彼は読者が『批判』を読むなかで自分でその方法を理解して欲しいと願った。スミスはどうであったか。『国富論』の冒頭の有名な分業論はまるで中学生に向かって書いているかのような書きぶりである。そして価値尺度論や価値論では読者に抽象的なことについてくるようにと注文していた。両書とも一般読者に向けて書かれているのであって、研究者に向けて書かれているのではない! このことを忘れてはならないだろう。
ちょっと長たらしくなったが、岩田氏の疑問点に戻る。『道徳感情論』と『国富論』では「見えざる手」が使われているが、その位相が違うのではないかということである。前者では封建的土地所有を正当化するために使われ(日本でいえば、江戸時代の領主・百姓関係を)、後者では近代市民社会を正当化するために使われているのではないか、そういう疑問である。それは論点になると思う。
『道徳感情論』では第4部第1章第10パラグラフで使われている。それは「自然の瞞着」は結構なことだということを論証する一つの例として使われている。まず、ここでのlandlord「地主」は多くのpeasant「農民」をemploy「雇う」人間である。その農民は家内召使いあるいは屋外使用人であって、そこには封建的なものが含まれる。農民がfarmer「資本制的借地人」であれば、近代的であるが、ここでの文章からは明確でない。ただその地主は土地をimprove「改良」するから土地資本の投下者でもあって、土地を所有するだけで地代を得る不労の封建領主とは違うようだ。この点でここでの地主・農民関係は中世のものと限定することはできない。それに岩田氏は論点にしていないが、スミスは当時土地の平等分配を考えていた者(古典古代称賛者)に対して文明の立場から土地生産物の均等的な分配は実現できると考えたのである。スミスは社会正義や人類愛の立場を否定するのでないが、それとは別の経済的な立場に立っている。
岩田氏が問題にしたように「見えざる手」が働く場の違いは考えられるが、それよりも両者に共通な点の方が大事である。それは前に触れておいたが、『道徳感情論』での「見えざる手」の議論はその部分が置かれている章(「効用の現れが技芸の生産物に与える美について」)とその章を含む第4部全体のテーマ(「効用が是認の感情に及ぼす作用について」)に関わっている。それはヒュームやハチスンの社会的「功利主義」を批判しているのである。
『道徳感情論』には2つのテーマがあり、①人はある人の感情や行為をどうやって道徳と認めるかの形式の問題、②その道徳の内容は何かということ。それを全6部(第6版では全7部)で解き明かそうというもの。①の問題については、人は他人の感情や行為をその動機の良しあしから価値判断するか、その感情や行為がもたらす社会的結果から価値判断するか、その2つがあるが、スミスは後者を批判的に検討する。(この点では『国富論』と同じである。)その『道徳感情論』の第4部の当の章であるが、そこでの議論はこうである。人間の作った物が美しいのはどういう場合か。それはその物が人間の役に立つか、あるいは目的とした効用にそれを得るための手段がぴったり合うかどうかである。前者は究極的には言えることであり、後者は直接的に言えることである。家は人間生活の便利のために作られるが、人はその効用をもっていい家だと判断することもあるが、それよりもその家が便利のために実にうまくできているその機構のゆえにいいと判断することのほうが多い。物の使用価値やその享受よりもそれを得る手段が精妙に配置され調整されていることの方に、人は注意を向ける。スミスはそのことを問題にするのである。
以上のことは人間の社会生活にも当てはまる。人は行為する時に、社会の幸福を思う純粋な気持から動くとは限らない。貧乏人は金持ちの生活が便利にできているのを見て、それを求めて富と地位を追い求める。富は幸福の手段であるのに、それが自己目的となる。他人からみて自分はどう映るかを気にして行動する。真の満足と平安を犠牲にしても。このことを嘆くのは「気難しい哲学」であるが、普通は人は目的にかなう手段の方を追求する。でもだからと言って、それは悪いことだけではない。それは結構な「自然の瞞着」であって、この転倒があって人は勤労に励み(トイル・アンド・トラブル)、せっせと活動をする。……この文脈の中で、例の地主の話が、地主は自分の利益を追求することで貧乏人と生産物を分け合うという社会的利益をもたらすという議論が、出てくる。スミスはかなりアダルトである。純真でなくソフィストケートされている。でも、時空を超えて、スミスの言うことはわれわれの胸に語りかけ、思い当たることが多い。理性とは別の生活感情で納得するものがある。
そして次のことが『国富論』の重商主義批判や自由主義の政策とも関連して論点となる。スミスは同じ章で、利己心だけでなく、「体系への愛」も公共利益を促進すると言う。公共精神をもつ愛国者は政治の対象である国民に対して、彼らへの同情や福祉を考えるよりも統治体系の完成の方を重視するが、その手段の自己目的化も結構な「自然の瞞着」だ、と。「見えざる手」の中に「体系の人」である政治家・立法者も含まれていると見ることができる。では『国富論』ではどうか。問題はこのようにして構成される。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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