書評:子安宣邦著『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社、2012)
ミシェル・フーコー(1926-1984)によれば、人間はつねに「起源を求めること、無際限に先立つ系譜を遡ること、伝統を再構成すること、進化の曲線をたどること、目的論をうち出すこと、たえず生の隠喩に立ちかえること、などに慣れてしまったところでは、差異を考え、偏差や分散を記述し、同一なものの、心を静めてくれる形態を解体させることに、独特な嫌悪を感じていたがごとくである」。「あたかも、われわれ自身の思考の時間のうちに、〈他者〉を考えるのをおそれていたかのごとくである」(ミシェル・フーコー『知の考古学』、中村雄二郎訳、河出書房新社、2006)。このフーコーの『知の考古学』に影響の下で、思想家である子安宣邦(1933-)は日本に対する一連の思索をはじめた。『近代日本の中国観』(生活・読書・新知三聯書店、2020)の中で、彼は自分の今までの心の葛藤を単刀直入に表明した。「中国とは昭和日本の問題であった。昭和日本の国家的運命、すなわち国家的進展の歴史的帰趨を究極的に規定するようにして中国問題があった。……われわれはどのような中国と、どのようにしてアジアの平和を確保していくのか。これが平成日本の国家的運命にかかわる本質的な問題であるはずである」。言い換えれば、日本と中国とはいまだに本質的な隣人関係を構築できないでいる。昭和から平成を経て、さらに令和にいたるまで、両国の経済関係はいかに緊密に繋がっていると見えても、本質的には疎遠な関係にある。日本と中国との関係がこうなってきたのは、日本が中国をどう見ているかということと深く繋がっている。本書の中で、子安は近代日本知識人の中国観を再読することを通して、アジア主義・中国主義の思想系譜に基づき、同じく現代知識人として、中国を考察する方法や、中国と付き合う方法をどう見つけるのかについて考えている。
子安宣邦氏の大学時代の専門はフランス文学であった。当時のフランス語学科は、中国語学科に次いで、心の浮ついた学生が多かったと言われている。フルシチョフの秘密報告が日本で明るみに出た後、当時左翼青年であった子安はショックを受け、勉強する気も起きずに学校を辞めてしまった。その後、再度倫理学を学んで、正式に思想史研究の道を歩み始めた。本書が出版されたのち、江戸思想史を専攻しているのに「わざわざ「越境」し中国を語るのはなぜなのか」と疑問を持つ人がいた。その質問に対して、「もし私が中国思想史を研究する者だとすると、この本は書こうとしても書けないはずだ」と彼は答えた。「外から見る視点」があってはじめて、普通の漢学者とは異なった角度で、日本における中国学研究の中で現れた欠点や問題点を見ることができたのである。だが、これらの欠点は、また一連の問題が連動して発生する可能性を隠してもいる。それを明らかにするのも『近代日本の中国観』の目的である。
本書は、いわゆる中国観を単純に羅列したものではなく、また日本人から見た「中国像」をまとめて抜粋したものでもない。じつは、子安自身は「像」という言い方に非常に抵抗感があり、いわゆる「○○像」はすべて人為的に作られたものだと考えていた。「言説」の具体的な内容よりも、彼は「言説」の目的や方法を重視した。本書の主な内容は、日本における「中国観」を具体的に説明するものではなく、これらの中国観がどのように生み出され、その中で何を見ることができるのかを考察したものである。著者の辛辣な批判と、「中国通」と呼ばれる漢学者たちへの疑問からは、本書執筆当時の子安の気分が窺える。本書は、彼のいつものスタイルを踏襲しており、各人物の重要な言説を各章の冒頭部分に置き、読者がその言説の問題意識に素早く入り込むことを可能にしている。それは特定の時期における各中国観が生み出された過程を具体的に観察し、それらの観点を子安の論理に従って分解・再構成することを可能にし、新たな解釈の可能性を示唆することを目的としているのである。
本書は、北一輝や内藤湖南、橘樸、尾崎秀実、森谷克己、平野義太郎、石川達三、火野葦平、竹内好、加加美光行、溝口雄三などの11名の代表人物を選んで論じている。百年という時間を超えて、アジア主義者や国家社会主義者、漢学者、ジャーナリスト、史家、法学者、作家、政治思想研究者などのさまざまな視点と分野から、本書は近代日本知識人の中国観を評価して論述した。もちろん、ここでいう論述は単なる学術的なものではなく、作者の思考や問題意識のもとで、正攻法のように登場人物と一対一で戦い、それらの論述の実態を提示することによって、精髄と欠点とを同時に読者に示すゲームのようなものである。
