平時の穀潰し、有事の人殺し

安保法案、憲法九条、集団的自衛権。。。軍備拡大に関して賛成も反対も、純粋?に心情的なものから、そこまでゆくと利益誘導じゃないかと思えるものまで含めて百家争鳴。いろいろな人たちが、それぞれの立場と視点で、自由に考えや意見を、いいことだと思う。

いいことだとは思うのだが、賛成意見に対する反対意見や、反対意見に対する反対意見。。。でてくる賛成反対が何層にも折り重なって絡み合い、言い合っているうちに感情的な発言までがたちこめて、ちょっと霧が濃くなり過ぎた。それを整理せんがためか、いくつかの原則論?のようなものまで持ち出して、これが本質だというような主張まででてきた。

何を知っている訳でもない巷の一私人、濃くなる一方の霧のなかに足を踏み入れるのを躊躇ってきたが、整理を試みるのも一興かと一二歩入ってみることにした。一興で終われば幸い。迷路に迷い込むことも、足を踏み外して頭の捻挫なんてこともないだろう。

1)規則だからは除外する

規則を持ち出すのも、決まりだからというのも、国家間の問題は武力でしか解決できないといった宿命論も、議論にならないというより、考えることを否定することになるから、はなから考慮の範疇から除外する。宿命だから、米国との条約があるから、憲法だから、国連の、法律の、外面はどうであれ内心は金儲け。。。なんでもいいが、こう決まっているのだから、賛成も反対も議論することではないというのも、原則論のようで原則論ではない。宿命を抑えて、乗り越えてきたのが人間の歴史だろうし、規則は人間が作ったものでしかない。規則の都合が悪ければ変えればいいし、変えなければならない。

2)軍隊とはいったいなんなのか

軍隊とはいったい何なのかという定義もなしでは議論にならない。議論をしているつもりで話してゆけば、迷路は複雑になる一方だし、霧はますます濃くなって、合意という出口は見つからない。というより、定義もなしで、合意などそもそも存在しない。存在しない出口を口から泡を飛ばして、よくて言い勝ったと思い込いこんで、入口から出てくるようなことになる。

軍隊とは何なのかについて、多少なりともはっきりした定義をしようと思うのだが、まずは消去法で枝葉を整理する。姑息な手段だが、ごちゃごちゃしたとき、作業を始める前の整理には有効だと思う。

軍隊は次のものとは違う。当たり前だと思うのだが、どうも巷には区別のつかない人たちもいるようなので、さっとなぞっておく。

(1)警察や警備保障会社とは違う

紛争地域に展開したアメリカ軍の人員削減が進んでいるように見せるため、正規軍となにも変わらない戦闘能力を提供する警備保障会社が派遣されている。それはもう傭兵で、ここでいう警察や警備保障会社とは違う。警察や警備保障会社が提供するのは市民サービスとその延長線にある雇用主(企業、ときには住民)への警備業務に限定される。装備は物を破壊したり、人を傷つけない範囲に限定される。

(2)災害救助部隊とも違う

非常時に備えるということでは、災害救助部隊は軍隊と似ている。ただし、災害救助は文字通り救助なのだが、軍隊は災害救助に力を発揮することがあるというだけで、救助を目的とした組織ではない。

では軍隊とはいったいなんなのか?歴史を見ても、その装備を見ても、何を見ても明明白白だと思うのだが、何をしてこのあまりにも自明のことが、あいまいになるのか、されるのか?することによって存在しえる、あるいはよりよく存在しえる社会集団が、社会的に大きな影響力をもって、自分たちの都合のいい方に人びとを誘導していると考えなければ説明が付かない。

「軍隊は、平時においてはゴクツブシで、有事にあっては破壊と殺人を目的とした集団でしかない」バイアスを取り払って素直な目で装備をみれば一目瞭然だろう。自動小銃に始まって、戦車にしてもミサイルにしても、戦闘機や爆撃機、戦艦に潜水艦。。。何を目的として作られているのか?自動小銃が増えすぎて困った野生動物の駆除に使えるとか、災害救助に軍用ヘリコプターが活躍することもあるだろうが、装備の目的は限りなく百パーセント近く破壊と殺人だ。戦車で開墾作業もできるだろうし、巡洋艦かなにかで難民救済もできるだろうが、それを目的として作られている訳じゃない。このくらいのこと小学生でも分かる。

有事に備えてというとき、有事とはいったなんなのか?紛争や戦闘、さらには戦争が始まりかねない非常事態と考えていいだろう。その有事に備えて平素から人員と装備を強化するのはいいが、平穏な日常生活がおくられている平時にその人員と装備はいったいなんなのか?繰り返す、軍隊は破壊と殺人を目的としている。平時においても有事においても破壊や人殺しはできても生産活動はしない。消費するものを生産することなく消費するだけで、生むのは武力衝突の可能性だけ。卑近な言葉で言えば、軍隊は平時においては、なんの価値も生まないゴクツブシ以外の何物でもない。人様の税金と社会の富を無駄に消費する、いない方がいい存在でしかない。

平時にはゴクツブシで申し訳ないが、いざ有事になったら、本来の役割を果たすのだからいいじゃないかということを言いだす人がいる。ちょっと考えて欲しい、その本来の役割とはいったいなんなのか?人命救助もあるだろうし、破壊されたインフラの代替え機能もあるかもしれないが、本質は破壊と殺人だ。これ以外になにがある?

