御庄さん、もう会えないと思うとさびしい。それでも4月19日国際会議場で開かれた「偲ぶ会」のスクリーン(「火皿」の会での集合写真だったと思います。)に映された御庄さんの笑顔は、その横にぼくを置いてもらっていましたが、ずっと現在形でぼくの脳裡にいます。御庄さんはぼくらにたくさんの財産を遺してくれました。
御庄さんは、ぼくの大好きな詩人でした。御庄さんからいただいた最初の詩集は『御庄博実第二詩集』。その冒頭の詩編は「私は鳩Ⅰ-花又は春」でした。
「舞いあがれば花/陽に目覚め 陽に燃える」ではじまります。その響きとその夢幻がみずみずしく華やかで、ぼくの心をガーッとつかみました。そのシリーズは「八月六日」を含む嫌な夏の散文詩の世界に移り、それが川の流れに托して思いを世界に駆け巡らせる「川又は秋」に転調し、自分の将来を重ねていた「黒髪のあなた」が「幽鬼のように、蒼ざめ、半身を黒く血に凝らせながら帰ってき」て、やがて逝ってしまった「雪又は冬」に沈んでゆきます。その逃れられない哀しい感動を、ぼくは御庄さんにいくど伝えたことでしょう。
『第二詩集』が発行されたのは1999年。ぼくが御庄さんにはじめて会ったのは、2000年の12月22日でした。「私は鳩」Ⅰ~Ⅳは強烈でした。御庄さんは、「60年6月15日」に安保改定反対の国会デモの中で一女子学生が命を落とした、その日の一部始終を聞きたいとのことでした。その少女の名は樺美智子。
ぼくはその年4月に駒場から本郷に進学して、すぐに東大中央委員会委員、東大文学部学友会委員長に選ばれました。朝1時間目大教室に出向いて、授業前の教室で学生に当日の行動計画を伝えることから、日課をはじめました。それから執行部を集めて戦術会議を開き、計画を確認し、もう日課になってしまったと言ってもよい国会への波状デモに出かけていました。夜は、全学あるいは全都あるいは全国の活動者会議が開かれ、翌日の行動方針を決めていました。樺さんはぼくの1級上。3月まで学友会副委員長を務めていました。彼女とは駒場時代から一緒に活動していました。4月以降も、夜ぼくは阿佐ヶ谷まで、彼女は西荻窪まで同じ中央線で帰ることがよくありました。4年生になって、徳川慶喜をとりあげる卒業論文のための資料発掘などもはじめていましたが、そこで気づいたことなどを話してくれました。そのころのぼくにはなぜ今、徳川慶喜なんだと思っていたのだと、聞き返していたと思います。そのころ、ぼくには明治維新の立役者のほうに関心がありました。彼女は、ムキになって、少し姉貴風を吹かせて説明していたのですが、日常の話題もふつうに話せる先輩でした。世の中は、ぼくらのことを、過激派だとか、極左冒険主義だとレッテルを貼り、あまり好意的ではありませんでした。
それでも、6月15日前日の文学部学生大会には出席してくれ、「国会突入」を決議したときには、会場の階段教室の高いところから拍手を送ってくれました。その翌日午後、彼女はスラックス姿で文学部アーケード下の文学部集会に参加してくれました。皆がみな自分流の近況を話しながら地下鉄丸ノ内線の本郷三丁目から乗車し、国会議事堂前で下車して、他大学のデモ隊に合流しました。
そのデモはどのような隊列であったか、その隊列のどこに樺さんがいたかなど、そんなことを、御庄さんにぼくは記憶にあるだけ話しました。御庄さんは、質問をはさみながら、それをメモにとりながら聞いてくれました。ぼくらはどのようにして南通用門を引き倒して突入したか、門の内側にあった装甲車の防衛線をどのように突破したか、話しました。
些細な、ふだんは気にもとめない、いわば「小さな」出来事が歴史を作りだす「大きな」出来事に呑み込まれてゆくドラマツルギーを、詩人の御庄さんはよく知っていて、その細部の説明を書きとっておられました。御庄さんは、ぼくらの行動の理解者でした。
国会中庭で安保改定阻止をさらに貫徹する決起集会を開いたひとときの後、機動隊が突然現れ、ぼくらデモ隊を国会外へと押し出しました。門外に出た直後だったと思います。
ぼくらの指令本部から、女子学生がなくなったらしい、樺さんらしい、遺体は警察病院に安置してある、確認してほしいとの連絡が入りました。ぼくはもう一人の、樺さんが信頼していた仲間を誘って警察病院にかけつけました。遺体が樺美智子さんであることを確認しました。