子安が本の中で褒め称えた何人かの近代知識人は、それぞれ異なった中国観を持っていた。例えば北一輝と尾崎秀実は真逆な立場に立っていたと言えるほどである。しかし、子安が関心を持ったのは彼らの中国観の内容ではなく、その中国観がどのように生み出されたのかという過程と原因であった。彼は、中国を考察する姿勢は、「純粋」で「自発的」なものでなければならないと考えており、現場であった中国に奥深くまで入り込むべきだと判断している。このような動機やアプローチがあってはじめて洞察力のある知的な視点に到達することができると考えたのである。小林秀雄(1902-1983)によれば、本当に魂のある文化は、「当たり前の思想や概念」にあるのではなく、農家や大工などの生活者らの「リアルな人生」や、伝統を継いだ職人らの「技芸」の中にあるという。子安氏はつねに言説者だと自称し、言説という行為に事件的な属性を与えた。事件的属性とは、つまり一般人の声で大物の誤りを矯正することである。中国語版の訳者である王昇遠が取り上げた「水槽文学史」と「江湖文学史」の概念を借りて言うなら、子安の中で理想的な中国観は、ある種の「江湖中国観」とも言えるのではないかと考えている。つまり、中国の古典を読んだり、中国に行って山遊びをしたり、誰かに命じられ短期的で表面的な観察をしたりするのではなく、中国での生活経験がたいへん豊富であり、エリートから農民まで、あらゆる階層の人々と深く接してはじめて得られた高論卓見なのである。総じて言えば、子安は主に四つの角度でこれらの中国観を評価し判断した。第一に、考察の方法は、硬直した静的なものではなく、リアルタイムで動的なものである。第二に、考察の深さは、表面的なものではなく、洗練されたものである。第三に、考察の視野に入ったのは、エリート階層のみだけでなく、さまざまな社会階層を考察している。第四に、考察の姿勢は、驕り高ぶったものではなく、純粋で自発的なものである。
読み進めていくと、本書は戦前・戦時・戦後という縦の時間軸に沿って、近代アジア主義の系譜にある11人の知識人と彼らの中国観を紹介しているように見えるが、じつはその裏にはもう一つの線があるように思える。すなわち戦前・戦時の北一輝と橘樸、戦後の竹内好と溝口雄三から成り立った作者の問題意識という本線である。ほかの人物はこの本線を際立たせるために、中国観の内容の関連性と時代性に合わせて、補足や参照として設置され挿入されたものでしかない。このような明暗のある線が混在することで、他とはことなり、本書全体が独特の紆余曲折をもって読めるようになっている。
この本で最初に紹介された北一輝(1883-1937)は、初期アジア主義の典型、代表的な存在である。ここで選ばれた作品は戦前に出版された『支那革命外史』である。辛亥革命が起きた後、じつは日本人の関心を集められなかった。当時の日本人は中国に鈍感で、学者が構築した「民族性」を盲目的に信じ込み、革命軍を皮肉っていた。さらに革命そのものが嘘だと信じる者もいた。大隈重信(1838-1937)でさえ、辛亥革命は中国に新たな文明要素を一つももたらさなかったと考えていた。同時代の日本知識人とは違い、辛亥革命の本質を見抜いた北一輝は、こうした「洞察」の中で一般民衆に見えない「民族の覚醒」と「新しい政治勢力」を意識し、明治政府を批判した。それは当時、かなりの先見的考えであった。本書では、主に孫文が日本に持ち込んだ幻の理想主義に対する北一輝の批判や、当時の中華民国の魂のような人物である宋教仁に密着して現場に介入し、日本の対華政策を根本的な修正を要求することで、日本とアジア変革との関連性を見出し、中国革命を利用し日本の中国認識の変革を進めようとしとことに着目した。北一輝は近代において最も中国革命の中心に近かった日本人と言っても過言ではない。中国では、北一輝はつねに否定的に捉えられがちであるが、近年の研究によれば、北一輝の当時の判断や観点の多くが検証されるようになってきており、彼の中国観はその時代において一定の思想史的な意義を持っていたと認めざるを得ない。
