市民的武装の憲法第9条

著者: 山端伸英 やまはたのぶひで : メキシコ在住
タグ:

先日、憲法前文の英文解釈《憲法英文解釈のすすめ》を提示させていただいた際、第1条と第9条についても解釈を試みました。その際、9条の「国権の発動たる戦争」(英語原文ではwar as sovereign right of the nation)の内容について憲法の専門家にお聞きしたいと申しました。英語の専門家にもお聞きしたいのですが、まあ、いまのところ、素人扱いされているのでしょう。全く反応はございません。それで、「日刊ベリタ」では、少し挑発的な、素人の訳を試みてみました。それを、訂正を加えて小生のブログに加えています。https://ameblo.jp/noeyamahata/entry-12458799296.html

しかし、本稿では、もう少し無謀な挑発を行なうことになります。日本においては憲法を語る際、英語の日本国憲法を参照することは一種のタブーとなっているような気配もあります。学界でも丸山真男や久野収の論文でも英文の点検は控えられています。最近、岩波文庫の「日本国憲法」には英文原文が組み込まれ、また政府のHPには、まことに奇跡的ではありますが、現時点でも英文と日本語の憲法が併記されているのであります。http://www.japaneselawtranslation.go.jp/law/detail_main?id=174

戦中、尾崎秀実の中央公論における諸論文のようにアジア世界を狼藉したあげくの果てに、国民は敗残にまみれ果てました(The  nation was  immersed in defeat)。それなのに、それゆえに、国内には国体護持の政治勢力しか連合軍の前には存在しなかったのです。国民は軍国政府による「非武装」のまま、「国防」を放棄した「国家」の下で、東京大空襲を始め各地でもB29の爆撃の犠牲になっていました。

敗戦後、完全に国民を侮っていた国体護持の政権は、GHQが憲法を作っているという情報に驚き、1945年9月27日のヒロヒト自身のマッカーサー訪問があったことは確実でしょう。天皇条項(第1条から第8条まで)の憲法全体のトーンとのゆがみは日本語にも、英語原文にもあります。天皇条項の中、第1条に will of the people という一句が入れられたのは、イタリアにおける王室存廃に関する国民投票(1946年6月)の熱い状況の下においてでした。もちろん、イタリア国民は王制を廃棄しました。

もう一度、ここに第9条の日本語と英語原文を掲示しましょう。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order,    the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

そして、またもや別の「英文解釈」を以下に提示させていただきます。

 

《第九条 正義と秩序を基盤とした国際平和を誠実に希求しつつ、日本人民は、国民の至高の権利として戦争を放棄し、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇と武力の使用も放棄する。

前項の目的を達成するため、陸海空軍およびその他の戦力は断じて保持されない。また、国家の交戦権は認められない。》

 

すなわち、「国権の発動たる」という戦争にかかる形容詞句は、英語原文にはない「戦争」への説明であり、as sovereign right of the nation の部分は日本語憲法では生きていないのです。そして英語原文においてこの部分は「放棄する」に対する副詞句として働いているのではないかというのが、ここでのささやかな提起でございます。実際、わたくしは日本の憲法学界とは全くご縁がありませんので、学界からあしらわれる必要すらない存在でございますが、皆さま普通の方々が、改めて憲法と接する際にはこのような形で正確な理解を求めることも、無法者国家における、学界・法曹界・政界・メディアその他の権威あるいは権力側から騙されない知識の創設には大切なことだと存じます。

 

さて、ここでは現行の日本語憲法の「国権の発動たる戦争」という「翻訳」については、あれこれ忖度するのを控えさせていただきます。公布以前に国会での承認を得ており、法制史上の問題を抱えていると思われますし、また幣原喜重郎による創案であるという議論もあり、この部分を正に「国権の発動たる戦争」と解釈する論理も有りえます。つまり、この条項については既に日本国内の憲法学界では議論も重ねられてきていると存じます。ここでは「日本人民は、国民の至高の権利として戦争を放棄する」という英文解釈について、まず述べたいと思います。これは憲法英文を日本の憲法として読む「海外の人々の解釈」を考えることになります。

 

A:日本人民は、国民であるという至高の権利をもって戦争を放棄する。そして、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇と武力の使用も放棄する。。。。このように解釈すると、日本人民(the japanese people)は、国民主権《the sovereignty of the nation》の権利(right)を論拠にして戦争を放棄すると読めます。

B:ここでは明らかに「the people」と「 the nation」との間に権利の差を読み込めますし、「国民」であることの特権が伺われます。

C:しかし、その日本国民の権利は、確実に日本人民に影響を与え、責任を持っています。そして、日本人民こそ戦争放棄の主体なのです。

D:では、ここで、「日本国家」と「日本人民」との意思疎通の問題が生じるでしょう。英語憲法は「日本人民」と言っている、「日本国家」とは言っていない、という論理が生じますが、もし、これを国家権力側が言い出した場合は、「日本人民は、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇と武力の使用も放棄する」という部分を何回も反芻する必要があるでしょう。第9条は、国内における民間武装を禁じていないのです。「独立国家だから自衛権がある」という論理で山口二郎などは「専守防衛」を国家にゆだねていますが、これこそ現代の、最も危険な思考傾向でしょう。第2次大戦中、その「独立国家の自衛権」によって抑圧され弾圧されてきたのは、国内の日本人民なのです。しかも、防衛省、自衛隊は福島の放射能垂れ流しと戦っているでしょうか? 日本人民は、国家武装を拒否し、自らの手で祖国を守る体制を作る必要があります。

E:戦後の保守政権はこの点に敏感で、銃刀法その他の治安法体系を最近に至るまで過剰に補充してきました。しかし、「日本人民」にはレジスタンス権もあるということを忘れてはなりません。

F:「有事」ということなら、われわれは広島や長崎のみならず多くの空襲体験を忘れてはいけませんし、市民側での防衛体制は必要です。国家は裏切るからです。

G:最近はアメリカでもその他の国でも、スーパーマーケット次元でさえ、かなり広範な武器の購入が可能です。それが「普通の国」の姿で、小沢一郎氏が90年代に盛んに言っていた「国家武装による国際協力」は国連憲章第53条に違反していると言う口実を設けることにもなります。削除決議はなされていても、削除はされていない現実があります。

H:英文の憲法前文にあるとおり、平和的な手段を持った国際的な協力関係を作るには非武装の人民次元の国際協力はさらに広げてゆく必要がありますし、日本人民はその歴史的な立場と敗戦国民としての使命をもう一度、反省・反芻する必要があると思います。

。。。。。。。。。。。。。。。

まだ憲法9条については論じられるべき点があります。それらは今後も、多くの憲法学者や多くの市民の責任であると思われます。しかし、それはこの第9条を守る責任から始まることで、その過程に英語原文の問題が存在すると言うことです。

《お詫びと訂正》前稿「憲法英文解釈のすすめ」におきまして、メキシコで公刊されている「POLITICA Y PENSAMIENTO POLITICO EN JAPON 1926-1982」において日本国憲法のスペイン語への翻訳が「日本語日本国憲法」を基になされていると指摘しましたが、小生の思い過ごしでした。この書物における翻訳は英語原文をもとに行なわれていました。監修者の方々に小生の誤りをお詫び申し上げます。この誤りは小生が執筆時に確認を怠ったことが原因です。同時に、以前、高畠との議論中に、《これでは外国側と日本側との相互の「誤解」が平行線をとったまま温存されてしまうのではないか》と思ったことが意識に残り、それが自分の中に錯綜して曲解の形を残していたプロセスがございます。