心 性 へ の 侵 犯 —–『誘惑者』—-(1/2)

著者: 藤倉孝純 : ドストエフスキー研究者
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        地 獄 を さ ま よ う 魂

――高橋たか子・洗礼まで――

目  次

【Ⅰ】 作家の特徴 (4/5掲載)

―『渺茫』によって―

【Ⅱ】 わたしが真犯人なの――?(4/7掲載)

         ―「ロンリー・ウーマン」―

第一章     乾いた響き

第二章        なりすまし

第三章        「それは私です」

【Ⅲ】 (めくら)めく灼熱を歩いたのだ(4/10、13掲載)

        ―『空の果てまで』―

第一章 エピソードいくつか

      第二章 哲学少女

第三章 第一の犯行

第四章 第二の犯行

第五章 火急の自分

【Ⅳ】 心性への侵犯(今回掲載分-第1章~第3章/第4、5章は次回)

―『誘惑者』―

第一章     言いようもない

第二章     私、不安だわ

第三章     ロマンのかけらもない

第四章     なんでもできる

第五章     詰襟の学生

【Ⅴ】 自分探しの旅路

       ―「奇妙な縁」―

第一章     老女るりこ

第二章     出会い

第三章     幻影

第四章 羽岡フレーズ

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本編は、高橋たか子(四十四歳)の代表作として評価の高い長編力作で、1976年6月に刊行された。作家はこの作品によって、人間の精神の奥底に棲む悪を追究して、生のあり方を問うている。本編主人公・鳥居哲代は二人の友人の自殺を教唆・幇助した。一方、作家はこの作品の執筆中に、魂のアジール(Asyl避難所)とも言うべき修道院へ短期滞在し、75年にカトリックの洗礼を受けた。作品のドラマチックな展開と、作家の精神のドラマはどこかで重なっているはずである。そこを読み解くのが、筆者の目的の一つである。

第一章 言いようもない

 

高橋たか子は作品の冒頭部分に、特段の集中力を見せる。「渺茫」、『空の果てまで』、「ロンリー・ウーマン」の書き出しの秀逸さに、筆者はコメントを付して評価を惜しまなかった。本編冒頭部もまた素晴らしい出来栄えである。数多くあるこの作家の作品中で最も優れている、といっても過言ではあるまい。たとえて言うならば、フル・オーケストラの全楽器がいきなり、「主題」をフォルテシモで演奏しはじめて、聴衆に有無を言わせず楽曲の世界へ引きずりこむに似ている。

「詰襟の制服を着て黒縁の眼鏡をかけた大学生」は、伊豆大島警察署の刑事に昂奮しきった様子で、早口に供述を始めた。その供述は、昭和二十五年三月十九日午後二時と日付けされて、後々重要な調書となった。

大学生は前日の18日午後4時頃、三原山の山頂を降る時に、二人の女学生が頂上へ向かって登るのにすれちがった。その日の午後5時、大学生は女学生が一人で下山するのを目撃した。そして、翌日、元村港で東京行きの船を待っているその女学生に出会った。大学生は女学生に不審な点を感じて、警察署へ飛び込んだ。刑事が大学生を伴って元村港へ急向した。こうして「事件」が表面化したのである。

大学生は供述のなかで、夜になった三原山の恐ろしい様子をくどく、繰り返した。

「昨日は雨もよいでしたから、まだそんな時間でもないのに、一刻一刻と空が暗くなっていくようで、ぼくは気が気じゃなくて、あたふたと下山を急いでいたのです。まだ夜でもないのに山そのものが夜になっていくようで、それが背後から追いかけてくるような恐さは、男のぼくでも、それはそれはたまったものではありませんよね。何しろ人気ないといって、これほど人気ない場所はない。溶岩だけなんですからね。(p6 『誘惑者』 講談社 以下同じ)

大学生はさらに言葉を補った。昨日、下山するころには外気温が急激に下がって、冷え込んできたので五合目茶屋で熱い牛乳を飲んだが、その頃にはあたりはすっかり暗くなってしまい、右も左も枯れ木だらけで、ごつごつした溶岩の山はぞっとする感じだった、と。

登山の経験者ならば、陽が落ちた後の下山行がどれほど危険であるかは、体が覚えている。登山では払暁と同時に行動を開始するのが常識である。午前中どれほど天候が安定していても、午後には突然稲妻と共に雷鳴がとどろき、激しい雨になる。雨は登山者の体温を奪い、視野を狭める。ガスも出やすい。あたり一面が乳白色のガスに包まれると、登山者は岩石に印されたペンキの矢印を確かめたしかめ、慎重に行動する。山の天候が急変しやすいのを知っている登山者は、だから、午前中にその日の行動のあらかたを済ませてしまい、3~4時までに下山を終えるか、山小屋へは入るのである。足許が暗くなってからの下山は、特に危険である。登りは体力は消耗するが、足許の安定は確保できる。降りは踏み出した靴先の一歩に全体重をかける。安定した足場を確保できないまま、“遊び石”に体重をかけたら、転倒、転落もありうる。降りは体力よりも、神経を消耗する。足許が暗くなった時間帯での下山は、突発事故(例えば同行者の怪我)がない限り避けるのが、山の常識である。

大学生の話は続く。五合目の茶屋で暖を取りながら、大学生は山の斜面を見上げた。すると上のほうで、気のせいかなと思うほどうすい灯がちらちらと動くのが眼にとまった。灯が近づくにつれて、その灯が懐中電灯の明かりだと分った。下山してくる人は、懐中電灯を肩から紐で襷にかけているらしく、歩くたびに灯がぶらぶらと揺れた。ぞっとするような溶岩の山肌の暗闇を、かきわけかきわけしながら降りて来たのは、女学生であった。山頂ですれ違った二人連れの一人だった。大学生はその女学生の様子を、ふらりふらりと酒にでも酔っているかのように歩いていたが、しかし、その顔には少しも感情が見られなかった、と警察で証言した。

この女学生は、急勾配の下りも、浮石の危険も気にならなかった。いや、より正確に表現すれば、後述するように彼女には、そんな事に気を遣う心の余裕がなかったのである。彼女は、心ここにあらざる態で脚を機械的に交互させながら、下山を急いだのであった。それはまるで、浮遊する幽鬼さながらの様子であった。薄明かりに浮かんだ彼女の顔には、怒りも、羞恥も、絶望もみられなかった。気力と体力を限界まで消尽した後の彼女の眼は、対象を何も捉えてはいなかったはずである。両眼はただ前方へ向けて開かれていたに過ぎまい。顔の筋肉は、ピクリともしなかったであろう。大学生はその顔を「能面みたいにみえました」と警察で語った。おそらく、彼女の心も硬く、硬く閉ざされたままであったろう。

一体、この女学生の身に何が起こって、こうまで虚けた様で山を降りているのだろうか。読者は冒頭からこの女学生に深い関心を寄せる。作家は、この女学生がどんな衣服を着、どんな靴を履き等外貌はなにも記していない。彼女の異常さは、外観にはない。外観を通して認めることのできる彼女の内面の異常さが、読者を捉える。能面のような顔から想像できる彼女の心の寂寥はいかばかりであろうか。フラッシュライトの淡い灯を点滅させながら山を降りる彼女は、冥界から戻ってきた幽鬼さながらの様子ではないか。幽鬼のような相貌をして、無意識に歩き続けるこの時の彼女の様子こそ、本編の「主題」へ連なる主たる情景である。この女学生が本編の主人公、鳥居哲代である。