北一輝とはすなわち、こうした「江湖的中国観」の代表的人物であり、長い間で中国の現場に深く入り込んだ経験がなければ、このような的確で先見性のある判断はできなかったであろう。続いて紹介されたのは漢学者の内藤湖南で、北一輝とは正反対の「水槽的中国観」の代表人物である。北一輝も内藤湖南も、中国社会の枠組みの中に「郷勇・団練組織」の存在に気付いたが、内藤の場合は中国のナショナリズムの重要性に気付かなかった。それが彼の判断を誤らせた根本的な原因でもあった。内藤湖南の「文化主義」的な中国観は、「博物館的な硬直した中国文化の認識」であり、虚無的で実用でもない。『支那論』の中で「支那人のために支那のことを考える」という淡々とした表現は、植民地の宗主国という立場からの高飛車な口ぶりで、中国への軽蔑と中国通とすら僭称する驕りを感じさせる。『支那論』の初稿が上梓される前に、清の顧炎武、黄宗羲、曽国藩らの墨付きを巻頭に載せるつもりだったという。このことからも、内藤にとっての中国観の本質は、これらのエリート階層の思想の続きに過ぎず、彼の目に入ったのは伝統文化の巨大な慣性の下にある古い中国しかないことがわかる。その後の『新支那論』は、内藤が有馬温泉の枕席に寝そべって書いたものであった。彼にはもちろん激しい五四運動は見えなかったし、書物の中から学生運動の先例も見出せなかった。彼が目にしたのはいにしえから現在に至るまで存在してきたものしかない。新しいもの事や内発的なダイナミックスには関心がなかった。こうした歴史的認識と中国観に基づいた彼は、中国が現代国家として建設される可能性を排除してしまった。さらに、中国の未来についても、我に関与せずという態度を取った。
子安氏はいくつかの著作の中で、内藤湖南を激しく批判した。最初は内藤湖南の著書を学術的なテキストとして読んでいたが、その後批判するようになった原因の一つは、2001年京都大学の谷川道雄らが取り上げた『内藤湖南の世界――アジア再生の思想』という共同研究にあった。21世紀において内藤湖南の思想を復活させようとする学者らの動きに対して、子安氏は警戒するような思索を行ったのである。彼の考えでは、内藤の思想の復活は帝国日本の復活と同じようなものである。同時代の政治家やファシスト軍人の「中国観」とは異なり、漢学者としての内藤の「中国観」は、経典文献を引用することで独自のシステムを生み出すことができる。例えば、彼が吹き込んだ日本対華の「運命論」は、国家年齢論や文化中心移動説、異族刺激論、植民開発論などの一連の理論から導き出されており、きわめて説得力がある。だが、これこそが「水槽的中国観」の危険性でもある。一見理論性が高いように見えるものが、実際には混乱し現実には存在しないものである。こうした硬直した思想で問題を理解するなら、その水槽がいったん壊れれば、何もかも存在しなくなってしまうことになる。
続いて紹介された橘樸(1881-1945)と尾崎秀実(1901-1944)の二人は、子安氏によれば、当時の現場を肌で感じ取りながら、長く、かつ深く中国の生活を経験しており、日中の時局をはっきり把握していた「江湖的中国観」の代表者である。彼らは、中国問題における最も重要な側面であるナショナリズムを捉え、中国のナショナリズム問題の解決は日本の変革に密接に繋がっていると考えた。さらに、橘樸は本著で唯一、三章を占めた人物で、子安氏は橘樸をどれほど重視しているかが分かるであろう。しかし、戦前に国民党が東北を失うことを予言し、戦略地図一枚で中国共産党の勝利を予測したこの日本人に対して、その著作はじつに読みにくかったということは子安も認めざるを得ない。1906年に中国に来て、1945年に沈陽で亡くなった橘樸は、人生のほとんどを中国で過ごした。中国の政治、経済、社会、宗教などさまざまな問題について数多くの文章を発表し、「明治、大正、昭和時代の中国問題の原像を彼の思想と行動の変化の中にほぼ凝縮した」とされている。「私よりもあの人(橘樸)のほうが中国のことをよく知っている」と魯迅も心から絶賛していたほどである。それゆえ、中国をよく知っている橘樸は「水槽的中国観」の持ち主であった内藤湖南に、特にその淡々としたエリートのような姿勢にはいつも賛同しなかった。内藤のような「後進国の中国やそこに生活していた人々との関係性を排除した、歴史主義的な、さらには文化主義的な志向を持った先進国の日本の『支那学』という権威の目で中国社会を考察することは決してしないと彼は断言した。