国防などというもっともらしい言葉が宙を舞うことがあるが、軍隊が守るのは一義的に自分たち-軍隊であって住民ではない。素直に歴史をみれば、そんなこと一目瞭然だろう。住民を守らないで国を守るとは、いったいどういうことなのか?軍隊が守ると言っている国とは、ゴクツブシか人殺しが崇め奉られる社会ということじゃないのか?

さらに言わせて頂ければ、侵略を侵略と言って侵略した国も集団もない。歴史上すべての侵略は、自国民の保護だとか、自国(企業)の権益保護。。。常に防衛という錦の御旗の下になされてきた。侵略は差別と似たところがあって、される側はされていると思って、しばし周囲の関係者にはそれが明らかであっても、する側は自分の正当性を疑うこともなく、しているという自覚がない。

3)軍備強化は人びとを貧しくする

これも自明の理で、改めて説明することではないのだが、どうも一部の人たちは気付いてか気が付かないでか、この重要な点を見ていないのか、見ようとしないのか、見せないようにしているのか、ある意味ちょっと不可解なところがある。

限られた予算と人的資源を軍備強化に向ければ、向けた分だけ人びとの日常生活-平時の必要に差し向ける予算や人的資源が割をくう。当たり前だろう。軍備強化を進めれば進めるほど、平時のゴクツブシが増える。もっとも、そのゴクツブシが有事や訓練の際に使用する装置や設備を提供する、ゴクツブシと利益共同体の立場にいる軍需産業は潤う。これをして産業が奨励されるとか、新しい技術の開発が進むなどというバカげた論理を振り回すのまでいるから呆れる。

産業が奨励されると言うが、それは一般大衆の生活に関わる民需産業を犠牲にして軍需産業を振興することに他ならない。なんのための産業奨励なのか?ちょっと考えれば、大の大人がいうことじゃないことくらい分かる。

軍需目的でなければ技術革新が進まないというのは、初歩的な目的と手段の混同を表明しているだけだろう。一般大衆の日常生活の向上を目的として新しい技術の開発を進めればいいだけで、なにも軍事用途に開発されたものを民需用途に転用するステップを踏まなければならない理由はない。軍事用途に寄り道するだけ損をする。軍事予算があるから技術開発が進むなどと主張するのは、軍需産業の人たちか、その人たちのプロパガンダに犯されて頭の乱視を患っている人たちだけだろう。

繰り返す。軍備強化は一般大衆の生活を貧しくする。官産軍の三つ巴の共同体が既得権益層を構成し、さらなる利権拡大を進めるから、人びとの生活はさらに貧しくなる。

4)民生の豊かさを求めて

軍備を強化して一般大衆の生活が貧しくならない、時には豊かになる可能性が二つある。

(1)略奪する

強化した軍隊を使って、お隣の国でもどこからでもかまわないのだが、人様の富を略奪できれば、豊かになれるかもしれない。略奪によって豊かになるというと、スペインによる中南米の略奪やイギリスのインド支配などを思い出す人が多いだろうが、身近にも格好の例がある。だらしのないことに教科書には書いてない。官営八幡製鉄所を作った資金は日清戦争で勝利したということで清王朝から奪った賠償金だった。記憶に間違いがなければ、清王朝の年間予算が賠償金の名目で略奪された。官営八幡製鉄所が、それまで繊維産業のような軽工業しかなかった日本の重化学工業への成長の礎となった。中国がそのままに留まって、日本が重化学工業に進歩したのではない。中国を踏み台にして、はっきり言えば、貧しくして日本が豊かになった。

第二次大戦までは、先進諸国でもこの手法が当たり前のように使われてきたが、人類も多少は進歩して、この手法が公に認められる時代ではなくなった。人が人を殺せば、人の物を盗めば法によって罰せられる。この当たり前のことが、戦時中までは、国には適用されなかった。植民地争奪戦が続いていて、国は他国を侵略して、そこで人を殺しても、物を盗んでも罰せられることはなかった。戦時中までのように、国はやりたい放題の方がいいと内心では思っても、さすがに極右の人たちやタカ派の議員連中ですら、口にするのは美しい国までで、そこまで率直には言えない。