予め本編の構成を示しておこう。まず「序章」があって、鳥居哲代がおかれている「現在」が紹介されて、以下第一章から第八章までが、哲代とその友人二人の「過去」が語られる。最後に「序章」の鳥居哲代へ戻る回想形式である。叙述は重厚、濃密であり、心理描写は精緻を極めている。本編の世界を知悉する「語り手」が叙述を進める三人称客観手法である。この「語り手」はほぼ作家と同一視できるので、本拙論では「語り手」と作家とは厳密に区別せずに、適宜両者を使い分けた。

大学生から通報を受けた大島警察署の刑事は、元村港へ急行した。刑事から呼びとめられた鳥居哲代は強い視線で振り返ったが、無表情のまま、しかし素直に警察署へ入って行った。彼女は連れの女性に関して、参考人として刑事の事情聴取を受けた。連れの女性には自殺が疑われた。事情聴取は型通り、人定質問から始まった。生年月日、昭和五年一月二十五日、二十歳。京大文学部心理学科二回生。現住所、京都市下京区――。大島では、三原山の投身自殺は、めずらしいことではない。単身の自殺なら遺体の捜索、遺書、遺品の確保、その上で身元の確定作業がある。今回の事件は様子がちがう。大学生の供述から推測すれば、鳥居哲代は自殺幇助かもしれないが、無理心中の生き残り、あるいは無理心中を装った殺人の可能性もある。また、単なる事故死も当然想定できる。刑事は慎重になった。

任意出頭に応じた鳥居哲代は、硬い木製の椅子に礼儀正しく坐って、刑事の質問に淡々と答えた。青白い顔はしているが、さほど衰弱した様子は見られない。刑事の質問に答える哲代からは、精神の異変は認められなかったが、事件が彼女自身の身へ及ぼしかねない事態には警戒心も防御意識もみられなかった。さらに、彼女の表情には、一点だけ特異な所があった。

(その表情は)外にはむけず、むしろ内へ内へと表情を落盤させていくとでもいった顔附きが、人眼をひく。何も見ず、自分の内だけを見ている眼なのである。(p10)

どこか完全な無関心の面持ちが女学生にはある。何にたいする無関心かはいいようもない感じの、それは無関心である。(p11)

彼女の無関心さは、作家によれば「何に対する無関心かいいようもない感じ」なのだが、筆者は作家の注釈を一歩進めたい。哲代の無関心さは、自己の内面、もしくは自分の問題意識以外に対して無関心なのであるが、逆に、自己の内面に対しては、細大漏らさずストイックに関心を集中させる。彼女の関心はなぜ内へ、内へ向かうのであろうか。青年期にだれしもが体験する一過性の自己懐疑、あるいは自己不信の類であろうか。それもあるかもしれない。この疑問はいずれ彼女自身が回答してくれる。ここでは、彼女の考え方の特徴を確認しておこう。彼女は物事をすべて抽象化したがる。「◯◯とはそもそも何ですか」という思考形式である。一例を示そう。刑事との間にこういうやり取りがあった。

「ところで、友達が死んだというのはどういうことですか。目撃したとあなたは言いましたね」

「自殺です」

女学生は刑事が眼をあげたので、(刑事の)日に焼けた広い額(小略)を見ることができた。その顔の特徴を、物でも見るふうに見つめて、自殺です、と言った。

「自殺を助けたというのだね」

「そういえばそうです」

「そうではないというのか」

「いいえ」

女学生は、続けて何か言いかけたが、沈黙を呑みこむふうな口の恰好をした。

「友情から助けたということだろうね」

刑事はすこし笑ってみせた。

「友情って何ですか」

女学生の特徴をなしている強い視線が(刑事に)向けられる。(小略)

「友情、友情」

女学生は抗弁するふうでなく呟いた。(p12~3)

鳥居哲代は今、警察署の取調室で刑事と対面して、任意とは言え、事情聴取を受けている身である。哲代が問われている内容は、幇助罪「人を教唆もしくは幇助して自殺せしめたる者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処す」(刑法202条)である。彼女の説明如何によっては、彼女の人生が大きく変わらざるをえない局面に立たされている。それにもかかわらず、当の刑事に対して、いささかの緊張感も示さずに、まるで「物でも見るふうに」見ている。彼女の無関心さが、自分の身に不利益をもたらそうとも頓着しない。

ついでにここで彼女の特徴となっている「強い視線」に、一言コメントしておこう。「強い視線」は例の制服の大学生も気付いていた。大学生は山頂付近で、二人連れの女学生の一人から強い視線を向けられた。刑事は元村港で出航待ちをしていた女学生に声をかけたときにも、署内で「友情」と言った時にも、強い視線を向けられた。「強い視線」、これが彼女と外界を結ぶ唯一の回路なのである。彼女には、相手から見られているという意識がない。外界の対象はすべて、彼女によって見る存在としてある。しかも、外界の対象すべてが、彼女の関心事というわけではない。彼女がことさらに「強い視線」を向けた対象だけが、彼女の内面と呼応する。

自己の内面しか見ないこのような鳥居哲代を前にして、刑事の質問はときどき空回りする。刑事の訊問は哲代の友人へ移った。刑事は訊ねる――、自殺した君のお友達に、君は友情の気持ちから自殺を助けてやったのだろうね。この質問は、幇助罪を問う場合によくある質問だし、刑事にとっては事件の核心へ向けてほんのちょっと触れて、被疑者の反応を打診しようとする軽い気持ちから出たにすぎまい。ところが、彼女から返ってきた返事は、“友情って、そもそもなんですか”という抽象論めいたものであった。自殺した女性の名前は織田薫(二十一歳)、同志社大学文学部英文科一年生、京都市中京区が住所。昭和四年三月十八日生まれ。刑事は訊問を続けた。

「ほう、昨日ね。満二十一歳になった日ということね」

刑事はペン軸の尻で机をこつこつと叩いた。

「意志的な自殺だな」

刑事は自分に言うふうに言った。

「さあどうでしょうか」

女学生も自分に言うふうに言った。(少略)

「家族は?」

「知りません」

「なぜ家族を知らない? 友達同士だろ」

「私たちは形而下的なことを一度も話し合ったことがないからです」

一分間ほど二人の間が空白になった。(少略)

「二人の関係は?」

と、刑事は言った。

「人と人との関係です」(p14~15)

肝心な所で刑事の質問が空転している様子が分るであろう。二十歳そこそこの被疑者から、「形而下的なこと」には一切関知しません、と大見得を切られた刑事は「小生意気な小娘め」と感情を害したに相違なかろう。こうした対応が、刑事によからぬ心証を与えるだろうという配慮は、彼女にはない。前後の文脈からして違和感を否めない「形而下的」という非日常語を、作家は敢えて哲代に言わせている。これが、鳥居哲代という女性の基本的な物の言い方、考え方であった。つまり、彼女には日常の具体的な事柄には無関心なのだ。友情という言葉をめぐる哲代の反応の屈折に、刑事はひっかかるものを感じた。刑事は職業柄、この女学生は一筋縄ではいかないと判断した。

