戦没者の追悼の歴史に新たな道が

靖国神社問題に関心を寄せる度にいつも湧く疑問があった。西郷隆盛等が何故に靖国神社に祀られないのか、ということだった。これは一般的にもよく語られることでもある。明治維新後の内戦において反政府側の戦死者は靖国神社に祀られていないのであり、彼らは国家への反逆者として排除されている。こういう判断を祀る基準にすることヘの疑念があるわけだ。

あれは何時のことだったろうか。靖国神社に反逆者として祀ることを拒否されてきた面々に代わって,靖国神社に理由を問いただしに行ったことがある。もちろん、これは現在の靖国神社に対する批判の一つとしてなされたのだった。確か僕はその時に2・26事件の青年将校の面々の代弁者という役割を受け持ったように思う。三島由紀夫は彼らも英霊としているわけだが、彼らが「俺も祀れ」と言ったか、どうかは分からないが、そう言ってもおかしくはないのである。この時に、僕にあったのは戦死者(戦没者)を祀るということの疑念が根底にあって、なお、その上で靖国神社の祀りかたには批判があった。さしあたり、現在の祀りかたへの批判をしたいのである。もう少し前には加藤典洋が『敗戦後論』において、太平洋戦争における国内三百万人の死者をアジアの死者と切り離してまず追悼すべきだということを提起して議論をよびおこした。これも記憶に新しいところである。

戦死者を追悼するとはどういうことか。これは自然死とは違う形の死という要素がある戦死をどう理解するか、という問題がある。一般的には国家のために死んだという評価から、国家によって殺されたものだというところまで含まれ、様々の立場がある。国家という共同の幻想に殉じた英霊から、国家からの殺戮を受けたものという違いは簡単に埋められるものではない。こうした中で

さしあたって国家が追悼するなら、歴史の中の不可避な死として扱うべきであり、国家はその立場(立場からの評価)を避けるべきである。国家が戦死者を追悼し、祀るなら無差別に、しかもできるだけ広く追悼すべきである。歴史の中で不可避的に戦争の場面に遭遇した人々として、不可避に死んだ人たちとして追悼すればいいのであり、国家的な視点の入ることもいらない事である。無差別にただ、戦争を介した死としてだけでいいのではないのか。自然死に近い場所に近づけた形で追悼すればいいのであり、英霊として祀るのは対極にある考えである。

この戦死者の追悼問題は明治維新以降の歴史と深く関わる問題だし、それだけ厄介な問題である。そこに靖国神社が存在していることで、問題をさらにこじらせている。本書こうした疑問に答えるきっかけ、いうなら戦没者追悼の歴史にあらたな道をつけるものになっている。明治維新以降に反政府側に立ち戦死した人々の追悼され方を丹念に追い、その実態を示すことで、靖国神社に祀る様式への疑問と喚起し、それを考えることができるようになっている。この本は戊申戦争から、西南戦争にいたる反政府軍側の戦死者に対する追悼の問題にスポットをあて、その実態を析出している。断片的にはともかく、全体的に、しかも細部にわたっての析出は初めてであり、画期的である。これまで忘れさられるか、タブー視されてきたところの光をあて、その研究のための初めて石を置いたことになるのだといえる。

その意味で僕の長年の疑問を解く道筋を与えてくれるものであるが、明治維新以降の歴史を見直したいという欲求にも応えてくれるものである。明治維新以降の歴史を見直したいという場合にヒントになるものが散見している。

国内での戦役の死者の追悼の公的歴史は一面的であり、戊申戦争から西南戦争での戦死者、とりわけ反政府側の死者は忘れさられたというよりはタブー視されてきた。しかし、地域ではこの困難を突き破って多くの人たちの追悼や祀る努力が重ねられてきた。その多くを僕は本書で知ったわけだが、これには感動した。この丹念な調査や資料の発掘には困難が伴ったのだと推察されるからでもある。《戦死者というと戦闘の場面での死者をイメージしがちであるが、僕はこれを戦争の中の死者と言う意味で使いたい。戦没者という意味に近いところで使っている》

本書は反政府軍の戦没者の慰霊を大きくは三つに分けて取り上げている。これはそのまま章の編成になっているが、一つは上野の彰義隊の戦死者の慰霊である。もう一つは会津戊申戦争の戦死者の慰霊である。最後が西南戦争における戦死者の慰霊である。この三つの戦争自体が異なった性格を持っていて複雑な関係の中にあるが、共通点をあげれば三つの戦争の戦死者は靖国神社には祀られてはいないということがある。反政府側の立場にあり、国家に対する反逆者として扱われてきたことのだから、当然と言えばそれまでのことだが、これは逆に靖国神社の性格を浮かびあがらせることになる。歴史や戦争の見直しにともなって国家に対する反逆者ということも変わるわけだから、靖国神社の頑なな性格に対する疑念は一層増すだろう、と思う。

