思いはわかりますけど、

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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そんな視点からみても、みえっこないんじゃないですかね。今日に至るまでその視点に固執して、数十年みようとしてきたんじゃないですか。それで何かみえたんですか。 そして何か変えられたんですか。経済成長もし尽くして、というのも変だけど、もういくとこまでいって、あとは均衡するまで傷んで萎んで、落ち着くところに落ち着くってだけのような気がするんですけど。

そんなところに、戦後から、いや戦前どころか明治維新のころから、六十年代にすらしっくりこなかったヨーロッパの既製服を着こなした?かのような格好をつけて、手垢だらけのほころびた理論を手を変え品を変えるようにつくろいながらのたまってきたようにしかみえませんよ。

普通にというか、巷の人たちに、たとえば渋谷の交差点や原宿でうろうろしている人たちに、その思いをどこまでわかってもらえたんでしょうか。もらえるのかって考えたことあるんでしょうか。仲間内にじゃないですよ。巷のどこにでもいる人たちで、選挙になれば保守政党かその引き立て役にしか投票しない人たちにですよ。傍目には、考えるどころか疑問にすら思ったこと、あったようにはみえないです。

ろくに話も聞いてもらえないまま数十年。成果のあがらなかったやり方を、多少なりとも成果があがる方法に改善しようなんてこと考えたことないんじゃないですか。たとえていうなら、十メートル上の崖の上にあがらなきゃいけないのに、梯子を用意するわけでもなければ、階段をつくろうとともしないで、立ち高飛びを繰り返して、前より十センチ伸びたとか伸びなかったとか一喜一憂している姿をみると、呆れかえるのを通り越して微笑ましいと思っちゃうことすらあります。ただ常識で考えてですよ、いくらがんばっても、立ち高飛びで十メートルをというのは、おかしいでしょう。百年どころか千年経っても崖の上になんかあがれなっこないじゃないですか。それを真剣に繰り返すこと、まるで布教するかのように数十年、もうできの悪い新興宗教みたいなものじゃないですかね。

そりゃ、経済や社会の、もっといえば人間のありようが、たたが数十年で変わるわけじゃないですけど。でも江戸から明治へ、明治から敗戦、そしてアメリカ仕立ての見栄えはいい民主主義ってんでしょうかね、敗戦まで軍事独裁のもとで立場のあった人たちが、ある日突然民主主義者になってでしょう。それが今になって改めてみてみれば、利権でしか成り立ちようのない社会ですから。巷の人たちだって、馬鹿でもなし、そこまでのごまかしを手品のように目の前で繰り返された日には、そういうことだったんだねって思いますよ。似たようなことをいつまで聞いてたってしょうがない、いっそのこと利権にくっついた方が得じゃないかって考えますよ。

そんなところにですよ、十九世紀のイギリス資本主義の観察と解釈から生まれた社会認識を後生大事にとでもいうんでしょうか、まるで有袋類のように進化というのか変化に背を向けてでしょう。誤解されると困るんで、言っておきますけど、別に今の社会がいいっていってるわけじゃないですよ。ただ、汚職だろうが利権だろうが、今の社会のありようで、みんなの生活がなりたっているのも事実で否定のしようがないでしょう。

高度成長も終わって、日本の生活コストが高止まりしているころに少子高齢化社会です。戦後の高度成長を可能にした民生品の大量生産では中国や韓国、これからはタイやマレーシアもでてくるでしょうし、このままでは今までのような消費社会を維持できないのがはっきりしている、はずなんですけどね。でも巷の人たちの視点は個人の私生活の落ち込みをどうしようってまでで、社会をこうしていかなければという、社会を実際にかえていく力にはなってこなかった。好きとか嫌いとかじゃない、それが事実としての歴史でしょう。

社会をこうしていこうという考えというのか思想ってのは、巷の人たちから自然発生的にでてくるもんじゃないでしょう。なんらかの将来をも見通した社会的視野をもった指導者というんでしょうかリーダーが、巷の人たちの日常生活の体験の延長でもわかる話を通して社会を変えていく力がうまれてくるんですよね。革命までいかない改革であっても、烏合の衆の不満の総和がそのままで社会を変えていくことには結びつかない。不満は日常的な小さなテロをはけ口として社会を混乱させることはあっても社会改革には向かわないです。

こんなこと常識の範疇のことでいまさら何をいうことでもないでしょう。十分ご存知のはずです。でも、その視点からみると、みなさんが正論を説いて、目の前にでてきた社会問題に対して警句を発して、状況を悪化しかねない政策に反対なさってきた、できる限りの努力をされてきた。誰しも認めることでしょう。でもです、その努力、もっとも大事な視点が欠けていた、欠けていたというと失礼になりかねないですけど、社会を動かすには十分でなかったということも事実です。

今まで散々やってきたやり方を、今日も明日もそのまま続けて、昨日までと同じように社会が動き出さないことに、もう慣れっこになってしまっているようにすらお見受けします。極端に言ってしまえば、こう言っては失礼ですけど、ちょっとお許しをいただいて言わせていただければ、社会から遊離したところで、俗な言い方をさせていただければ、巷の人たちを上から目線で、偉そうに巷の人たちはわかりっこないよなという理屈をこねることで、ご自身の存在を認めてもらえれば、社会なんか変わらなくったってかまいやしないとでも思っているようにすらみえますよ。まさか、もし変わったら、お役御免になりはしないかと心配してるわけじゃないですよね。

どっかの大先生や先達が言い出したことを、消化吸収しているおつもりのようですけど、巷の多くの人たちには、理屈の下痢か便秘のようなものにしかみえません。そんなものにかかわったら、面倒なだけでなく下痢か便秘になるかもって、誰もまじめに聞く気にはなれないです。

なんで過去の状況の分析から構築された偉い理論から社会をみようとするんでしょうか。歴史上の理論は過去の状況の反映であって、それをそのままで現在の状況を説明できるわけじゃないでしょう。まず目の前にある現実から思考を始めるべきじゃないですかね。その現実のあれこれから巷の人たちの毎日の生活があるんですよ。その毎日の生活をどうするってところから理論が生まれてくるわけで、歴史上の理論をもちださなければ、目の前の状況を解釈できないってんなら、そりゃあなたの頭は勉強するためには使えるけど、考えるためには訓練されてないってことになりはしませんかね。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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