「あなたはどういうふうに助けたのですか」

訊問は実質的になった。最初は単に、自殺を目撃した参考人として任意出頭してもらった女学生だが、いまでは自殺幇助者として答えてもらわなければならない。

「つまり、自殺者を、どんな具合に助けたのですか」

刑事は言いなおした。

「―――」

女学生は黙った。

「なぜ言わない?」

「―――」

「事務的なことです。取調べに答えてもらいたい」

「事務的な?」

「要領よく答えれば済むと言ったのだ」

「要領よく?」

「じれったいなあ。あなた大学生だろ」

「言えませんね。言いようもありませんね」

と、はっきり女学生は言った。(p16~7)

二人の相違点ははっきりしている。刑事は当然の事だが、刑法202条に規定されている「幇助」に該当する供述を得ようとしている。哲代は、自殺とは何か、死とは何か、生とは何か、総じて人間の内面の問題、人間の実存に係わる問題に関心を集中させている。誰にしても、人間の内面を「事務的に」、「要領よく」語れるはずがない。二人の相違点のなかに、はやくも、当該作品の主要なテーマ、“生の実存”が顔を出している。

形而下的な課題以外に関心を示さない鳥居哲代という女性が、作家がこれまで描いてきた女性たちとどれほど大きな隔たりがあるのか、参考までに簡単に見ておこう。「渺茫」の清子は、清浄な明るみを守って孤独に生きる男女を探し求めて街を歩くが、探す事ができずに絶望する。『空の果てまで』の秋庭久緒は内面の抑えがたい衝動に駆られて、夫と子を殺し、友人の赤子を奪い取るのだが、彼女に魂の平安はない。「ロンリー・ウーマン」の山川咲子は孤独と不安の生活に耐えられなくなり、放火犯を装って社会へ復讐を企てるが最後は自死する。これら三人の女性は魂の飢えに堪えきれず、社会に復讐をする。

本編の鳥居哲代には、上の三人と異なり、日常生活における孤独や不安、欲求不満は多くは扱われていない。三人の魂の渇きに相当する部分は、彼女の場合形而下的な課題に純化されている。作家を軸にすればこうも言える。高橋たか子は癒しがたい魂の渇きを追い求めて、人間が真に生きるとは何かというテーマを、“死”を基点にして描こうとしたのだ。

刑事は哲代に「犯罪者」を嗅ぎとっている。自殺幇助とは、すでに自殺を決意している者に対して、その自殺を援助してこれを容易にさせる行為のことで、たとえば道具の供与、自殺の方法を教える、言葉によって激励するなどである。後述するように、哲代はこの種の行為を実行したのであった。その限りで、彼女は刑法二百二条の自殺幇助罪にあたる。しかし、刑事は哲代に対しては、彼が過去に扱った事件――粗暴、情痴、金銭欲、名誉欲等――とは異質なものを感じていた。どこが異質なのか? 彼女には罪責感が無い。いや、罪責感が無いだけではなくて、そもそも自己の運命に対する関心すらないのである。刑事は鳥居哲代のなかに、人間の心性に対する犯罪を嗅ぎとったと言えよう。換言すれば作家は、人間の心性に対する犯罪者として鳥居哲代を位置づけ、彼女を介して人間の真の生のあり方を究明しようとしているのである。

刑事の尋問の結果、事件は思いもよらぬ方向へ拡大していった。鳥居哲代は、織田薫の自殺の一ヶ月前に、やはり彼女の友人、砂川宮子の自殺にも関与していた事実が判明した。宮子の親元から、行方不明の捜索願が京都の警察署に出されていたのである。砂川宮子については、次章以降で明らかにしてゆく。

本編の主要な登場人物は、上記のように鳥居哲代と彼女の友人、砂川宮子、織田薫、それに黒子に徹している「詰襟の制服を着て黒縁の眼鏡をかけた」大学生だけである。舞台は、底冷えのする京都の冬と、京都から東京までの車中、伊豆大島までの定期船の船中、三原山山中に限られている。本編の構成は、事件の発端を告げる「序章」があり、哲代の心象風景、友人二人との交渉、そして自殺に至る心理描写が八章に亙って詳叙されて、織田薫の凄惨な自殺場面で終る。作家はこれだけの簡素な道具立てで、果たして人間の心性に対する罪をよく描きえたのか。これが本編を論評する筆者の課題である。作家の筆致は重厚でもあるし、また難解でもある。

第二章 私、不安だわ

鳥居哲代は大学の大きな建物を、別の教室へ向かって移動している。真冬の寒風が彼女を正面から吹きつける。彼女は着古した黒のオーヴァの衿元を右手できゅっと摑んで、寒さを防ぎながら地面に眼を向けて歩いている。哲代は右手でオーヴァの衿元を摑み、左脇に教材が入っている紫色の縮緬の風呂敷包みをかかえ、地面を見つめながら歩く自分の恰好が、男子学生の間で、「固い」という噂があるのをよく知っていた。「固い」—-,かもしれない。男子だけではない、他人に対して花開くような自分を見せたことはついぞない。彼女のこの恰好は、外の寒気から身を守るだけではなくて、彼女を囲繞する学内の雰囲気から身を守ろうとする無意識の動作という一面が確かにあった。

敗戦直後、日本の大学はどこでも、社会主義思想、マルクス主義理論が学内を支配していた。左翼の学生達が文系のほとんどのサークルを支配していた。左翼思想を無視して学園生活を送ることは、それだけで息詰まるような苦しさを当人へ与えた。今しも、四~五人の学生が構内の通路に設置されたテーブルに、さっと一塊の印刷物を置いて、慌しく立ち去った。印刷物は学園新聞であった。紙面には「日本共産党、コミンフオルム批判に声明書」という大見出しが踊っていた。「コミンフォルム」は1947年にモスクワで結成された国際組織で、世界各国の共産党間の連絡、情報交換を任務としていた。その組織が1950年1月「日本の情勢について」という論文を機関誌に発表して、日本共産党の従来の路線、「平和革命論」を批判したのであった。この批判をどのように受け止めるかをめぐって、日本共産党内部は所感派と国際派に分裂して、以後長期の激しい党派闘争を演じた。コミンフオルム批判があった1950年(昭和25年)という年は、戦後日本の一大転換期に当たっていた。国内では、米軍占領下にあった日本と連合国(主としてアメリカ)との講和条約締結問題をめぐって、「全面講和」か「単独講和」か、国論は真二つになって対立した。また、日本国憲法の戦力不保持(第九条)を無視して、今日の自衛隊の基礎となった警察予備隊が設置されたのもこの年であった。日本労働組合総評議会(「総評」)の結成もこの年であった。国際問題では、中国本土における中国共産党政権の成立が、米ソを軸とした東西冷戦を激化させて、それが遂に朝鮮戦争となって極東アジアを戦火に巻き込んだのもこの年であった。敗戦後5年を経て、日本は国の運命を左右する大問題に直面していた。学生、知識人たちはこうした問題に鋭敏に反応し、活発な議論や運動が展開されていた。

