中国の現在の社会の在り方に関係する2つの話をしたい。
1つ目―筆者が中国の大学で日本語教師をしていた時の話。学生の日本語作文の中に、「この〇〇には市場がない」というような言い回しをよく見かけた。そのような言い回しを使った中国語を日本語に直訳したのだろう。普通の言い回しなら、「この〇〇には人気がない」という表現になるはずである。
後者のような普通の表現を使用せず、わざわざこんな言い回しを使うのが流行っているところを見ると、「市場(経済)社会」が中国の民衆に(少なくとも中国の都市住民には)浸透しきっていることがわかる―こんなことを筆者は感じたのである。
2つ目―ある日本語に堪能な中国人が、平田清明の『市民社会と社会主義』を翻訳して中国で出版しようとしたが、「お上」から「待った」がかかったらしい。「お上」が市民社会という言葉に「資本主義社会礼賛の臭い」を嗅ぎつけたのだろうと推測できる。日中の学術交流の上で残念なことであるが―こんなことも筆者は感じたのである。
さて、この2つの話をまとめてみると、中国では、「市民社会」と「市場社会」という1字違いの用語の間に万里の長城のような境界線が引かれ、前者はまったく無視される反面、後者は民衆の意識の中にかなり浸透している―この2つの話をまとめてみると、総体的にこんなことを筆者は感じたのである。
「市民社会」と「市場社会」。前者は政治形態やメンバー間の倫理・マナー、さらには文化的動向も含む広い概念であり、後者は経済のあり方に限定される概念である―マルクスの言葉を借りれば、前者は「上部構造」であり後者は「土台」ということになるだろう―したがって、確かに違う概念であるとは言える。しかし、両者に関係性がないわけではない。少なくとも「市場社会」という土台がなければ、上部構造としての「市民社会」はありえないのである。換言すれば、「市場社会」なしの「市民社会」はありえないのである。
だが、「市民社会」なしの「市場社会」はありえる。それは現実の歴史にも存在していた。ウェーバーが『プロ倫』の最後のパラグラフで描写した、「精神のない専門人、心情のない享楽人」で構成されるような社会、マルクスが批判的な目で描写した社会、すなわち資本主義社会(少なくともその否定的な側面)が、まさしく「市民社会」なしの「市場社会」の典型として存在していたのである。別の表現をすれば「倫理なき市場経済」と言えようか。
そして、それは、現在、中国という「経済大国」に息づいているのである。