発展途上国では、いまだにこの原始的な富の獲得が後を絶たない。そこでは富も権力も軍隊が独占し続けて、一般大衆の日常生活が顧みられることはない。軍隊はその目的-平時のゴクツブシ、有事の破壊と殺人-があからさまで、存在価値を実証し続けるためにも、常に有事にあることを必要とする。北朝鮮のミサイル発射は典型的な例だろう。韓国との和平が進んで、平時が続けば、ただのゴクツブシに過ぎないことが情報管制下におかれている大衆の目にも明らかになる。

(2)兵器を輸出する

一般大衆の日常生活に使われる物-鉄鋼や自動車や家電製品や製薬。。。民需産業で国際競争力を失ってゆくと、親方日の丸で市場原理がはたらかない軍需産業の奨励という誘惑にかられる。

ミッテランの選挙公約破棄はそのいい例だろう。軍需産業の抑制を公約として掲げて首相になったはいいが、民需ではフランスの製造業がドイツの製造業に競合しえないところまで痛んでいた。ドイツは、第二次大戦の教訓なのか後遺症もあってか、民需産業を強化し続けてきた。ドイツが国是として手を出しにくい軍需産業と原子力発電しかフランスが競合できる産業がなかった。雇用を守らなければ政権運営ができないということで、公約を破棄して、軍需産業と原子力発電に注力し続けた。

昨年ウクライナ問題の後で、契約通りロシアに巡洋艦を輸出するのかが問題になった。輸出しなければ、軍需産業の労働者をレイオフしなければならないという騒ぎは記憶に新しい。

先進国は自国の軍需産業をもっていることから、武器輸出の多くが紛争の絶えない発展途上国になる。近代兵器がなければ、刀と槍と弓矢。。。、紛争があったころで、今日目にするような規模の破壊も殺戮も起こらない。シリアの悲劇は起こらないし、難民問題など起きようがない。

自前で武器を製造できない紛争国に大量破壊と殺戮の手段を輸出すれば、儲かる。軍需産業が奨励される。軍需産業が奨励されれば民需が細る。民需に回る資金も人材も細って、ますます国際競争力を失う。政府がそれをしようとしているとき、日本人として、人としてそれを支持するのか?議論の余地があると思うのは、金が全ての利権屋と軍需産業のゴロツキどもしかいないと思うのだが。

軍需産業はアヘンのように中毒症状をもたらす。中毒症状がいいすぎなら悪循環でもいい。軍需産業を奨励するということは、一般民生産業に振り向けられるはずの資金や人材を軍需産業に充当すること他ならない。民需産業で競合が難しくなってきたからと軍需産業に資金や人的資源を割けば、民需産業が競争力を回復するための原資が減る。韓国や中国にタンカーでは立ち行かなくなった造船業でも巡洋艦や潜水艦なら、国の支援も受けて競争力がある。ただフランスをみれば分かるように、始まった悪循環を断ち切るのは難しい。民が痛んで軍が潤う悪循環が続く。

5)精神的発展途上国と競争するのか?

近隣では軍隊が社会の中枢に居座って、常に有事を作り出すことに腐心して、人びとの生活を切り詰めて、平時のゴクツブシを増やして、官産軍のゴロツキどもを増殖させている。それに呼応して、現政権が進めている憲法改正、安保法案。。。精神的発展途上国の近隣と何が違うのか?

破壊と人殺しの装備を製造して、価格競争のないなかで暴利をむさぼる軍需産業を何と呼べばいいのか?ゴクツブシそのものは、金は使っても、儲かる稼業じゃない。軍需産業は競争原理の外にいて、荒っぽく儲かる。ゴクツブシの上をゆく破壊と殺人の、それも国を超えての共犯者-ゴロツキ辺りがちょうどいい。

軍備強化の罠にはまっている精神的発展途上国と競争して、民主的先進国と自認しているはずの日本が、平時のゴクツブシ、有事の人殺しを増やして、それで禄を食む官産軍のゴロツキを養う。紛争が起きる可能性を高めて、貧しくなる競争をしたいと思うのは、その方が得なゴクツブシとゴロツキだけだろう。

ここで人は歴史に学ばないのか?という疑問は成り立たない。ゴクツブシとゴロツキどもは、しっかり歴史から学んで、かつてのよき時代を再びだろう。そいつらには良き時代だろうが、一般大衆の視線でみれば、どう考えても正気の沙汰とは思えない。日本人の良識と理念が問われている。

施政者の言葉には、その都度毎の都合に合わせたごまかしがあるが、歴史によって精査されてきた故事成語には真理に近いものがある。「良鉄は釘にならず、良民は兵にならず」この中国の成語、よもや今の中国の官産軍はいざ知らず市井のフツーの人たちが忘れているとは思えない。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6052:160425〕