日本中が激論で大きく揺れる中で、しかし鳥居哲代は政治問題や社会問題に対して極めて冷淡であった。保守と革新の対立が何であろうか、右翼と左翼の抗争に何ほどの意義があろうか、そんなことで世の中が「前進」したり、「改革」されることはないのだ、と彼女は堅く信じて戦後を生きてきた。先鋭な学生運動で知られていた京都大学で、彼女は学生活動家に一片の好感も寄せなかった。なるほどいわゆる活動家達は、学業も、肉親も、名誉も、出世も軽蔑した。しかし、哲代の見るところでは、彼らは「精神の荒廃」(p29)に身を委ねていた。彼らは現存するものの価値の一切を否定したが、否定する当の「主体」、すなわち自己自身への批判や否定が欠落したままであった。批判する者が自己への批判を欠落させれば、早晩堕落はまぬがれない。ここに、精神の荒廃が始まる。これが鳥居哲代の立場であった。ちなみにいわゆる「自己否定」の思想が登場するのは、敗戦から25年もたった1970年代初頭である。

哲代にとってコミンフォルム批判も、日本共産党の党内闘争もどうでもいい事であった。だが、彼女にはひとつだけ、「どうでもいいことでないもの」があった。そのものは時折、理由もなく、突然に彼女を襲うのである。はたしてその「もの」とはなんであろうか—–。

たとえていえば、暗い重い波濤が繰返し繰返し、岸辺へむけて押し寄せてくるような気分なのであった。空が翳っている時、海は底の知れない畏怖をあらわしているものである。そんな畏怖のようなものが、暗い重いうねりとなって、いいようもない彼方から、自分の胸元へむけて押しあげてくる。自分という一個の存在をとりまいている無辺際のものが、自分に向けて雪崩れこんでくることへの怖れなのだろうか。(p27)

その「もの」は思想の断片でもないし、理論化の端緒でもない。ましてや、それは哲代が意図して選択した決断や信念ではない。彼女自身に言わせれば、それは「特別な気分」なのであった。なにかの折、唐突に、彼女を襲うこの暗く思い心象風景は、外界の具体的な事物によって形成されたものではない。彼女の精神の深奥に伏在する絶対的ななにかなるものなのである。「特別な気分」を筆者なりに理解すれば、それは今生きている自分が、なぜ生き続けなければならないのか、すなわち生命の根源についての疑惑、あるいは宇宙の原理についての問いかけ、ではなかったのか。その種の疑惑、問いに彼女なりの解答が見つけられない不安が、彼女を暗く重い気分にさせるのであろう。しかもその不安は、日を追って、彼女を深刻に追いつめたのであった。

これが、鳥居哲代の心象風景である。この風景は、本書でたびたび繰り返されている。例えば「あの暗い重い波濤」(p30)、「月も星もない夜の海面のような、不可知なものが、仄白い波頭をたてて、自分の内部から繰返し繰返し押し寄せてくる」(p57)等。この風景は彼女の精神の基本な枠組みをなすものであり、同時にこれから展開される彼女の行動の原点にもなっているキーワードである。筆者は本論稿で、この心象風景を「暗い重い想念」と呼ぼう。

後に触れる事になるであろうが、鳥居哲代の青春時代は、一部太平洋戦争の末期と重なっている。当時の若者として彼女もまた、神格化された天皇制と軍国主義を徹底的に叩き込まれて成長した。そして当然のことのように「聖戦」の勝利を信じて、軍需工場へ出向いて航空機部品の生産に励んだ。それから二年足らずで日本はアメリカとの戦いに敗れて、神格天皇制は解体され、軍国主義は壊滅した。1945年8月の敗戦は日本人の生活のあらゆる面に一大変革をもたらし、同時に既成の価値観の転換を強要した。多くの人々がその変化に順応したのであるが、時流に対応しきれずに、社会的、経済的に没落したり、あるいは精神面で挫折したりする者も少なくなかった。鳥居哲代の「暗い重い想念」は、敗戦直後の社会的混乱を背負っていた。彼女は自分の生き方を模索しながら、苦しい思索の一日一日を送っていた。「暗い重い想念」は彼女なりの敗戦体験の表現である。

今、鳥居哲代は寒風に身をさらしながら、友人の砂川宮子と一緒に織田薫に薫の家で会うために、京都の百万遍の市電停留所に立っている。思わず右手でオーヴァの衿元を押さえて北風を避けながら、彼女は「不安だ」と呟いた。

砂川宮子も「私、不安だわ。死にたい」と哲代にたびたび言う。鳥居哲代はその度に複雑な気持ちで話を聞いていた。哲代自身、生にしがみつく気持ちはなかったから、自殺の話には強い関心はあったが、宮子は何が不安で死にたがっているのか、哲代にはそこが分らなった。実は先日もその事で5~6時間も話し合ったのだが、要領得なかった。宮子は地方の素封家の一人娘にふさわしく、普段はおっとりした性格で目立たないのだが、話が自殺となると、性格は一変して、長々と一方的に喋りまくった。宮子とは女専(女子高等専門学校)以来3年の付き合いなのだが、何が不安で二度、三度と自殺未遂を繰り返すのか、哲代にはどうしても分らなかった。「まさか、あの事が原因で—–」とは思えなかった。

鳥居哲代と織田薫は女専卒業後大学へ進んだが、宮子は進学しないまま、実家を嫌って郷里にも帰らず、下宿暮らしを続けていた。そんな娘に不安を感じた実家の母親が、宮子には気がすすまない縁談話を一方的に進めて、明日にもその事で京都へ来るという。深夜に哲代に電話した宮子は、「お願い、私といっしょに母を出むかえてほしいの」、「居所をくらましたい。あなたのところに隠れさせて」と、とりとめもない話を涙声で訴えたのだった。だが、気のすすまない結婚話を断りきれずに自殺まで考えるのは、いかに宮子がおとなしい性格とはいえ不自然過ぎる、と哲代には思えた。当時の女性としてはハイレヴェルな教育を受けていて、普段から生活に関した話を避けて、哲学やら、思想の話題を好んでする宮子であるからなおさらであった。気のすすまぬ縁談話であるならば断る事もできたであろうし、きっぱりと断らないまでにも、実家の母親へ自分の本意を伝える手段はいくつかあったはずである。

宮子は哲代にこうも話す。

あなた、わかる? 何かが私を追ってくる。もうこれ以上逃げきれないほど、それが追ってくる。(p66)

それが、私の命をじりじり犯してくる。私がだんだん憂鬱になっていくのは、命が犯されていくからだわ 。(同上)

漠然とした不安、あるいは強迫観念が人を死へ追いやることはままある。不安、妄想、強迫観念等は自殺の原因としてしばしば指摘されるところである。だが一口に不安といっても、その内容は人によって千差万別で具体性に欠ける難点がある。宮子が語る不安が自殺云々とどう結びつくのか哲代には分らなかった。宮子が言う「不安」は哲代には分りづらかったが、だが、宮子がその言葉を口にするとき、一瞬ではあるが「眼にうっすら白い膜がかかったよう」な表情をみせるのを、哲代は見逃さなかった。これだけは確かだろう、と哲代は思った。死にたいと言う時の宮子の表情には、現状脱出への願望と死への憧れが歴然としていた。宮子の死にたいと言う想いに偽りがあろうとは思えなかったが、哲代には宮子の言う不安がどのような内容なのか、つまり不安がどのように論理と関連しているのかがまったく掴めなかった。哲代自身深刻な厭世観に囚われて、不安を抱きながら日々を送っているだけに、宮子の「不安」がどのような論理を持つのかという問題は人ごとではなかった。ひょっとすると生に対する精神の絶望は、宮子よりも哲代のほうがもっと深刻だったかもしれない。宮子は生の絶望から死へとじかに向かう。それに対して、哲代は宮子の自殺を介して自分の死の意味、したがって生の意味を改めて問おうとする。哲代は内心で思う、「自分は他人の身の上などにはすこしも興味がなくて、他人の精神構造に興味があるのだ」(p81)と。また、こうも言っている、「砂川宮子を最後まで見どけよう、砂川宮子の死の構造を最後まで追っていこう—-」(p106)。哲代は「死の構造」を「死の論理」とも言っている。後に明らかになるように、哲代はこの一点に固執して、砂川宮子と織田薫の最後を見届ける。

