思い出は記憶のなかに-はみ出し駐在記(84)

「扇」は、探して歩いていても見落としてしまう、目立たない古びた小さなビルの二階にあった。まったく華のないバーで、馴染みのオヤジ連中がカウンターで一杯やりながら、ぼそぼそ話しているだけの飲み屋だった。二階の反対側にあったコリアンバーからは、ドアが開くたびに、客の大声やホステスの嬌声が聞こえてきた。「扇」とコリアンバーの暗と明が、日系企業の駐在員と韓国系企業の駐在員の母国におけるステータスの違いを、そして可処分所得の違いを反映していた。

七十年代も後半、日系企業では既に海外拠点はあって当たり前になって、駐在員がエリートだった時代は遠い昔話になっていた。先輩駐在員の話しでは、初期の駐在員は出張扱いだった。駐在生活を出張手当で賄えば、日本の給料が丸々残った。七十年代には、そんな時代からは想像もつかない、質素なサラリーマンの駐在生活になっていた。

それは日本の飲食店で働く人たちの収入にも影響した。ぼったくりの感のある「よし子」が閉店して、女っ気のない、何もないからこそ、やってゆける「扇」が店開きしたのも時代の流れだった。それでも日本メシ屋は増えていたから、希少価値の日本女性なら仕事はあっただろう。ただ男性の職は限られている。日本人社会から距離をあけたい気持ちもあってだろうが、かつては左翼の活動家だった人が隣のコリアンバーでウェイターとして働いていた。三十半ばを過ぎた体格のいい人だった。二時にコリアンバーを閉めて、後片付けをしてから毎晩のように「扇」に立ち寄っては、中華系の二三人とマスターの四五人でチャイニーズポーカーを楽しんでいた。

活動家(だった)というプライドからなのか、ちょっとピンクがかった程度の外れた駐在員を体制に迎合したヤツと見下していたのだろう、マスターとは話をしても、こっちはそこにいるというより、そこにある置物かなにかのように無視された。たまに「初花」(高級な?すし屋)で働いていた彼女も合流して、日本人四人の世間話のようなことになっても、活動家からも彼女からも話しの外に置かれていた。

会えば、嫌味にならないように気にしながら、努めて明るい挨拶をするのだが、反応すらしてくれないこともある。見下されているのは分かるが、どうもそれだけではないような気がしていた。ある朝、いつものように返事がない。またかと思いながら、ふと邦子の駐在員を羨ましがる口ぶりを思い出した。流れ者になってしまったことに忸怩たる思いでもあるのではないか。その思いを押し込んでおくためにも無視していたい、あるいはそれ以上に駐在員というだけで目障りと思っていたのかもしれない。

英語がだらしないから、テレビを見ても付いてゆけない。天気予報ぐらい大まかには分かるのだが、テレビも見なくなっていた。午後から降り出した雪がだんだんひどくなっていた。多少の雪で出かけるのを躊躇っていたら、マンハッタンでは何もできない。それでも、こんな大雪になるのが分かっていたら、「扇」に顔を出さずに真っ直ぐ下宿に帰っていた。

このまま降り続けたら、帰れなくなるかもしれないと心配で外が気になる。閉ざされた窓の隙間から見える限りでは、もう大吹雪になっている。そわそわしているところに、マスターが「この程度の雪でバタバタするようじゃ、ニューヨークの夜は遊べない」それを受けて活動家が「夏は、おのぼりさんがうろちょろするところで、ニューヨークのニューヨークは冬にある」と口を挟んできた。それまで口数の少ない人だと思っていたが、ニューヨークのニューヨークについて語り始めた。声も大きくなって、妙に説得力ある。

オレがニューヨークにいるのは、ニューヨークフィルの演奏を聴くためだ。レコードなんかで聴くのとは本質的に違う。演奏は音だから残らないと思ってるだろう。それがそもそもの間違いだ。感動した演奏は忘れない。聴いたときのあの感動は記録するようなものでもなければ、記憶するというものでもない。それは全身で受けとめたもので、忘れようのない記憶として残るものだ。それ以外に何がある。

その通りだと思う。記憶は記憶しようとするものではない。残るものであって、ましてや、記録したものであろうはずがない。

その時まで挨拶程度の口しかきいてくれなかったのが、人が変わったかのように雄弁だった。そんな活動家を見たことがなかったのだろう、マスターも驚いて後ろに引いて話を聞いていた。

学校時代は写真部だった。技術系の勉強に嫌気がさして、中退して写真学校に行こうかと真剣に考えたことさえあった。これがオレの写真だという一枚を求めて浅草をうろついていた。素人の情熱だけで撮り続けたが、三十六枚撮りのフィルムを三本四本とったところで一枚として焼けるものがなかった。

ニューヨークに赴任したとき、当然カメラもレンズも全部持ってきた。一人で暇なときもあるのだから、写真を撮りに行こうと思えば行けた。ただ撮りに行けば回りの人たちに迷惑もかける。一枚を求めて周りも何も見えなくなるのが分かっていた。それがイヤで、カメラを引っ張り出す気にはなれなかった。駐在時の写真が数枚あるが、応援者が何かのときに撮ってくれたもので、自分で撮ったこれという写真はない。

後年、歳がいって、駐在時の写真を見て懐かしがるような生活はしたくないという気もちがあった。今を何かの記録に残して、それを見て過ぎた日の思い出に浸るような人生は、想像するだけでも気が重くなる。

思い出は記憶としてあるものであって、記録としてあるものじゃない。記録としてあるものから、忘れていた、忘れかけていたことが思い出されることもあるだろう。うつろになった記憶を記録が蘇らせてくれる。ありがたいことだと思う。ただ、それを繰り返して、ぼやけてきたものをリフレッシュして何になる。

生きていれば、その時々が記憶として残る。記憶として残るものが時間の経過とともに重層的に蓄積されてゆく。それが、どこかでぼやけて薄れて消えてゆく。薄れてなくなるなら、なくなったでいいじゃないか。その程度の記憶ということだろう。いつも新しい時々を生きているのだという気持ち、そこから記憶に残るものが残る、残らないものは残らない生き方でいいじゃないか。過去の記憶、それを支える記録に生を見出すような生き方はしたくない。過ぎたことはすぎたことで、あるのは先だけと思っていたい。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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