『歴史のための弁明―歴史家の仕事―』マルク・ブロック著 讃井鉄男訳(岩波書店1965)
*新版『歴史のための弁明』松村 剛訳(岩波書店2004):マルク・ブロックの長男により校正された新たなテキストに基づいて翻訳されたもの-残念ながら私はまだ読んでない。
書評ではなく、あくまで当該書籍からの引用、さりとてオーソドックスな旁引(博引旁証)とは程遠い、きわめて恣意的な、まさに「暴引」と称するに等しいやり方で、断片的な抜書きを綴り合せながら気ままに読書を楽しみながら紹介をやってみたい。読者諸氏にも気楽な気分でのお付き合いを願いたい。
最初に取り上げたいのは、リュシアン・フェーブルとともにフランス歴史学会を世界的に有名ならしめたアナール派(『社会経済史年鑑』の「年鑑」[=Annalesアナール]に由来する名称の学派)を創設したフランス歴史学界の重鎮マルク・ブロックの未完成の遺稿である。
何故これが未完成のまま残されたのか、この書の中で彼は何を語りたかったのか、これらの点を中心に、マルク・ブロックの思想をサーベイしていきたい。
1.マルク・ブロック-リュシアン・フェーブル、フェルナン・ブローデルと『アナール学派』
マルク・ブロックは1886年にリヨンに生まれている。高等師範学校を卒業後、1915年に第一次大戦に従軍、終戦後、ストラスブール大学で中世史の教授をつとめているうちに、社会経済史への関心が芽生える。そして1937年にはソルボンヌ大学に経済史の教授として迎えられる。彼の最大の学問的功績とたたえられるのは、フランス農村史の研究である。(『フランス農村史の基本性格』1931は名著といわれる)
そしてこれとは別に、リュシアン・フェーブルとともに国際的な経済史雑誌のプランを立て、1929年に両人を中心に創刊されたのが『社会経済史年鑑』である。
もちろん、アナール派といえば今日では、フェルナン・ブローデル(1902-1985)の名前とともに知られているが、そのブローデルは、彼ら両人について次のように語る。
「ブロックとフェーブルの時代には、雑誌を読んでくれるフランス人は3~400しかおらず、それに100人ほどのイタリア人読者がいた程度でした。しかしながら当時の『アナール』は、1939年までは、つまりマルク・ブロックが表面から退いて、ついで姿を消すまでは、ぬきんでてすばらしいものでした。ブロックとフェーブルが議論をし、あるいは言い争いをする場合、つまりかなり頻繁にあったんですが、その結果はいつも実りゆたかなものでした。」「『アナール学派』は、ブロックとフェーブルとが作家であった限りにおいて、一種の文学的な学派だったものです。ブロックよりフェーブルの方がいっそうですがね。個人的には私はリュシアン・フェーブルの方をはるかによく知っておりましたが、知的な面からいえば、むしろマルク・ブロックの線に沿っているかと思います。ただ私はブロックと、ほとんど面識はないんです。」(『ブローデル 歴史を語る』ブローデル他 新曜社1987)
1939年第二次大戦が勃発、当時ソルボンヌ大学教授であったブロックも従軍。1940年フランスはナチスドイツに降伏するも、引き続き彼は反ナチスのレジスタンス運動に参加し、郷里リヨン方面でのレジスタンス指導者として活躍したが、ドイツ秘密国家警察(Geheime Staatspolizei=Gestapo)によって捕縛され、ひどい拷問の末、1944年6月16日に27人のフランスの愛国者(Patriot)の一人としてモンリュックの監獄からリヨン郊外の野原に連行され銃殺された。
その連行の際に、次のような感動的なエピソードが残されている。
「…一行の中には、すでに灰色になった髪と、生き生きとした鋭いまなざしをもった一人の老人がいた。彼のそばには、16歳の一人の少年が震えながら立っている。『あれは痛いでしょうか。』老人は愛情をこめて少年の手をとり、『そんなことはないよ、痛くなどあるものか。』と答える。そしてこの老人は最初に『フランス万歳』を叫びながら倒れた。」(p.175)
2.「暴」引・断簡零墨-いかなる状況下で書かれたのか
この草稿は彼がレジスタンス運動を続ける中で、つまり手元に何の資料も持たず、記憶をたよりに書き継がれていったといわれる。これを読めばお分かりのように、誠実に、実によく考え抜かれた歴史に関する思想である。しかし私がここでご紹介できるのは、きわめて恣意的で断片的な引用と、これまた手前勝手な点綴(つまり、鋏とノリをもって)でしかない。こんな姑息なやり方でもって、この書物の面白さを少しでもお伝えできないだろうかと、虫の好いことを考えているのである。願わくば、この断簡が少しでも皆様方の琴線に触れ、これを機に現物を読みたいとの気になられますように祈るばかりである。
手始めに、ブロックがおそらく最も信頼を寄せていたであろう友人、リュシアン・フェーブル自身の手になる「この書の原稿はどのようにしてできあがったか」という小論(この本の中には「付録」として収められている)から入っていきたい。これを読めば、当時ブロックがどういう状況の中でこの論稿を書いていたかがよくわかるからだ。