一方、宮子の方は「母に会わないで済ます方法といえば死ぬことだわ」と、死への想いを募らせながらも、およそ論理とは縁遠い所にいた。哲代が理性的であるとすれば、宮子は感覚的であった。両者の考え方、生き方には大きな違いがあった。一見、作家は二人を対照的に描いているように思えよう。哲代は暗い顔つきで、広い額、落ち窪んだ眼窩、感情を表に出さず、いつも自己の内面へ向かうが、宮子はおっとりとした性格で、色白、丸顔、ふっくらとした体形として対照的に描かれている。だがしかし筆者は、両者が実は分身の関係にある、と見たい。自殺に意識が限定されてしまって、堂々めぐりしている宮子に対して、哲代は宮子の精神内部を観察し分析しながら、宮子の自殺の意味を読者に伝える役割を担っている。哲代は生きたいとは思わないが、さりとて積極的に死にたいとも思わない。このあいまいな立場は、観察者、分析者として作家が哲代に設定した役割である。宮子に感性を、哲代に理性を担わせて、自殺はいかに遂行されるのかを見定めるのが、おそらく作家の意図であろう。

「分身」の原義は“そっくりさん”である。自分に瓜二つの他人がもう一人いる、このまれな現象が引き起こす喜劇や悲劇やらが近代小説のなかで展開されて、分身という概念が定着した。“そっくりさん”はやがて自分ともう一人の自分との対話へ発展した。対話によって両者は補完しあう関係になる。両者による補完関係が成立すれば、その逆の関係、つまり対立、あるいは分裂の関係は容易に成立する。現代人に固有の自意識の分裂と言う現象が、分身のもつ意義を深めた。

哲代と宮子は補完関係にある。先に記したように、哲代は理性的な部分を、宮子は感覚的な部分を体現している。しかし、哲代に比較して宮子を描く作家の筆致は湿りがちである。何故だろうか? 宮子が自死しなければならないせっぱ詰まった感情が、読者に伝わらないのである。というのは、作家は、自ら命を絶とうとする若い女の血肉にまで分け入って、宮子を描いていないからである。作家が描く宮子は、結婚話がどうの、得体の知れないものが追いまわすとか言った程度しか描かれていない。だから宮子の自殺への想いは、読者には愚痴話にしか読めないのである。分身との関連で言えば、両者は確かに補完関係にあるが、しかし対等な関係ではなくて、宮子は哲代の陰に入っている。そのために読者には宮子の印象が薄い。読者には宮子の肉声が聞えてこない。だだし、宮子はたった一度だけ生の声で哲代に激しく切り込んで入った時があった。その場面は次章で言及する。。

本編で宮子が十分に描かれていない原因は、本編の創作イデーに起因している。本編は自殺を思いつめた一女性が、自殺するまでに体験した精神的、肉体的な苦悩を描いたものではない。哲代が宮子の死を媒介にして「死の論理」を明らかにしようとする観念小説なのである。しおたがって主軸が哲代に置かれるのはやむおうえないし、そのぶん宮子の存在が希薄になっている。

哲代と宮子の分身関係については、別の側面からの考察も必要である。次の引用に注目しよう。宮子が結婚はなしについてくどくどと哲代に言った場面の続きである。

「私が言いだせば、あなたはかならず聞いてくれる。そういうところがあなたにあるのよ」

砂川宮子がそう言ったので、鳥居哲代は、自分はいつも他人の話を全部受けてしまうところがあると気づかせられた。受けるというか沈黙のなかに呑みこんでしまう。

「相槌を打つでしょ」

「それがどうしたの」

「話したくなるふうに相槌を打つ」

「あなたの思いすごしよ。そんな才能はないわ」

とは鳥居哲代は応じたが、そう言われれば、たしかに自分は相手の言うことにすこしも逆らわないとこがある、と思った。(p36)

自殺予防に携わる行政部門や市民団体が、自殺志願者に思いとどまるように説得するのはいうまでもない。われわれ一般市民もその決行を断念するように説得するのは、人としての情理である。哲代は宮子に一度も「自殺しないで」と言ったことがないが、それとは逆に、自殺を強制するような話もしてはいない。哲代は宮子の話を根気よく聴き、宮子に同情し、共感はする。つまり、哲代は宮子の自殺に関して消極的な対応に終始しているのである。哲代は自分の消極的な対応が、結果として宮子を死へ追い込むことになるだろうことを、彼女自身十分認識している。いや、認識しているだけでなく期待している。哲代の対応は、刑法の「未必の故意」という複雑な殺人論へ繋がるのであるが本拙論は触れない。哲代は消極的な姿勢ながらも、宮子を死へ誘導している。宮子は自殺の話が具体化すればするほど、哲代が敷いたレールから抜け出せなくなる。二人の関係は相互に補完しあいながらも、哲代が主導権を握っているのが、上の引用から理解できるであろう。

第三章 ロマンのかけらもない

織田薫の部屋で薫と哲代と宮子が熱心に話をしている。三人はどういう方法で自殺するのが確実に死ねるかについて話している。鉄道線路へ入り込む、河へ飛び込む、ガス、睡眠薬がいいのか—–。哲代が宮子へ

「疎水だとか汽車の線路だとか、身近すぎるじゃない」

「身近なものが駄目ということ?」

「というわけでもないけど、不完全よね」

「ガスや睡眠薬よりは不完全さがすくないでしょ。」

「何となくそれはよくないわ」

「何か他にある? あるなら言ってよ」

そう問う砂川宮子のひたむきな声に、鳥居哲代は意識をじいっと据えていると、眼の前に火の柱がありありと浮かんだ。

「火山がいいわ、そう、火よ」(p91)

宮子へこう話す鳥居哲代の意識の奥底には、地球の始原へ向かう眼差しがありはしないか。彼女がたびたび語る例の「暗い重い想念」は、生命の始原である海が、冥い重い波濤となって絶えず哲代を襲うイメージである。哲代の場合、すべての生命の母である海が底知れぬ畏怖や不安として意識されている。火山は、暗黒が支配する海の対極にある。狂暴なマグマを火柱として噴出させる造山活動は、言うまでもなく地球創生の物語である。火山は想像を絶するエネルギーを使って、創造と破壊を繰り返してきた。なぜ哲代は物事の始原へ向かうのか—-、それは先述した哲代の「敗戦体験」と深くつながっているのだが、作家はその点は本書で深く追求していない。それはとまれ、煮えたぎるマグマへ向かって垂直落下して、一瞬の間に肉体が完全燃焼し、地球と合一するイメージは壮絶の一語に尽きる。作家は、加賀乙彦氏との対談(本書差込付録)の中で、「とび込んで、完ぺきに向こうへ行っちゃう」「超越できるものは火山だけだ」と語っている。同じことを作家は宮子にも語らせている。

