父親から中国人民解放軍で経験したことを日常的に聞いていたからだろうが、小学校を卒業するころには、すでにアメリカに対する疑念とソ連と社会主義への漠然とした憧れがあった。
中学に入ったとき東京オリンピックで、やっと世間並みにテレビを買った。テレビは日本製だったが、夕方の番組はアメリカ製が多かった。日本のテレビ局がまだ番組をつくりきれなかったのだろう。毎晩のようにアメリカの西部劇とホームドラマを観ていた。
小学校に上がる前、祖母に連れられて映画館によくいったが、そこで見たのは時代劇だった。年もとって、時代劇の記憶はなにもないのに、アメリカのテレビドラマは、断片的でしかないにしても、いまでも記憶に残っている。
ホームドラマでは、郊外の新興住宅地の家族のたわいのない日常生活が描かれていた。『名犬ラッシー』、『パパ大好き』、『うちのママは世界一』、どのドラマにも明るい将来を約束された家族がいた。残業で疲れきったお父さんはいない。ワンピースを着て、きれいに髪をセットした専業主婦のお母さんに学校に通っている子供が二三人。平和な日常に、話題を提供するちょっとしたハプニングで、安づくりのどうでもいいドラマが進んで、なにがあるわけでもないハッピーエンドで終わる。
きれいなキッチンには、見たときはなんだかわからなかったが、日本でも普及し始めてわかった、これでもかというほど大きな冷蔵庫があった。ソファーやテーブルを置いた広々としたリビングに明るい家族。いまでこそ日本でも見るようになったが、東京オリンピックのころの話、あんな生活もあるんだと、ぼんやりとしたうらやましさがあった。おかしな話のだが、家庭での話題はもっぱら社会問題やソ連や東欧に中国の話で、テレビに映っているのは豊かなアメリカだった。
七十二年に工作機械メーカに就職して技術研究所に配属された。試作機の設計を責務とした部署で、資料室で欧米の新しい技術情報を漁っていた。成熟した技術を駆使した機械は日本でも作れるが、新しい技術はまだまだ欧米からだった。私生活ではソ連や東欧が残っていたが、仕事になったとたんアメリカで、ソ連や東欧はまったく出てこなかった。
写真で見るアメリカや西ドイツの工作機械がいかにも先端をいっているように思えた。みるからに「ごつい」というのか、堅牢なアメリカや西ドイツの機械に比べて、日本の工作機械は鉄板細工のようで貧相だった。それは横綱と幕下の違いのようなもので、たいした時間もかからないうちに競合することになるなど想像すらできなかった。
デイヴィッド・ハルバースタムの『Reckoning』(邦訳『覇者の驕り』)にあるように、日本の乗用車が世界で通用する性能になったのは日産のブルーバードUがでた八十年代初頭だった。自動車部品を加工する工作機械はすでに七十年代の後半にはアメリカ市場を席巻し始めていたが、日常的にはまだまだ追いつけという掛け声が残っていた。
七十五年にニューヨーク支社に赴任して、客の工場で目にしたアメリカの工作機械は、「ごつい」というより時代遅れの設計基準から抜けきれない化け物のようだった。変動相場制に移行はしていたが、まだまだ円が安かったのだろう、同じ加工能力で比べれば、アメリカの工作機械は価格が二倍以上した。新しい技術をいち早く採り入れて、量産効果のもとに価格競争で打って出た狼のような日本メーカがマンモスのようなアメリカの同業を駆逐していった。
豊かなアメリカがあちこちに残ってはいたが、目にしたのはテレビなどの日曜品から乗用車にいたるまで日本株式会社にそれこそコテンパンにやられて、痛んだ社会だった。
高度成長以後も日本が豊かになっていって、一億総中流といわれ文化的も社会的にも安定した、すみやすい国になっていった。六十年代に社会にでた先輩諸氏は、下駄を履きかえるように車を乗り換えるアメリカの最盛期を目の当たりにして、羨望の呪縛からなかなか抜け切れなかっただろう。七十年代に社会にでた自分たちは、豊かなアメリカが傷んでいく過程と日本が急速に豊かになっていくなかで、かつての憧れがどんどん薄くなっていくのを経験した。
八十年代には、技術だけでなく日常的に接するビジネスの世界でも、かつてのようにヨーロッパやアメリカから学ぶことが極端に減ってしまった。追いつけ追い越せでやってきて、製造業という社会の一部でしかないにしても、かなりの部分で追い越してしまった。八十年以降に社会にでた人たちは、先人たちが多かれ少なかれもっていた、アメリカへの憧れがほとんどなくなって、日本株式会社こそが世界で一番いいと思ってきたのではないかと思う。気がつけば、かつてのように見本というのか手本とすべきものがなくなって、自分たちがアジアの中進国から見本や手本とされる立場になっていた。
追いつかなければならない技術や社会や文化があるうちは、彼我の差を憧れというかたちで力にして追いかけられたが、その差がなくなったとき、差があってはじめて生まれる追いつこうとする力が消えてしまった。二十一世紀になって、若い人たちが、ヨーロッパやアメリカにいって、しばし日本のほうが安全で快適で社会として進んでいると感じて帰ってくる。そこには追いかけるときには十分だった「すでにある」もの同士の、いってみれば程度の比較までの視点しかない。
社会も技術もあえていうなら文化も、今までにはそんなことやものがあるなどと想像もしなかったことやものを生み出す文化のエネルギーがつくり上げるのであって、「すでにある」もの同士の比較で、あっちがいいだのこっちが進んでいるだのという話ではないことには、なかなか気がつかない。戦前からヨーロッパやアメリカは今まで存在しなかった社会や技術に文化を生み出してきた。
若い人たちか実感している日本がいいというのが、日本に限らず世界のあちこちの人たちの憧れを生み出すことができるのかとあらためて考えると、日本人は一世紀以上の時間をかけて、いったい何をしてきたのかと思う。憧れを外に求め続けて、自ら今までには存在しなかった、あたしい憧れを生み出すという考えは、まだまだこれからということなのだろう。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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