戦後日本人への違和感 ―沖縄の悲しみと離れられるのか―

著者: 岩田昌征 いわた まさゆき : 千葉大学名誉教授

 6月23日(水)に変革のアソシエにおける三上治主催の福島原発暴走阻止プロジェクトの山田恭暉を囲む討論に参加した。そこで、驚いたことには、私を除く殆どすべての人が9条絶対堅持の立場であった。私は、社会問題に関心を持ち始めた中学生の頃から社会主義志向であった。ソ連東欧の集権制社会主義とユーゴスラヴィアの労働者自主管理社会主義が崩壊した後でさえ、勤労常民にとって我慢できる経済社会生活を確保する上で、社会主義理念の死滅や社会主義的諸制度の全面的欠如は悪条件であると考えざるを得なかった。独立社会主義者である立場を自己否定する理由は見い出し難かった。社会主義肯定=絶対平和主義という通念があるのだろうか。「9条の会」創設の頃、何回となく入会勧誘の手紙を受け取った。平成16年4月に千葉大学から東京国際大学に移った時も、学生時代の社会科学研究会で知り合った旧友の原朗(東京国際大学教授、東大名誉教授)から入会の誘いを受けた。私は旧ユーゴ社会主義の全人民防衛思想や90年代旧ユーゴ多民族戦争にうごめく諸列強のパワーゲームの実際を述べて、憲法前文や9条を100パーセント信頼して、国際社会に打って出る訳に行かないと説き、以下のような私の判断順位を示した。(1)安保廃棄+9条改正、(2)安保維持+9条堅持、(3)安保廃棄+9条堅持、(4)安保維持+9条改正。(1)>(2)>(3)≒(4)。ここで > は「より好ましい」を意味し、 ≒ は「殆ど同じ」を意味する。(3)と(4)は、ともに亡国の道、民族衰亡の道であるが、若干の差がある。(3)は、理想主義的亡国化であり、(4)は実利主義的亡国化である。原朗は、「君のバルカン経験を尊重する」と言って、それ以上強く勧めなかった。

 それ故に、「9条の会」の集会に参加したことはなかったが、今年の1月16日(日)、千代田区か文京区かの「9条の会」主催の板垣雄三教授「アラブ問題」講演会に出席した。講演後の討論において上記の自説を述べたところ憲法前文の信奉者数人から反論を受けた。反論の中に沖縄米軍基地問題が指摘されたので、(1)を良しとする立場から沖縄米軍基地問題を次のように見ると説明した。すなわち、第二次大戦中、日本軍、独軍、そして伊軍は、他民族の生活本拠地に侵攻した。しかし、独伊軍と日本軍の間には大きな差があった。独軍も伊軍も敗北過程の中で自分達の本土を守るための防衛戦を勇敢にたたかった。日本軍は、他民族の土地では敵軍が驚くほど勇敢にたたかったけれど、民族の本拠地を守る陸上防衛戦、つまり真の戦争をたたかいぬかなかった。これは、民族としては不名誉である。勿論、この点以外ではプラスの選択であったが。この不名誉を救ってくれたのが、沖縄戦をたたかった沖縄県民である。それ故、敗戦後、すくなくとも沖縄だけは完全に平和な島にすること、それが日本国民の責務となる。沖縄が戦争に近く、本土が平和に近いという戦後の長期的事実は、日本民族の不名誉であろう。このような私の考えは、昭和58年に出した本の中で銘記してある。

 ここに、私は、沖縄戦終了の月が終わろうとする今、30年近い昔の旧文を提示しておきたい。

 本書を仕上げている最中、沖縄に旅する機会があった。

 本書の対象となったユーゴスラヴィアもポーランドも第二次大戦中国土が戦場になった国々である。日本はB-29による空襲や艦砲射撃でたいへんな人的物的被害をこうむったけれど、両国におけるように何十万・何百万の重武装軍団が人びとの住むところで砲火をまじえ、戦車集団が激突したわけではなかった。1983年2月、沖縄大学の集中講義に招かれた折に南部戦跡をはじめとするいくつかの戦跡を高良有政沖縄大学教授の案内で訪ねてみて、日本の一部で「本土決戦」が熾烈に闘われていたことをいやでも実感せざるをえなかった。書物で映像で知っていても、少年の頃その戦闘で傷をうけた高良教授とともに摩文仁岳に立ったときほど胸に迫ることはなかった。ポーランドでもユーゴスラヴィアでも、多くの犠牲者を出した場所や戦跡はきちんと整備されて、国民的記念公園になっている。その点、南部戦跡の都道府県別墓銘碑、健児の碑、ひめゆりの塔も同じであるといえばいえよう。しかしながら、両者には何か質的な差があるように感じられた。彼の地の場合、そこに満ちているものは、悲しみというより、ときには怒り、ときには誇り、さらには未来への語りかけであった。沖縄の場合、何かそれとは異なる。満たされないもの、悲しみだけでなく淋しさがつきまとって離れない。それは、犠牲となった民衆一人一人の死の意味が、戦って倒れた人びとの死の意味がしっかりと国民的につかまれていないことからくるのだろう。私にはそう思われた。

 かつて、1964年11月、はじめての海外留学に向けてユーゴスラヴィアの船で日本を離れたとき、緑なす沖縄の島影が遠去かりいくのを眺めつつ、当時まだアメリカの統治下にあったにもかかわらず、ああ、これで日本を当分みれないな、と感慨にふけり、そして、早く沖縄が日本にもどってくればよいな、と希望したものである。しかしながら、沖縄にきて、南部戦跡や巨大な米軍基地の実在をかいまみてしまった今、この島を日本へとりもどしたときに、あの巨大基地を本土の(たとえば首都圏の)どこかに受け容れても、沖縄が完全に平和な島として日本に帰るように努力すること、それは本土決戦を沖縄が引受けてくれたおかげで生き残れた自分たちの人間的義務ではなかろうか、という思想に想い至らなかったあのときの「希望」の底浅さに恥入る。

『現代社会主義の新地平』(日本評論社、昭和58年・1983年、あとがき)

沖縄(昭和五八年二月)

  ひめゆりの     みたまらは     たてをふせ
  をみな児ら     かたらずも      ほこを折り
  みまかりぬ     摩文仁たけ     よそとせを
  かのあなを     ふくかぜの     こともなく
  たてあなを     くやしきを      経りぬれば
  きさらぎの     かなしきを     みたまらに
  ながめこそ     つたふれば     ときこそは
  くらくらと      なみだこそ     とまれるを
  濡らしけれ     あめまじれ     問はざりき

『凡人たちの社会主義 ユーゴスラヴィア・ポーランド・自主管理』(筑摩書房、昭和60年・1985年、あとがき)

平成23年6月27日

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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