心の防衛機制としての「退行」―東日本大震災によせて―(2)

未曾有の大震災から一年が経過した。町の復興が進む一方、まだまだ残された課題、今後予測される問題は数多く残っている。そのような中、現在、被災地を中心に、幼児(主に3~6歳)の「赤ちゃん返り」が多く見られるという。これらの現象は、震災後二ヶ月が経過したころから顕著に見られるようになったようだ。

「赤ちゃん返り」にはさまざまな症状があるが、総じて、幼児による、両親特に母親への「甘え」が過度に現われるものであると言える。これは、フロイト(Sigmund Freud 1856~1939年)によるところの「防衛機制(defense mechanism)」の一つである「退行」と捉えることができる。「防衛機制」には、「投影」や「転換」、「取り入れ」、「反動」……などがあるが、どれも人が精神的安定を保つための無意識的な自我の働きとされている。

幼児は成人ほど自我がまだ強くない。震災によって身体は無傷で助かったとしても、心は傷つき、これまで充足されていたものが一部「欠落」してしまっている可能性があることは想像に難くない。「欠落」を埋めて「完全性」を希求することは、元来人間が持つ「欲求」である。人間は、欠けるところのない安定した「完全な理想の自己像」を求める生物なのである。当然、それは幼児に限ったことではない。成人においても勿論あり得るものである。しかし成人とは異なり、幼児の自我は、より不安定かつ柔弱なものであることを忘れてはならない。

生まれたばかりの赤ん坊は、母親と「一体化」・「同化」している(共生状態にある)。ある時、赤ん坊が「ママ」と言葉を発して、母親を自分とは異なる「他者」として認識するまで、赤ん坊は母親の愛情に完全に「巻き込まれ」ているのである。幼児の「赤ちゃん返り」は、もう一度、母親との「一体化」・「同化」という「巻き込まれ」を切望している兆候なのである。

被災した幼児は、震災後常に緊張状態にあった(今もある)。緊張状態は、今後いつ大きな余震が起こるのかという不安は勿論、慣れ親しんだ家とは異なる、避難所での多くの見知らぬ「他者」との関係における疲弊などが要因となっている。今、幼児の心は疲れ切っており、真の憩いの場=母親の愛情による「巻き込まれ」を求めているのである。「赤ちゃん返り」をしている幼児を持つ母親は、何も迷うことはない。そのような幼児を思い切り抱きしめて、「甘え」を、「退行」を、「わがまま」を「受けとめて」やれば良いのである。

人間は「完全性(統一)」が達成された瞬間、必ず「分離」しようとする。人間が自己を持ち生きている限り、生きようとする限り、「統一」には決して留まり続けることはできない。「完全性(統一)」は、欠落したもののない、いわば「楽園」だが、そこは自己も他者も、幸せも不幸もない「無の世界」でもある。自己意識を持ち生きている人間は、その「無」に耐えることはできない。「無」への不安――言い換えるならば、完全な「巻き込まれ」への不安は、自我を確立する過程において、次第に大きくなるものなのである。(自我中心の、あるいは「個」を最重視する、いわば近代的自我構造〔システム〕が引き起こしているさまざまな問題は、ここではとりあえず横に置いておこう。)

「赤ちゃん返り」をしている幼児の「欠落したもの」は埋めなければならない。放っておくと、それは心の奥深くに蓄積され、後で思わぬところで噴出する可能性がある。今は、幼児の「退行」を受けとめて、もう一度「完全性(に近い状態)」を味わわせてあげることが大切である。

――過度な心配はいらない。「完全性(統一)」に「巻き込まれ」た幼児(幼児とはいえ、3~6歳であれば、自我を既に獲得している)は、必ず自分の力でそこを抜け出そうとするものだ。抜け出そうとするとき、余計な引き留めがなければ、幼児は再び、今度はより強固な自我を持ち始めるために、歩き出す。

以上

(本文は、筆者が連載している「生命倫理再考」第21回〔『ロゴスドン』ヌース出版http://www.nu-su.com/seimei.html〕の原稿を加筆・修正したものである)

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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