「なんといっても火山よ。壮絶だわ。煮えたぎっている火に向かって、垂直に墜落していく。死体は残らない。完全燃焼よ。死ぬというより、世界の底の底の火に合一するみたい。苦しまないで、苦しんでるという意識もなくて、あっという間に死が成就する——」

その声を、鳥居哲代は自分の何処か奥深いところからの声のように聴いていた。(p105)

引用の最後の一行、哲代の感想に注目したい。火山がいいという哲代の助言は、哲代のその場限りの思いつきではなかったろう。哲代自身が日ごろから自殺を想い、自殺の方法を考えていたのである。このことは、哲代と宮子の分身関係を視野に入れれば、容易に理解されよう。つまり、宮子のある意識部分を代弁する哲代がいる。「火山といえば、三原山かしらね」という哲代の意見に宮子が同意した。「なぜ?」と問う織田薫に「島だからよ。海をわたっていく分だけ、選ばれた場所だわ」。こうして宮子と哲代は伊豆大島の三原山へ行くことになった。鳥居哲代は三原山まで行く細かな計画の一切を作り、それを宮子に語った。宮子は一つ一つ頷いた。三原山へ、二月七日の京都駅発の夜行急行に乗ることが決まった。

当日の夜、哲代は京都駅の中央ホールで宮子が来るのを今か今かと待っていた。かなり遅くなって駅に現われた宮子は「私ね、あなたがこないんじゃないかと思ったの」と言った。宮子はこの言葉を死ぬまでに三回繰りかえす。それだけに、その意味するところは深長である。もし哲代が京都駅へ現われなかったら、宮子はどうするつもりだったのだろうか。哲代なしででも宮子は三原山へ行ったであろうか? 列車や連絡船の便について哲代に任せっきりだった宮子が、一人で三原山まで行けるはずがなかろう。宮子の性格からしても、単独の自殺行は考えられない。となれば、“もし哲代さんが来なかったら—–、その時は私は三原山行きを延期せざるをえない。その延期は私が原因ではない。哲代さんのせいだ。だから私は自分の気持ちに気兼ねなく、なんのわだかまりもなく、下宿へ帰っていいわけだ。” 宮子の心中はこんな具合ではなかったのか。彼女の言葉—–「あなたが来ないんじゃないか」—–のなかに、自死へのためらい、生への執着がありありと表れている。自死へのためらいは、やがて哲代に対する不信へと向かう。

宮子が抱いた“自死へのためらい”にもう少し拘ってみたい。もし哲代が駅へ現われなかったら、わだかまりなく下宿へ戻れるという宮子の思いは、さらに次のような連想へ進む。“もしかすると私は哲代さんに三原山へ、三原山へと誘われているのではあるまいか”。宮子のこの思いつきは、この段階では死の不安と入りまじったわずかな疑いにすぎなかったはずである。だが本編の経過が示すように、哲代に対する宮子の不信感は徐々に深まっていって、宮子は最後に「あなたは誘惑者だ」と断罪する場面へ繋がる。作家は後々の伏線を、京都駅で二人が合流する場面で早くも用意していた。

車内は、帰省客、闇屋風の人たち、一見して復員軍人と分る人々で立錐の余地もなかった。哲代が準備良く二時間も前から改札口の行列に並んでくれたので、二人はボックス席に坐ることができた。その同じボックス席に、奇縁というべきか、「詰襟の制服を着て黒縁眼鏡をかけた」大学生が坐っていた。第一章で哲代の行動に不審を抱いて警察へ連絡をした例の大学生である。この大学生はその後、東京月島桟橋から大島へ渡る船中でも、三原山の頂上でも哲代の前に出現するが、二人が大学生に出会うのはこの車中が最初である。大学生は先に見たように、哲代にとって大事な証言を警察でする。この出会いはしかし、あまりにもできすぎて、作家の作為がみえみえである。大学生は英会話の本から顔を上げて、ときどき二人の様子を見た。

宮子は狐色のだぶだぶのオーヴァの首元に毛糸のマフラーを巻きつけていた。旅行用のバッグには、手製の厚手のセーターまで入っていた。「海は風が強いでしょ。風邪を引くといけないから」と、砂川宮子は言った。車中で、宮子はアイスクリームを買い、駅弁を食べ、熱いお茶も飲んでいる。そんな宮子の様子を哲代は、

表情を変えないまま砂川宮子を凝視した。風邪を引くといけないから、と、口の中で言ってみる。死ぬ人が風邪を引くのを心配しているという事実を凝視する。(p121)

時々刻々、死へ向かう厳粛な時間の中にいるはずの宮子と、「風邪を引くのを心配」する宮子との、この奇妙な取りあわせに哲代は慄然とする。これは一体、何を意味するのであろうか? 不可解としか思えないこの事実を哲代は凝視している。自殺とは、自己の生と死を見つめる、日常を超絶した、濃密な時間の一刻一刻ではなかったのか――。それとも反対に死とは、生の連続の一日一日の中で、ひょっこり顔を出して完結する日常の一齣に過ぎないのか?

列車は翌朝十時少し前に品川に着いた。二人は大島行きの桟橋を探しながら、米軍の空爆で廃墟と化した東京の焼け跡を歩いた。京都で戦争末期の空襲を体験しなかった二人には、ぼろぼろに崩れた工場、半分だけちぎれた煙突、ごつごつして汚く、埃っぽいビルの残骸に眼を見張った。この殺伐とした光景は、二人がこれから向かう三原山火口の荒涼とした風景を予告していかのようだった。と同時に、敗戦を体験した鳥居哲代の精神の荒涼をも表している。

大島行きの船は、午後二時半に出港した。船は季節風にあおられて大揺れに揺れて、乗船客の大半がひどい船酔いに苦しんだ。宮子も哲代も胃の中の物を全部吐き出しても嘔吐感が鎮まらず、船室を転げまわった。宮子は嘔吐の発作で顔中をぐじゃぐじゃにしながら、実家の母親についてくどくどと話をしつづけた。母親が私の枕元を駆け回る、何処までも私を追いかけてくる、私は何処へ行っても落ち着く場所がない等々――、哲代にとっては、以前さんざん聞かされた話の繰り返しに過ぎなかったのだが、当の宮子は、胃の痙攣に耐え、咳き込むのを抑え、喘ぎ喘ぎ懸命に話した。話し終わると安心したのか、宮子は貸し毛布に包まって軽い寝息をたてて寝た。

船は伊豆大島の岡田港に朝の五時に着いた。二人は港の近くに宿をとって仮眠した。七時過ぎて宿が用意した二人分のお弁当を持って、二人は山へ向かった。その頃、登山客たちは、とうに出払っていた。街並みを抜け、林の小道に入り、やがて路は溶岩のごろごろした山道へ入った。昨夜夜通し吹き荒れた風はすっかり収まり、晴天であった。二人はそれぞれ重苦しい想いを胸に抱きながら、寡黙に足を運んだ。突然、哲代が、

