性を売る女性たちと東電OL女にかかえられた心の病理(その3)

著者: 大木 保 おおきたもつ : 心理カウンセラー
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時代の抑圧と乳児期の母子関係の屈折から、人は心の闇を負わされる

さて前回は、「女性たちの性の商品化の果て」について、また
この時代がそれだけではたりず、「出会い系サイトへのなだれ込み」を迫ってきたことについてふれました。
そのかれらの行為が「倫理」や「異常」という既成概念でとらえようとしたとたんに、

その本質的な意味をとりこぼすことに気づかなければならない。

そもそも、
「個の存在をかぎりなく無意味化し、わずかに商品としてのみ価値を付与する」という人間への否定的な見方は、
『機能主義とプラグマティズムからはずれるものは、
科学(サイエンス)といわず、学問といわず、人間存在をふくめて一切のものを排除することが
資本主義本態の生理でもあるようにふるまってきた』ことに起因している。

それは今にはじまったことではないゆえに、
ほとんど資本主義世界が無意識にすすめてきた思想の産物とみてとれる。

したがって排除される側の人間がその自己存在の否定性に堪えがたくある社会では、
もはや精神にある傾向をおびた支障をかかえることは避けがたいことといえよう。
それが「現代の鬱病」であり、「強迫神経症による分裂症」の発現である。

その精神の支障のあらわれのひとつに、
自傷行為として「性を売る」女性たちがいて(つまり性を売るほかの生き方をえらばない)、 また、
解離妄想のなかでようやく生きられると思いつめる「出会い系サイトしかない」男女がいる。・・・

人はこうした社会的な心的抑圧によってあらわす心の病理とともに、
「胎乳児期の母子関係」の屈折によって負った心の病理を同時にかかえているものである。

そのため、現在社会に投げだされた「わたしたちのかれら」には、
「息苦しく、キツイ」切迫感から逃げだしたいという欲求がさまざまな症状として表出されるのである。
つまりそれがそのひと固有の心的病理のあらわし方(表出)となって、
そのときどきに社会的なタブーをまたいだり、こわしたりするわけである。

しかし、タブーをこわすという行為はなにも否定的な行動とはいえないだろう。
危険な予感をひめたままに、その時代の共同観念を破ろうとする行為であることにちがいなく、
かれらがその時代の観念の枠を解き放つ苦悩の旗手であるかもしれないのだから。

その苦悩の旗手のひとりにちがいないであろう「東電OL・W女史」について
なにほどかの見解をもとめるメールをいただいている。・・・
結論からいえば、彼女とて上記の心的病理の概念からはずれるものではない。
つたえられるW女のそのときどきの症状から、その病理の何ごとかが理解されるようにおもえる。

そのひとつとして、 W女には、
「娘の父親に対する無意識の強い恋愛感情= エレクトラ・コンプレックスがあった。」といわれている。
だがこのユングの見解はフロイトのエディプス・コンプレックス論にゆずる方が理解しやすい。
フロイトに拠った吉本隆明氏の『母型論』のなかで明解に論述されている。・・

いわく、『 男女の性にかかわりなく女性的で受動的な「大洋」の世界でも、
そのあとの陰核に性愛があつまる乳幼児期になっても、
女児は母親に愛着してすごすことになる。
だから、女児はエロス覚が陰核から膣に移行するまえに、
無意識とその核に、母親への過当な愛着をかくしもっている。
このことに例外はないとおもえる。

いまこの時期の母親への過当な愛着、いいかえれば母親の女児への過当な愛着に、
屈折や挫折や鬱屈があったとすれば、
陰核期から膣期への性愛が移ってゆく過程で、
父親に対するエディプス的な愛着が異常に深くなる。

それはこの女児が無意識やその核におし込めてしまったはずの
母親への異常に深く屈折した愛着が、
無意識のなかから存在を主張していることを意味している。

この前エディプス期における女児の母親への愛着、
いいかえれば母親への深い屈折した愛着の存在が露出してくるのは、
この女児が思春期以後に
神経症やパラノイアの病像に移ってゆくばあいの閾値を低くする素因でありうる。』–
まさしくW女は、ほぼこの論述どおりの心的な病理をかかえていたとみられる。
したがってW女にかかえられたこの病理は父親と母親にたいして根源的に屈折した愛着をみせることになる。

たとえば、W女が大学二年生の二十歳のときに、父親が病死している。
それをさかいに彼女が「拒食症」をあらわすようになったと証言されている。-

現実の父親との深い愛着の関係を絶たれてしまった彼女ではあるが、というものの
乳児期以来、すくなくともその情愛にたしかな記憶が刻まれないままの母親に、
あらたな関係をのぞめるわけもなかった。

– 拒食症とは何者にも依存できないゆえに自傷行動にむかう心の屈折をあらわす常同症である。-

その自傷行為のなかには、
「父親への追慕や同体意識」や「鬱による離人症状と強迫的覚醒との反復」などが隠されている。
彼女がそののちも拒食症状から回復することはなかったとおもわれる。
だから彼女が二十八歳のときに、東電の海外留学生をえらぶための社内選抜で、
ライバルと目された東大出身の女性が合格したころに、ふたたび入院するほど劇症化したことも
拒食行為をやめられなかった彼女自身の当時の落胆の大きさのあらわれとみられる。

そして彼女が三十歳のときには、意に沿わないリサーチ研究所への出向命令をうけている。
その翌年から論文発表をやめ、夜は風俗店のホステスをするようになる。
これが「転落」といわれる「ダブルフェイス」の生活のはじまりだといわれている。

彼女にとっての屈辱感と失意のおもいがはげしく、過大なあまり、
「もはやいままでのような拒食行為だけでは不足なんだ」という心的な欲求が
彼女をさらなる現実社会への病理的な侵犯にむかわせたとみとめられる。

したがってそこからホテトル嬢へ、そして立ちんぼの夜鷹へという「転落」はごく自然のことのようにうけとれよう。
『一日四人の客をとるまで帰らないというすさまじいノルマを自らに課し、
駐車場でのセックスさえ厭わなかった「絶対的堕落」-』 と書いた
佐野眞一氏の驚愕にこたえるとしたら、

「ラブホテルの部屋に脱糞や放尿」をする意味は、
彼女がいよいよ心的な破綻にすすむことへの幼児退行による不安の表現とみられるし、
「ビール瓶をひろいあつめて酒屋で小銭を得る」ことは、
彼女の生来の欠落をかかえた関係意識と了解意識が
嗜癖にみえるような退行をしめしているととらえられることとならんで、
「すさまじいノルマ」もまた、おなじように自傷による覚醒と退行の反復があらわす常同症とみなされよう。

そして佐野氏のいう「絶対的堕落」にいたる行動とは、
だれでもないW女にだけ映っているこの父なる社会というものに、
どこまでも覚醒をしいられつづけることへの病的な律儀さ、従順さがあらわす常同行為とみなされよう。

これは蛇足ながら、
W女がだれに殺害されたのかは、その社会的影響からみればおのずと見当がつくものとおもわれる。

ブログ・心理カウンセラーがゆく!http://blog.goo.ne.jp/5tetsuより 転載. 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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