2011年10月28日 連帯・共同ニュース第177号
9条改憲阻止の会
■ 別に漢字のテストをしているのではない。子供や孫との遊びにいたずら心をふりまいているのでもない。「福島隊」と鮮やかな文字の上、なお鮮やかに染め抜かれたこの文字を見て思わずうなったのだ。また、「福島県民は告ぐ」と書かれたビラにはこの文字と共に次のような文言もあった。「福島県民は『怒り』と、さらに『孔子の教え』を提げて参りました。今の状態は全てに於いて耐え難いものであります。放射能の汚染は野に満ちて、すべての物を疎ましくしています。子供達は、休み無く放射能の攻撃に晒されています。」「…子曰く、『それ恕か、おのれの欲せざるところは、人に施すなかれ』…と説いています」。怒りも通りこした状態というのがある。すべての物を疎ましくしています、という言葉はそれを物語るが、根源からの怒り、満腔の声がここにはこめられてある。恕は「原発いらない福島の女たち」の行動を端的に表わしている。
■ 経産省前路上には人が満ち溢れていた。女性を中心に老人から子供まで含めた多くの人たちが集まったが、どこかお祭り風の匂いもあってこれは良かった。マイクからは話の合間に歌声も流れ、毛糸で編み物をする人々は愉しそうだった。小さなグループの談笑に思わず足が止まった。集会と言う意味では大きな声が飛び交うこともなく、穏やかに終始したかも知れないが、これは表面的なことで一人ひとりの内心の声の集まりというところに目をやれば別の力のこもったものだった。数百の人々の見えない声のつながりや集まりは一つの意志の空間を形成していたのである。この力(意思の空間)は意志表示の言葉がない。だから、言葉ならざる言葉として渦巻いている。その集まりはだからまだ見えないとしても一人ひとりの内に反響しあってある。これが、いつ、どのように形のある言葉として出現するかは分からないが出発点をなすものだ。「脱原発・原発再稼働に反対する」これはここに集まった人々の共通のものである。だが、人々の内心の声、あるいはこころはこれにとどまらないもっと深いものである。現在の世界を変えたい、自分の存在を変えたい、もっと人とのつながりを感じられ世界にということである。原発のおぞましさは改めていうまでもないことだが、それもふくめ現在の社会のやり切れなさを僕らは感じている。それを超えていくビジョンは混沌としているが無意識も含めそこへの歩みをはじめているのだ。
■ 10月29日は午前中の座り込みに引き続き12時から日比谷公園での集会があり、銀座デモが行われる。日比谷公園→銀座→水谷橋公園というコースである。 (文責 三上治)