(1940年5月のナチスドイツ軍のフランス侵入以来、ドイツ軍の追撃にあい)「ダンケルク―ロンドン―ブルターニュの悲劇的な迂回の後に、フランスに帰ってブロックが再び仕事を始めた時、彼が没頭したのは、『歴史のための弁明』を書くことであった。正確には、それはいつからであったろうか、はっきりと私は言うことはできない。私は最初の日付を随意に用いることができる。ブロックが私のために書いた感動的な頁(「リュシアン・フェーブルへ-献辞として-」)の末尾に、我々は、『クルーズ県フージェールにて、1941年5月10日』と読むことができる。そして彼の書類綴じ込み帳の中に挿入された一枚のルーズ・リーフ紙の上に、我々は同じく次のような文字をも読むことができる。
『仕事の状況、1942年、3月11日、(1)第4章を終わるために、総論と文明論を書くこと、そして読み返すこと。(2)第5章(変化、経験)にうつること。…』
1941年5月10日と42年3月11日。この日付以後、ブロックは事実、第4章を書き終え、第5章(これには彼は決定的な題名をつけていない)に着手する時間があったのである。そしてそれがすべてであった。」(pp.168-169)
こうしてこの論稿は、マルク・ブロックの拘束とその非業の死によって永遠に未完のまま残されることになった。
リュシアン・フェーブルによれば、この草稿は当初、全7章からなる予定であったという。
「…そこでは、七つの章が予定されている。それらの章に彼(マルク・ブロック)はそれぞれ次のような題名をつけている。
第1章 歴史認識 過去と現在
第2章 歴史的観察
第3章 歴史的分析
第4章 時間と歴史
第5章 歴史的経験
第6章 歴史における説明
第7章 予見の問題
結論としてブロックは、『市民の身分と教育とにおける歴史の役割』に関する一研究を書こうと計画し、また『歴史教育』に一つの付録をあてようと考えていた。」(pp.169-170)
先の引用からお分かりのように、実際には第4章まで書かれ、第5章は題名をつけられないままで中断されている。彼がこの遺書(遺稿)の中で、何を語りたかったのかは、上の目次からわれわれが推論するしかない。しかしそのためのいくつかの指針は、かなりの部分「問題意識」という形で残されたままではあるが、この書き残された章の中に散見できる。読者の「賢」はきっと私の「暴引」の中にブロックの真意を見出されるに違いない。
3.「暴」引・断簡零墨-この論稿執筆の意図について
「『パパ、歴史は何の役にたつの、さあ、僕に説明してちょうだい。』このように私の近親のある少年が、二、三年前のこと、歴史家であるその父親にたずねていた。読者がこれから読まれようとするこの本について私の言いたいことは、この本が私の返答であるということである。というのは、一人の作家が博学な人々にも、小学生にも同じような口調で話すことができるということほど立派な賛辞を、その人のために私は考えだせないからである。けれども、これほど程度の高い平易さは、少数のたぐいまれな選ばれた人々だけが持つ特殊な天性なのである。少なくとも一少年のこの質問を-おそらく私は、即座には彼の知識欲を満足させることに、十分な成功を収めなかったのだが-私は喜んでここに箴言として記憶にとどめておくだろう。たしかに、ある人々は、これを素朴な決まり文句と考えるかもしれない。ところが反対に、私にはそれは全く適切であるように思われるのである。この決まり文句の提出する問題は-このなだめにくい年頃の少年の厄介な正直さはあっても-まさしく歴史の正当性についての問題に他ならない。」(p.ⅲ序文)
それでは歴史は「何の役に立つのか?」、この「役に立つ」という実用主義的な発想に対して彼は次のように回答している。
「歴史に対して、我々を憤慨させる傾向がある。『役に立つ』という語の狭い意味、すなわち『実用主義的』な意味における歴史の効用の問題は、固有な意味において知的な歴史の正当性の問題と、混同されてはならない。なおまた、効用の問題は第二義的にしか生じない。すなわち合理的に行動するためには、まず理解することが必要ではなかろうか。けれども、効用の問題もまた回避できないだろう。さもなければ常識のやむに已まれぬ示唆に、半分しか答えられないから。」(pp.ⅺ-ⅻ序文)
4.「暴」引・断簡零墨-歴史の対象:変化するものと変わらないもの
「歴史の対象は、その性質上、人間(l’homme)である。もっと適切に言うならば、人間たち(les hommes)である。…風景の目につく特徴、道具、あるいは機械の背後に、また表面上は冷淡きわまる文書やそれを制定した人々とは一見全く無関係に見える制度の背後に、歴史が把握しようとするのは、人間たちである。そうすることのできない人は、せいぜい博識の未熟練労働者にすぎないだろう。良い歴史家とは、伝説の食人鬼に似ている。彼が人間の肉を嗅ぎ出すところ、そこにこそ、獲物があることを彼は知っているのである。」(p.8)