彼女の遺体は慶応義塾大学法医学解剖室で仲舘教授のもとで司法解剖されたそうです。御庄さんの『ヒロシマにつながる詩的遍歴』(2002年8月6日発行)には、その模様がしっかり綴られています。『詩的遍歴』には、この60年安保の回想と樺さんの死の章は、先述の「私は鳩I」と「私は鳩IV」に挿まれるようにして収録されています。「私は鳩」シリーズに、国会南通用門で「殺された一人の少女」が列聖しているようでした。
6月15日の翌日、代々木病院に勤務して6年目の御庄さんは、中田友也代々木病院副委員長と坂本昭社会党参院議員・国民救援会会長(医師)から一冊の大学ノートが託されます。そこには、仲舘教授の解剖所見が一語も漏らさずに記録されている、それを「伝研(=東大伝染病研究所)の草野(信夫)先生に読んでもらって、樺美智子さんの死因をまとめてもらいたい」の命を受けられました。その草野先生の所見を、御庄さんはまとめられました。死因は「警棒による腹部-膵臓の挫滅と、更に首を絞められての窒息死」とされました。仲舘教授の7月23日の鑑定書でも、「手指による扼頚、鼻口部の閉塞、宗腹部の圧迫」の3点と「死の直前に起こした外傷性膵臓出血が相重なって窒息死した」と記されていました。だが検察庁はそれを隠して、再鑑定を依頼し「人ナダレによる圧迫死」として処理しました。しかもその鑑定書は公表しないと発表しました。
医師として、当時の検察庁、(そして統治者の)この事実隠蔽と捏造を許せない、御庄さんはゆるせないと、40年間思いつづけてきたのでしょう。御庄さんは、このとき死者の思いを、隠蔽と捏造に消されることなく、きちんと伝えようとする、戦後日本の代表的な医師3名に出会ったのです。代々木病院の中田先生、国民救援会会長として反体制の犠牲者を支えてきた坂本先生、それに原爆症を世界にはじめて告発し、のちに原水協の理事長を務め、チェルノブイリまで出かけられた草野先生。御庄さんはかれらから、強烈な医者魂を受け継がれました。
その真摯な姿にぼくは驚き、しかも感動し、ぼく自身を恥じました。坂本先生の「鈍器で腹部を膵臓挫滅出血、首を絞められた」とする所見をぼくらは知っていました。日本社会党が樺さんの所見を含めて、6月15日夜の南通用門で機動隊の暴力に対して、警視総監を含めて機動隊を告訴したことも知っていました。ぼくら自身もいろいろな集会、たとえば原水禁世界大会の会場で、そう訴えました。だがそれから時間が経過し、大学の研究室で美学の世界にこもる中で、どこかで、「人ナダレによる圧迫死」という検察庁の判定の前に、「あるいはそうかもしれない」とこえが小さくなっていったことも事実でした。だが、自分の眼の前に、しかも広島で、樺さんの最初の解剖所見に接し、みずから死因報告を書いた医者がおられて、その方がその後の政府の隠蔽工作に抗して真実を語りつづけていることを知りました。そのような医師がいることに、ぼくは心底感動し、自分の弱気を反省しました。
御庄さんは2010年12月24日づけで「樺美智子さんの「死の真相」(60年安保の裏側で)-60年安保闘争50周年」を書き残されました。ぼくらへの遺言のようです。御庄さんはこのすばらしい60年安保総括を書かれたとき、おそらく肩の荷を下ろされたことでしょう。ぼくは今「御庄博実 樺美智子 地球座」で検索して、インターネットから見ています。http//chikyuuza.net/archives/5376
先述の『詩的遍歴』にも、この安保総括にも、ぼくの御庄さん宛ての長文の書簡が多く引用されていました。6月14日から15日までの、東大本郷での、文学部の光景が記されています。はげしく闘った、だが何十年か経って、自分を相対化したために少し弱気になった、ぼくの記憶がつづられています。樺美智子が御庄さんとぼくを結びつけているようです。
安保総括の最後に御庄さんは「一人の少女の死を追って」という美しいがきびしい詩を付しています。飛ばし読みを許してください。「僕は長い年月 霧の中を歩き続けていた/あの夕 死んだ東大女子学生と肩を組んで国会に突入したNさんと始めて会った/五十年が過ぎている。/・・・・・/五十年前六月 国会の前庭で/一人の東大女子学生が死んだ/警防様の鈍器で 激しく腹部を突かれ/膵臓頭部を挫滅 内出血/慶応大法医学教室で見た血に染まった膵臓/ほとんど瀕死の少女の/のど笛に更に薄い扼痕があった/首を絞められたとどめの痕だ/少女は殺されたのだ。おおきな歴史の曲がり角であった/・・・・・。」