このように、近代日本における最後の「アジア主義者」と見なされた橘樸の中国観と中国経験は、「近代日本にとっての中国は何か」を考え直されると同時に、帝国大学の「支那学」的な中国観の責任を改めて問うことを促したのである。 橘樸のように、強い当事者意識を持ち、中国の民族問題の現場に入り込もうとした人たちのことを、子安氏は「尾崎たち」と呼んでいる。橘樸だけでなく、子安氏は尾崎秀実をも高く評価していることが窺える。中国で起こっていた戦争の現実を直視できたのは、「東亜協同体論」を思い描く者というよりも、「尾崎たち」だったと考えている。尾崎秀実はつねに、日本の中国への誤った判断が戦争を巻き起こしたと同時に、抗日戦争によって中国が内的に統一され、戦闘力となる民族主体が形成されたと訴え続けた。このような結果を前にして、知識人は内省と責任追及とを同時におこなわなければならないのである。
さらに子安氏は、戦時中の様々な分野における中国観の論述者についての紹介も補足している。ここでは、ウィットフォーゲルの「東洋的社会」や、「アジア的生産様式論」、「中国の村落共同体論」を独自に構築した経済学者の森谷克己(1904-1964)や、法学者の平野義太郎(1897-1980)、そしてペンクラブの作家である石川達三(1905-1985)や火野葦平(1907-1960)など、戦時中の中国経済、社会、戦場といった異なる視点を紹介することで、戦時中における日本の知識人の異なる中国観を提示している。
戦後の代表的な人物として、子安氏は竹内好(1910-1977)、加々美光行(1944-)、および溝口雄三(1932-2010)を選んだ。子安氏の数多くの論文では、竹内好研究をめぐる近年の傾向に対するある種の不安が示されている。2004年にドイツのハイデルベルク大学で開催された竹内好をめぐる国際シンポジウムをきっかけにして、竹内好がヨーロッパにおける日本学の代表的な研究対象となった。その後、2006年には、加々美氏らが日本でも竹内に関する学術シンポジウムを開催し、竹内好についての研究を継承し、再考するよう提案した。こうした学界の動きに対して子安氏は、竹内を21世紀に投影して問題化しようとする日本学界の思想的関心は一体どこにあるのかという疑問を抱かずにはいられなかった。終戦20周年に際し、中央公論新社が戦後の代表的人物の論文を選んだが、調査結果によれば、竹内好の言説が戦後日本に与えた意義と影響で高く評価されていることがわかった。戦時中の昭和10年代には、竹内は魯迅を通して文学者としての自己理解を深めた一方、戦後の昭和20年代には、また魯迅を通してアジアにおける日本人の自己認識に厳しく問い詰めていた。日本の現代化に対する彼の歴史的批判は、じつは東洋と西洋、アジアとヨーロッパの地政学的対比を前提として共有している。つまり、日本の敗戦によって、戦後の日本では地政学的な「東洋/西洋」の論題が復活したのである。子安氏の考えでは、これは明らかに侵略主義、拡張主義的な思想を持っているが、反政府的で反抗的な態度からアジア主義とも認められていた。竹内好がアジア主義から近代日本の発展の路線に対抗軸を設定しようとしたのは、彼が終始、拡張主義を弁解しようとしていたためである。アジア主義という対抗軸のもとで、「中心に向けた」国体論的国家の統一化と、「大陸に向けた」飛躍のような国家の拡大化は、近代天皇制国家としての日本の形成とともに引き継がれた二つの国家意志であった。竹内好は拡張主義を弁護する一方、日本近現代史にアジア主義者との対抗軸を無理やりに設定したのである。子安氏は、朝鮮半島の征服から大東亜戦争に至るまでの日本の近現代史の二重化は、竹内が設定したアジア主義の軸によって形成したのだと指摘する。「日中戦争」は、永久戦争の思想的課題をも前面に押し出した。現代日本の世論においては、「アジア」や「東アジア」の問題の復権と竹内好の再評価をめぐる課題だらけで、まるで「竹内の中国観」に戦争責任を問うことを忘れていたかのようだ。いまだに中国の学界で崇められていたこの「中国主義者」は、戦後においてすら戦時中に日本国粋主義文学として知られた日本ロマン派への重視を訴え、太平洋戦争がアジアを解放したと信じていたのである。