「諸々の過去の事物のうちで、最後には、何らの痕跡も残さずに消え失せた信仰や、不成功に終わった社会形式、死滅した技術などのように、現在を支配することを止めたように見えるものでさえ、人は現在の理解のために、これらのものを無益と考えるであろうか。そう考えることは、ある種の比較の鍵鑰なしには、真の知識はないということを忘れることであろう。もちろん、比較が多種多様でしかも関連ある事実に基礎を置く、という条件付きでではあるが。…
たしかに、マキャヴェリが書いているように、またヒュームやボナールが考えているように、時間の中には「少なくとも何らかの変わらないものがあり、それは人間である」とは、今日ではもはや我々は考えないだろう。人間もまたその精神において、そして、確かに彼の身体のもっともデリケートな組織に至るまで大いに変わったことを、我々は知っている。人間はそうであるほかないではないか。彼の精神的雰囲気は、彼の衛生、栄養に劣らず、非常に変化した。にもかかわらず、人間の性質や人間の社会には、普遍の基礎があるはずである。さもなければ、人間とか社会とかいう名称そのものが、無意味になるであろう。それ故、これらの人間を、ある時期に特有の状況に対処する、彼らの反応の中においてのみ研究して、彼らを理解したと我々は信ずるであろうか。この特殊の時期における人間がどうであるかということについても、経験だけでは不十分であるだろう。一時的には明白ではないが、刻々に目覚めることのある多くの潜勢力、および個人や集団の態度の多少とも無意識な多くの原動力は、不明のままに残されるだろう。ただ一つの経験はその独自の要素を判別し、したがってそれ自身の解釈を提供することは常に不可能である。」(pp.24-25)
この条は、さまざまな領域の問題を考えるうえで大いに考えさせられる箇所である。「変化」(ドラスチックな変化)と「不変化」(実際上はきわめてゆっくりした変化をも含む)-そもそも、両者は一対のものであり、変化とは不変化に対してのみいいうるのだが。
例えばこんなことを連想してみる。「資本主義」という時代現象、これは15世紀半ば頃からおよそ500年以上も続いている現象であると考えられている。この現象における「不変化」を仮に「原理」と呼ぶとき、「変化」(「重商主義段階」「自由主義段階」「帝国主義段階」など、宇野学派のいう「段階論」的変化を一応念頭に置いているのであるが)に内在化し、それらを貫流するあるものなのか、それとも、「変化」の外部にそれ自体として(つまり、抽象化された「純粋資本主義」論として)あり、この変化に外から尺度をあてる規範(その場合には基準となるものとの間のずれ、位相差が問題視される)とみなされるのか、等々。
こういう突拍子もない妄想に耽ることも読書の楽しみの一つであろう。
いずれにせよ、この考え方が、後に、フェルナン・ブローデルに大著『物質文明・経済・資本主義』を書かせるようになり、かつまたアナール学派の特徴の一つとなる発想法につながったということは耳目を属すべき点であろう。ここでは、ブローデルの次の文章の引用のみをしておきたい。
「私は、長い時間の枠組みの中での深層での均衡と不均衡とを選んだ。私には、産業化以前の経済において最も重要なこととは、いまだなお初歩的な経済の特徴を留めた硬直性、不活性、鈍重性と、そしてなお限られた少数派的なものではあれ、近代的成長の特徴をなす活発さと力強さとの共存にあるように思われた。一方ではほとんど自立した、実質的に自給自足的な農村に生活する農民がいて、そして他方では、市場経済と発展しつつある資本主義がじわじわと浸透し、現代のわれわれが生活する世界を徐々に形作り、すでにその輪郭を現しさえしていた。少なくとも二つの世界、互いに異質な、しかしそれぞれの総体は他方によって理解されるという、二つの生活様式が存在する。私は不活性の側面から手を着けたいと思った。一見したところ、人間の明瞭な意識からはみ出した曖昧な部分の歴史が、このゲームにおいては、登場人物たちよりも活躍しているように見える。…私は具体的基準の段階に留まる。私が出発したのは日常性であった。生活の中でわれわれはそれに操られているのに、われわれはそれを知ることすらないもの。習慣-習慣的行動という方がいいかもしれない-、そこに現れる何千という行為は、それら自身で完遂され、それらについて誰も決定せねばならないということはなく、本当のところ、それらはわれわれのはっきりとした意識の外で起こっている。…雑然と蓄積され、無限に繰り返されてきた無数の行為、そういうものがわれわれが生活を営むのを助け、われわれを閉じ込め、生きている間中、われわれのために決定を下しているのだ。こうした行為を行わしめる刺激、衝動、模範、様式、あるいは義務は、われわれが思っている以上に多くの場合、人類史の起源にまでさかのぼるのである。非常に古く、しかもなお生き生きとした何世紀をも経た過去が、アマゾン川が大量の濁水を大西洋に流し込んでゆくように、現在という時間の中に流れ込んでいるのである。」(pp.16-19) (ブローデル『歴史入門』金塚貞文訳 太田出版)
これらの問題意識は、カール・グスタフ・ユングの「集合的無意識」という考え方にも通ずるものでもある。
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