「いま何時?」

鳥居哲代は砂川宮子の沈黙が重たくなって訊ねてみた。

「もうすぐしたら、この時計あげるから」

砂川宮子は腕時計を持ちあげて見せた。

「いいわよ。気味がわるい。あなたがいなくて時計だけがうごいていれば」(p138~9)

砂川宮子が火口の深部へ姿を消すまでに、哲代は「いま何時」を三回も繰り返している。一回目は引用にあるように、宮子も哲代に応じた。二回目は六合目の茶屋を通過した直後で、宮子は「うるさいわ。あなたまでがせかせか追いつめる」と言ったきり、すっかり黙ってしまった。三度目は、宮子の決行のところで触れる。「いま何時」という哲代の問いについて考えてみよう。

自殺を決行する宮子にしてみれば、これは実に残酷な問いではある。「いま何時」は“宮子さん、あなたはいつ決行するの?”、あるいは、“あなたはこの先あと何時間生きていられるの”と訊かれたも同然であった。「うるさいわ。あなたまでがせかせか追いつめる」という宮子の返し言葉には、哲代の正体に感づいた彼女の非難と不信が含まれている。女子高専以来の付き合いの中で、なにかにつけて相談相手だった哲代が、まもなく現世から訣別する「私」に死を催促する――。

哲代の立場にすれば、二人の間によどむ暗く、重い沈黙に堪えかねて、気詰まりな雰囲気を和らげるために、「天気でよかったわ」の代わりに、軽い気持ちで「いま何時?」と聞いたに過ぎなかったのかもしれない。あるいは、この問いかけには現実的な意味合いが含まれていたようでもある。登山の経験者ならばすぐ分ることだが、入山した午後の数時間は実に短い。夏山でも午後は天候が急変する。750メートルほどの三原山でも、二月の四時を過ぎれば足許が心配になるであろう。哲代は一人で下山する時間を気にしていた、とも理解される。

しかしながら、三度も同じ問いを繰り返す哲代の執拗さには、もっと冷徹な心の動きがあった、と考えたい。その心の動きとは、宮子がようやく気づきはじめた死の誘惑者としての鳥居哲代の真の姿である。急坂の登りになって、汗ばんだ宮子がマフラーをはずして、「帰りはどうするの?」と哲代にたずねた。「行き当たりばったりにするわよ。何とでもなるわ」と応じた。そして、

「鳥居哲代は、道のまん中の馬糞をズック靴の先で蹴った。温かいような、わらの匂いがした」(p140)。

ここに、誘惑者、鳥居哲代がいる。

“宮子さんは間もなく死ぬ。それを見定めるまでが、私の仕事。そのあとは、—–その後、—–その後私は下山して、いままでどおり、生きてゆく”、哲代の心中を察すれば、こうでもあろうか。馬糞を蹴って哲代の鼻腔をとらえた生き物の体温を感じさせる匂い、この生の実感を持って、哲代は下山する。生について寡黙な本篇にあって、哲代に生の充実というエロスを僅かに伝えてくれるシーンである。

道幅のぐんと狭くなった急峻な径を喘ぎながら登った二人の前に、突然視野が開けた。冷たい強風が二人を襲った。哲代は思わずぶるっと身体を顫わせた。宮子は「冷たい!」と悲鳴をあげた。眼前には、毒気を含んだ泥色の荒野が広がっていた。その不毛な荒野の上に真っ青な空があり、大きなカラスが何羽も舞っていた。その動きにもかかわらず、あたり一帯は厳かに停止していた。命の盛りの一女性が、今死なんとするにも、自然は無関心なのであろうか。

二人は溶岩の急峻な小径を登りきった。今は、山頂に直結する急勾配の砂地を歩いている。一歩踏み込めば、半歩下がる砂地に難渋しながら、宮子は諦めたかのように黙々と足を運ぶ。眼の前に富士山が見えた。山頂は近い。冷たい突風がまきあげる砂粒が宮子と哲代の頬にびしびしと当たる。二人はようやく頂上に立った。そこは内輪山の稜線で、ところどころに「立入り禁止」の看板があった。眼下は、どこまでも拡がる海の青と空の青があった。

山頂には登山客がまだかなりいた。「どうするの?」と宮子に聞いた後、哲代は夕方まで待つことを提案した。二人は大きな溶岩を風よけの衝立代わりにして、麓の宿が用意してくれた梅干のおにぎり弁当を食べた、と作家は書いている。自殺の決行直前に、果たして食べ物が喉を通るものなのであろうか? そもそも弁当を食べようという気が起こるものなのであろうか。生きて帰る哲代に若干の食欲があったかもしれない。当の宮子はどうであろうか? 宮子は殉教者として天国へ赴くのでもないし、欣求浄土を想って死を迎えるのでもない。宮子はいわば、素肌で死と対峙しているのである。食欲どころではない、食べ物を見るだけで吐き気がすると書かれても不思議ではない。だが作家は宮子にこうも言わせている、「やっぱり風邪を引いたらしいわ。セーターをここまで持ってくればよかった」。宮子の場合には死は、弁当やセーターのようなこまごまとした日常の煩いを引きずりながら、その延長線上に唐突に出現するのであろう。筆者には理解がいかない。一方、哲代は昼食を食べ終わってからも、その場にじっと坐って、眼下に広がる深い静寂に見入っていた。誰も破りにこないこの静寂は、きっと宮子にも死との和解をもたらすだろう、と哲代は漠然と考えていた。

時間は三時を過ぎていた。山頂にいた人たちの姿はなかった。「誰もいないなんて、ものすごいことのようね」と自分へ言い聞かせるように呟いて、

「今何時?」

と、鳥居哲代は坐ったままの砂川宮子の横顔にむけて言った。

「さあ要らないから」

砂川宮子は言い、時間を気にする鳥居哲代の癖を今度はうるさいとは言わずに、手首から自分の腕時計をはずした。(p148)

立入禁止の立札を越えて、二人は火口へ降りる場所を見つけるために、内輪山の稜線をのろのろと歩き出した。一段降りるごとに、風景は変貌した。もうどうしようもない領域へ踏み込んでしまったのだ。先刻までいた場所はずっと高くにある。硫黄の匂いが流れていた。風化した奇怪な溶岩が迫ってくる。さらに下降すると、空の明るみは遠ざかり、周囲は赤錆のついたモンスターのような黒い溶岩だけとなった。そこは既に、死の国であった。

厭世観が原因で自殺を決行する者は過去に少なくなかったし、今後も出るであろう。現実世界を支配する悪、不幸、苦痛等に対する絶望が極限に達すると、そこからの脱出として自死を思いはじめる。現実世界への絶望が深刻であればあるほど、脱出としての自殺が魅力的に映る。厭世死にはなにがしか自殺へのロマン、美学が伴う所以である。砂川宮子もその例に漏れなかった。彼女が三原山で自殺を決意した時、先に引用したように、「なんといっても火山よ。壮絶だわ。煮えたぎってる火にむかって、垂直に落下していく」と頬を高潮させて、熱っぽく語ったのであった。だが、三原山の現実はどうであろうか? 溶岩が風化してできたざくざくの粗い砂地に、ズック靴を取られながら、二人はのろのろと火口を降りてゆく。眼にも、耳にも、靴の中にも砂粒が容赦なく入る。動くものといえば、風にのってわずかに硫黄の匂いが流れるだけだ。そこは、不毛さそのものであった。ロマンもなければ、詩もない。惨めな自殺行があるにすぎなかった。