加々美光行と溝口雄三は竹内好を支持し、同じく「中国主義」的中国観を持っている。加々美は竹内好を考え直すことで幸福感を得たと言い、溝口も自分が「中国独自の近代」というパターンを発見したことで、竹内好を正しく受け継いだととらえている。溝口は、中国歴史から「独自の近代」を読み解く一方、「社会主義」の中国を「超克」的に論じていたのである。この「東」と「西」という政治的地政学的な「対抗性」の枠組みを通した超克が、20世紀前半の「近代の超克」の理論に基づいていることに、はたして彼は気づいていたのだろうか。溝口は、独特な中国を方法として世界を認識し、中国を中国として認識することを提唱している。すなわち、一元的なヨーロッパの世界史に還元できない中国と、世界そのものの多元性を認識することは、「方法としての中国」という世界認識の理想的な形なのである。子安氏はそれを解読する中で、じつはそれが戦時中の京都学派、高山岩男(1905〜1993)の「世界史の哲学」を模したものであることに気づいた。このいわゆる「世界史の哲学」は、帝国日本とその侵略戦争を哲学的に覆い隠したものにほかならない。日本から世界史の多元性を語る高山と、中国から語る溝口とは、本質から言えば、二人とも同じである。溝口は、国家の巨大な世界性的存在を背景に、国家の「独自の近代性」のみが歴史的実像だと主張することで、西洋的方法に基づいた近代化の枠組みを無効にしたのである。ここに、「方法としての中国」という理論を「近代の超克」論として再分析する必要性がある。竹内好、加々美光行と溝口雄三らは、侵略戦争への内省から親中派の立場をとり、日本のあるべき対中姿勢の模索を目的としているのである。それはあたかも親中派のように見えたが、その本質は戦時中と同じであり、単に政府の権威主義的な体制を支持していただけである。戦後、中野好夫(1903-1985)は、「すべての知識人の言葉が生き生きとした思想から生まれたわけではないことを、この敗戦を通じて、悲しいほど思い知らされたのだ。ある人は行動がいかにも変わりやすく、まるで時間や季節の変化に合わせて自由に着替えるかのようだ」と嘆いた。
2012年に出版された『近代日本の中国観』は、雑誌『現代思想』の「中国論を読む」でのシリーズ連載をまとめたものである。日中関係が緊張していたこの時期、子安氏の目に映ったのは、日本の知識層、特に中国研究者が当時の中国問題に対して無関心であるとしか思えない態度であった。彼は、現代日本において、いわゆるアジア主義や中国主義が思想的批判としての機能と意味を失っていたこと、日本の知識層が沈黙し、中国問題に取り組まなくなっていることが理解できなかった。中国研究者ではない人々が逆に、中国問題について盛んに議論し、あたかもそれが世論であるかのように社会全体に思わせ、日本の対中政策にまで影響を与えている。この点について、子安氏は憤りを示した。それは彼に近代日本の「江湖的中国観」を思い出させ、中国研究者が、今、中国現場の戦前・戦中のアジア主義に深く介入する必要性を唱えたのである。しかし、戦後になって、竹内好をはじめとする日本の知識人は、魯迅や毛沢東といった中国のエリートや権力者しか見ておらず、その背後により大きな力を持った大衆が見えなかった。21世紀になった今でも、日本の中国研究者は依然として、伝統的な「金魚鉢的中国観」を頼りにして変化し続ける中国を考えている。これこそが、「金魚鉢的中国観」に対する、「江湖的中国観」の戦後の方法論的意義である。戦前、戦中、戦後を経て現在に至るまで、基準とされてきた「金魚鉢的中国観」が日本に与えたのは、洞察力のある「認識」ではなく、表面的な「知識」のみであった。方法論としての役割を本当に果たせたのは、世間に忘れられてしまった「江湖的中国観」だったのである。
本書で子安氏は、さまざまな中国通や中国観を考察し、外部の視点から日本人がどのように他者を語るのか、どのように関連性を構築するのかを明らかにしようとし、日本思想にとって中国の方法論的意義と時代的意味を深く考えている。全書は、戦前・戦中・戦後の時系列を縦につないだ4つのポイントで構成されており、近代の知識人の中国観を「子安的」に観察している。それに基づいて、筆者は「江湖的中国観」と「金魚鉢的中国観」という二つの横線を判断の補助線として導入することで、本書の主線における戦前と戦中は前者に属し、戦後は後者に属することを見出したのである。しかし、真に方法論的な意義をもつ中国観は、戦後において思想的位相の分断と欠如を示していた。例えば、戦前に活躍していた橘樸、森谷克己、平野義太郎などのアジア主義者と「アジア社会論」などは、戦後はほとんど継承されなかった。