そこでかれは「あたかも善意であるかのようなあいまいさ」を歯ぎしりしながら、「過去の歴史の歩み」を明らかにしようとしない「僕たちの国の戦後史」が「今俎上に悪臭を晒している」と言う。
ぼくの盟友水島裕雅が広島に根付かせた「広島に文学館を!市民の会」があります。その会が主催した「広島の文学を語る」という自作朗読会がありました。その第3回に、御庄さんは「詩人の眼」という題でお話になりました。2002年9月22日午後2時となっています。そのレジュメに、G.ヤノーホというチェコの作家が記した『カフカとの対話』からの抜粋があります。そこにはこう書かれています。「すべての人間が生活のために必要としていて、しかもなんびとからも貰ったり買ったりできぬものが真実です。人間は一人一人が、みづからの内部から真実を絶えず生みださねばなりません。さもなければ死滅します。真実なき生活は不可能です。おそらく真実とは生活そのものかもしれません。」
真実を生きる、そうなのです。ふつうぼくらはそう言いません。「長い物にまかれよ」。「嘘も方便」、「上の者には勝てない」。世の中には、上手に生きてゆくために真実をオブラートにくるむことをすすめる格言は多い。だがそれ以上に、欺瞞、隠蔽、捏造がはびこり、それが腐臭を立ち込めている、これを嫌って、御庄さんは詩人を選んだのだと思います。「詩人の眼」に殉教する道を、御庄さんは選ぼうとされました。ヤノーホの「カフカとの対話」の中の一句が、御庄さんの座右の銘だったのでしょう。「詩人は、現実を変更しようとして、人間に別の眼を嵌めようします。したがって、彼らにとっては元来国家に危険な分子です。かれらは変革しようとするのですから。」だが御庄さんは、その「詩人の眼」を医師の眼に重ね合わせました。その二重の、だがほんとうは一つの眼で、御庄さんは被爆の患者を診察し、樺美智子の死因の真実を語りつづけ、韓国の被爆者に自分史を書かせ、最後までやさしく付き合いつづけたのだと思います。
最初に御庄さんにお会いした数日後の元旦、御庄さんから年賀状が届きました。そこには印刷文でこう綴られていました。「新しい世紀に/差別と 硝煙と/ガス室と ピカと/貧困と 飽食との/百年が過ぎた// 宇宙船 地球家族 いま/HARUの天空を懸ける/僕らの未来を開く/温かい一杯のスープはあるか 2001年 元旦」と。そこに次の私信が添えられていました。「僕なりにぼつぼつ歩きつづけます いいお仕事を続けてください。年末いい出会いでした。」
21世紀になって10年余、「ぼつぼつ」どころではありませんでした。つぎつぎと照準を的確にさだめて、詩集を出し、韓国人被爆者を支援し、一人ひとりの生き方がじつは「大きな」歴史を引き裂いて、真実を際立たせてゆくことを応援し、なによりも戦後広島の輝かしい詩人列伝を創造いたしました。ぼくらがともすれば、「大きな」歴史に対して卑屈になる、その根性を、御庄さんは「それがいけない」と言っておられました。
国会では、1960年から数えて55年、今三度目の安保論争がされています。抽象的な、下書きの答弁書を読まなければつかえないような空疎な概念が賢げに繰り返されています。自衛隊員のリスクが語られます。だがその自衛隊員に、普通の何の防御もしていない、戦場でおびえる市民や子どもたちを殺すようなことをさせてはならない、とぼくらは思います。国益、愛国を掲げて、現地の普通の市民や子供や女性のイノチを絶つことを正当化する論理などあるものか。国家は虚偽意識だということを、御庄さんは言いつづけました。そしてぼくらも戦後の教育の中で、国益の向こうの平和をコトバと存在が真実の裏表になるほどにたたきこまれ、60年安保をたたかったように思います。それをこれからもお経のように唱えつづけたい、ご冥福をお祈りいたします。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion5409:150614〕