しかしながら、「死の構造」の究明に取り憑かれている鳥居哲代には、この現実の惨めさが見えない。今こそ宮子の口をとおして、自殺の論理が語られるのではあるまいか、と哲代は期待している。大事な部分だ。例証しておこう。

荒廃の極みには、不毛がある。何も芽生えず、湿りも生温かさもなく、命を思い出させる一切が欠けているのである。だがここ(火口-筆者注)は、単なる砂漠ではない。不毛そのものを造りだした永劫の力が、その、ついそこの、無限の穴を転落していった奥に、隠然と燃えているのである。そこへ、砂川宮子は到ろうというのか。それほどの超越的な希求が、砂川宮子にはあるのか。(p150)

ここで言われている「超越的な希求」は、通常考えられるような宗教的な思念、つまり天国や浄土へ赴くことでもないし、母なる大地との融合でもない。人間の価値基準を一切超絶した、生成と消滅の物理的メカニズムだけが永劫に機能する無機質領域へ、生命を有するものが意図して、合一を果たそうということなのである。ここには死のロマンも憧れも無い。あるのはただ、生命が無機質へ転化する変化にすぎない。「超越的な希求」は日常生活では絶対に顕現しない。哲代が宮子にそれを期待すること自体、誤りである。

鳥居哲代は「死の構造」とか「自殺の論理」にこだわる。彼女がなぜこうしたテーマに固執するのかは、彼女の「敗戦体験」にからめて既述しておいた。ところで、自殺の論理、あるいは死の構造は果たして構築可能なのか? その論理は人類の経験知を基にして、その延長線上に類推として成立するかもしれない。つまりごく一般的に、自殺した者は“こうこうしかじかであったろう”程度の推論としてなら成立しよう。しかし哲学が要求する厳密な論理として成立するはずはない。なぜならば、死が体験不可能であるように、自殺の論理もまた検証不可能なのである。したがって、自殺の論理に検証はありえない。検証不可能な論理に、普遍性や必然性という論理に特有な資質を与える事はできまい。仮定を前提とした話になるが、もし鳥居哲代が求める「自殺の論理」が成立したならば、彼女はその論理の必然的展開の流れに沿って、従容として死に赴くのであろうか。われわれ人類は、「自殺の論理」が要求する普遍性に基づいて、死を甘受しなければならないのか――?

筆者はどうやらばかばかしいテーマを検討したようである。自殺の論理など成立するはずはないし、「自殺の論理」の許で人類が苦悩する図なぞおよそナンセンスだ。そうであろう。社会の常識が、この種のテーマを一笑に付すのである。人類生存の基本的要因である生命の存続は、殺人と自殺の肯定論議を禁忌としている。だが、こんな愚かしい議論も、鳥居哲代の立ち位置を確認するためには必要なのだ。なぜなら、彼女がこのタブーに挑戦しているのであるから。彼女はいわば神の領域へ汚れた手を差しこんだのだ。

「死の構造」や「自殺の論理」にこだわる哲代は、これまでに何度も宮子に訊ねた問いを、最後にもう一度口にした。「あなた、なぜ、死ぬの?」。おそらく哲代は、宮子が死と和解をとげて、従容として灼熱のマグマへ向かうものと思い込んでいたのであろう。ところが、宮子の答えは、哲代を愕然とさせた。以下、宮子の主張だけを引用しよう。

「私はね、あなたのせいで死ぬのよ」

「あなたがいなければ、私は死ぬことはないんだわ」(p151)

「私はね、あなたが京都駅にこないんじゃないかと思っていた。あなたさえ、あの待合わせの時間に、改札口の行列のなかにいなければ、一人で帰ろうと思っていた。だが、あなたはきていた。すこしも私の意向も訊ねもしないで、私を汽車に乗せてしまったじゃない」

「船のなかだって、そうよ。私が物心ついて以来のことを喋った時、あなたはなにもかもわかってくれた。私はわかってほしくなかったのよ。誰もわかってくれる人がいなければ、わかってくれる人が見つかるまで、きっと私は死ななかったわ」(p152)

「あなたという人は、なんでも私の話を聴いてくれる。相槌を打って、一つ一つ私の言葉を呑みこんでくれる。(小略)あなた自身が死にたいみたいに、私のなかの死を抱擁してくれる。あなたは少しもそうとすすめはしなかったけれども、私を死ぬ方へ死ぬ方へと仕向けてきた。あなたが誘惑したんだわ。そうじゃない? あなたにむけて死にたいなどと言ったが最後、私はもう死なないわけにはいかないとこまで追いつめられた。あなたがここまで追いつめたのよ」(p153)

鳥居哲代はここではじめて、自分が「誘惑者」であることを認識させられた。なるほど、その役割は消極的である。宮子の話を辛抱強く聴き、相槌を打ち、ときどき話の続きを促し、まれに軽い反論を加え等々してきた。また、刑法の立場からすれば明らかに違法行為ではあるが、自殺の方法に関与したし、伊豆大島行きの計画を立てもした。だがこれらはすべて、宮子の意思を無視したり、強要したわけではなかった。哲代の立場からすれば、彼女が死の構造や自殺の論理に強い関心があって、たまたま親友の砂川宮子がつねづね語る自殺志望の話と結びついたにすぎない。だから、哲代には、これまで自分が誘惑者であるという認識はなかったのである。とはいえ、哲代の深層心理を探れば、「死の構造」や「自殺の論理」という社会的タブーに強い関心を持っていた哲代が、その究明のために他人の死を待ち望む秘めた思いがなかった、とは言いきれない。「死の構造」や「自殺の論理」の究明には、自殺する者の心理の把握が必須なのであるから。

「なぜ死ぬかって? 私を死なせる張本人のあなたが、なぜ死ぬかって訊ねるの?」と顔中の毛穴から脂汗をにじみ出させながら、宮子は憎悪をこめて哲代へ言った。そう言い終ると、火口の縁へ向かって、深い砂の斜面をよろけながらずるずる滑っていった。火口の縁へたどりつくと、ちょっと下を覗き込んだが、とりとめのない歩き方で下降を続けた、首許に巻きつけたマフラーがほどけないように、あいかわらず右手で律儀に押さえながら。

ここには、繰りかえすように「超越的次元への飛躍」など微塵もない。

哲代は夕暮れの山道を一人で降りてゆく。彼女には、怪物のような溶岩の山肌など気にする心の余裕はなかった。ある一つの感情だけが彼女を支配していた。「あなたが誘惑したんだ」と言った砂川宮子の言葉が、自分は善意の理解者であったという哲代の思いこみを打ち砕いた。「あなたが誘惑したんだわ」と言った宮子の言葉は、哲代の言動が結果として誘惑者の役割を果たした、すなわち不作為の行為だけを指しているのではない。死ぬ方へ死ぬ方へと積極的に「私」を誘惑したのだ、と宮子は哲代を断罪したのだ。哲代が下山する一足ごとに、「誘惑者」という感情が哲代の体中へ拡大して行く。彼女はその感情を「自分への畏怖」(p158)という言葉で表わした。哲代は、自殺関与者になった自分に改めて恐れ戦き,震えた。この言葉の真の意味を明らかにするには、鳥居哲代のもう一人の親友、織田薫の自殺を語らなければならない。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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