特に、北一輝や橘樸の諸説は、戦後、ほとんど忘れられてしまった。これは無論、「時代に深く刻まれた」人物の経歴と関係があるかもしれない。彼らは従来の意味での知的エリートではなかったからである。そのため、戦後75年経った現在、日本に残っている戦後の中国観は、竹内好に代表される、溝口雄三により発展してきた「竹内的中国観」だけである。身をもって戦争を経験した子安氏は、長年の歴史的経験と中国への観察、そして社会の各階層と長年おこなってきた深い交流を通し、竹内の中国観の惑わしさと多義性を察知し、溝口の中国観の方向性とその結果を予測できたのである。竹内であろうと、溝口であろうと、二人の中国に対する見方と考え方は、じつは帝国日本時期のパラダイムを引き継いだものであり、時代こそ違うが、古いお酒を新しいボトルに入れ替えただけのようなものであった。そのため、子安氏は経験者の慎重さと知識人としての責任感から、日中関係が最も緊迫していた2012年に本書を出版することにし、近代日本の中国観の再認識を通じて、戦後の中国観の思想的脈絡と道筋を明らかにすることを目指した。フーコーは、かつて歴史家が削除していた「不連続性」が、今や歴史分析の不可欠な基本要素となり、特別な機能を持つようになったと主張する。それと同じように、戦後、方法論としての「江湖的中国観」の欠如に気付いたからこそ、問題点を明らかにし、中国と日本の付き合い方について歴史的思考を人々に再喚起させるのである。
しかし、日本の知識層が中国に対してあまりにも無関心だと思えた子安氏は、皮肉なことに、この本でその無関心さを払拭しようとしたものの、出版後、日本の学界や世論には何の動きも起こらなかったし、まともな書評さえ現われなかった。日本の中国研究界は恐れるほど沈黙してしまい、子安氏は自分の評論家としてのキャリアがこれで終わってしまうのではないかとさえ疑っていた。なぜこの本が日本のメディアや学界から冷や飯を食わされたのか。彼はどうしても理解できず、仕方なく吉本隆明(1924-2012)の「関係の絶対性」という言葉を借りて説明するに至った。このジレンマが日本の政党の「関連性」と関係しているのではないかと考えたのは、つまり、いったんその言説が党派的関係の中に置かれてしまうと、それがすべての党派の標的になってしまうからである。言い換えれば、この本は、現在の対中立場の「踏み絵」となってしまい、現代の中国に対する見解の違いが、しばしば党派や学派の立場を意味するがゆえに、誰もが「同じ党に群がり、異なるを伐つ」ことを恐れている。異なる立場から、人身攻撃を始める可能性もなくはない。しかし、さらに皮肉なことに、中国ではこの本の訳本が出版後わずか1ヶ月で、万聖書店の月間売上ランキングのトップ10に入った。中国語翻訳の正確さに感心しつつ、SNSでこの本に無関心な日本の世論界や中国問題を研究する知識層に対して声を上げ、複雑な気持ちを吐露しないではいられなかった。同時に、それ以上に考えさせられるのは、今、本書に対する日本の中国研究者の無関心、回避、様子見などの態度は、この時代の日本の知識人が抱いていた中国観を如実に反映しているのではないか、ということだ。それはむしろ、日本の知識人の近代中国観が注目されなかったからこそ、現代的問題になってしまい、竹内氏らの「風向きを見て舵を取る」といった中国観が完璧に再現されたということである。著者である子安氏が最も心配していたのは、まさにこの点なのではないだろうか。
注(石井知章記):本書評の原文での初出は、『解放日報』(2020年10月31日)であるが、当初の「江湖中国观的战后缺失:一本在日本当下遭遇冷落的方法论著作」(「戦後における「江湖中国観」の欠如――日本に冷遇された方法論的著作」)というタイトルは、「放眼“江湖”,而非置于“鱼缸”」(「金魚鉢」でなく「江湖」に眼を向けるということ」)として、内容も若干の編集の上、公表された。本サイトのURL(最終確認日:2022年3月29日)は以下の通りである。
https://www.jfdaily.com/staticsg/res/html/journal/detail.html?date=2020-10-31&id=302709&page=10
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔study1213:220331〕