もう一つは戊申戦争や西南戦争を「朝敵・賊軍」として闘い、戦死者となった人たちは国家レベルではともかく、地域ではそれなりに追悼されてきていることだ。特に会津と鹿児島では地域に深く根をおろしているところが印象深い。

さらに、これは案外知られていない事だが、戊辰戦争では特に政府側(西軍)に対して反政府軍(東軍)の戦死者が圧倒的に覆いといことである。これはやはり、衝撃的な事であり、考えさせられることである。軍事的・体制的に政府軍の方が優位であったこともあるが、それだけに問題を着せないで見る必要があるように思う。例えば、会津側で戦死者を追悼する視点が「朝敵・賊軍」という汚名をそそぐことに中心のあったことは考えさせられことだった。この点で西南戦争を反政府の立場で闘った側との違いは興味深い。

上野の彰義隊の闘いは戊辰戦争の実質的な入り口にあるものと言える。もちろんこれは「鳥羽伏見」の闘いで始まっているわけだが、会津での戦争がその中心をなし、函館の戦争がしんがりであることを思えば、そう言って間違いはない。幕府幕臣を中心とする上野の彰義隊の戦争は初めから勝負の決まっていたようなものであった。この戦争は芥川龍之介などにも作品がある。幕府幕臣側は基本的な意味で戦闘体制を持っていなかったのである。勝と西郷の会談で江戸城も無血明け渡しが決まっていたのだから、はじめから勝負はついていたのである。この中でおもしろいのは大村益次郎の銅像が靖国神社にあり、西郷隆盛の銅像が上野公園にあるいきさつである。いくらか、皮肉もこめて紹介されているが、明治初期の複雑な動きを示しているといえるだろう。

やはり、この本の中心をなすのは会津戊申戦争である。戊辰戦争が徳川政府に親近感を持つ東の諸藩に対する薩長等の西半が仕掛けた戦争であるが、江戸城の明け渡しをはじめ東の諸藩にとっては勝ち目のない戦争だった。その意味では会津藩の闘いは列藩同盟があっても西の藩の全体との闘いを意味し、地の利を考えてもはじめから敗北の色の濃厚なものだった。本書では会津戊申戦争の実態がよく描かれていて、初めて知ることもあったが、西軍(政府軍)の会津藩に対する対応はかつての京都守護職や新撰組のこともあって極めて厳しく、報復的であったのは想像した通りだった。

戦死者を葬る事すら許されない事態の長く続いたとある。例の白虎隊のことも知られるには時間がかかっているのであり、政府の差別的な対応もあり、会津藩と言うか、会津地方の戊辰戦争後の困難な歩みと、なかなか許されなかった死者の追悼とが同一の歩みであったのは悲劇的である。会津地方の人々にとって「この間の戦争」とは太平洋戦争のことでなく。戊申戦争であるとよくいわれるが、この事情はよくわかるようにも思う。

会津藩やその地方の人々がいくらかでも復権の契機になるのはこの政府軍(西軍)の内部の紛争というべき西南戦争によってであったことは歴史の皮肉だろうか。この最後の章をなすのは西南戦争である。西南戦争も戊申戦争と同じでそれほどよく知られてはいない。西郷隆盛が鹿児島に帰り、そこで出来た私学校党の反乱であり、政治的には征韓論が政府と西郷派の対立であったとされる。あるいは明治新政府に対する士族全体の不満の高まりがあったとも言われる。でも、こうした、公式の考えに対する見直しの気運は高まっており、本書の展開はその一助になるかも知れない。戊申戦争の後に西郷は薩摩に帰り、藩内改革をやる。この成功によって明治3年の政府改革後の復帰でも力を果たした。地租改正や廃藩置県という明治5年の改革は西郷の力なしには不可能だった。その意味で征韓論の対立ということも見直してもいいのだと思う。戊辰戦争後の政府軍(西軍)の内部対立の問題はもっと見直していいのだ。

なお、戊辰戦争を闘った政府軍(西軍)の内で長州は帰藩するや奇兵隊始末

問題を発生させ内紛を呼び起こす。内内戦のようなものであり、戊辰戦争を闘った奇兵隊の多くは粛清され、従って靖国神社に祀られてはいない。靖国神社のもとになる招魂社は高杉晋作が奇兵隊のために作ったものである。それが戊辰戦争の中で発展して行き、広がるが高杉晋作が靖国に祀られていないように、奇兵隊の面々の多くもそうである。この辺は西南戦争とともに今後、検討されていくべきところだと思われる。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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