抜き書き典籍紹介・「暴」引断簡零墨(3)

『ナチスの時代―ドイツ現代史―』 H.マウ/H.クラウスニック著 内山 敏訳(岩波新書1967)

最近、安倍政権のファッショ的傾向には著しいものがある。集団的自衛権行使を可能にする「安保法制」を強引に国会決議したかと思うと、憲法をも完全に超越した職権をもつことになる「緊急事態条項」=全権掌握法の成立をも画策しようとしている。もちろん、周辺の取り巻き連中もそれに合わせて、ひたすら同じ道を駆けようとしている。「ナチスの手法にならった手段で法の成立を」「八紘一宇」「君が代斉唱要請」「電波法による放送禁止」…等々。

時代の荒波はいよいよ来るところまできたという思いがする今日この頃だ。

もちろん、これらの政治動向の背後には、産業界(財界)の強い意向があるだろう。企業グループ(財界)こそが国家なのだ。そして、企業グループの繁栄が、すなわち国家の繁栄とみなされる。だからこそ、国民全体へはますます重税が広くのしかかる一方で、企業への課税は軽減されることになる。また、武器製作・輸出は奨励され、そのための補助金までが用意されることになる。軍・産・学の協同体制が愈々推し進められる。

このような事態を見極め、少し冷静に反省するために、この少々古い本(1961年初刷り)を取り上げた次第である。

目次は以下の5章からなっている。しかしもちろん、これは解説ではないので、このような順序など気にせずに、興味ある箇所のみを適宜抜き書きして、ご紹介したいと思う。(ゴシック体はすべて評者のものである)

Ⅰ ナチスの政権獲得(1933年)

Ⅱ ナチ革命(1933-1934年)

Ⅲ “大ドイツ国”への途上(1933-1938年)

Ⅳ 大戦の序曲(1938-1939年)

Ⅴ 第二次世界大戦(1939-1945年)

 

1.国会火災事件と全権賦与法

「ヒトラーは総理に任命された(1933年1月30日)後、自党の立場を強めるため国会解散を要求した。新たに勝ち得た権力手段を使って戦う選挙戦では、ナチスは著しく得票数を増大できると期待していた。・・・大統領が国会を解散しうるのは、政府が国会で実際上の多数を得られぬと分かったときであったから、ヒトラーは多数派工作のため中央党と見せかけの交渉をやった。そして、この交渉が上手くいかなかったと報告した後、ヒンデンブルク(大統領)は2月1日、国会解散の措置を取ったのである。」(p.12)

「選挙戦は、数ヶ月来ドイツにのしかかっていた潜在的内乱の空気の中で戦われた。国内いたるところで、国粋主義者の戦闘部隊が行動に出た。その先頭にたったのはナチ突撃隊(SA)で、そのテロ活動はナチ指導者の態度よりはずっと明白に、いまや舞台に登場した勢力がどんなものかを示すものであった。その反対の側で最も活発な分子だったのは共産主義者で、その戦闘的なことはSAに劣らず、今や彼らにとっては明らかに全てがこの一戦にかけられていた・・・しかし、ナチスの宣伝の方が旗色が良かった。彼らは長い経験に基づいて、大衆の意志を一定の方向に向けさせるのには、大衆の注意を危険な敵に集中させるのが一番であることを知っており、それを宣伝の出発点にしていた。」(pp.12-13)

 

日本の安倍ファシスト政権の狙いが同様に、「対中国」「対北朝鮮」敵視政策としてあること、「尖閣列島問題」「南シナ海の西沙諸島領有権問題」「北朝鮮のミサイル(?)発射実験」などが、意図的に「侵略」政策として偏向的に報道されているらしいこと、これらの点が慎重に検討されなければならないのではないだろうか。少なくとも一方的な宣伝工作に簡単にのせられ、それだけを信ずるべきではないだろう。「すべては疑いうる」のである。「なぜ、このようなプロパガンダが発せられるのか?」絶えずこういう視点を保持しながら、真実を見抜く眼を涵養したい。批判的な視点は、当然、あらゆる方向に向けられるべきであろう、が、特に権力側はすべてを自己の手に握っているがゆえに、より危険でありうる。

 

投票日の一週間前の227日夜、国会議事堂で火災が起こった。放火であった。だが逮捕されたのは、放火犯人の道具に使われた精神薄弱のオランダの青年ファン・デル・ルッペだけであった。彼は悪命高い放火狂だった。ナチ指導部は、まさにこの時点においてこの事件を予期していたかのようにすばやく、一定の目的を持って事件に対処した。時を移さずその夜のうちに、公式の報告は共産主義者に火災の責任があると述べた。共産党の役員4000名が逮捕され、共産党の新聞は禁止され、さらにこの情報を利用して、社会民主党の新聞も一定期間禁止された。その後最高法院は、放火に参加した容疑で起訴された共産主義者たちを、証拠不十分で無罪にした。ファン・デル・ルッペは処刑された。」(p.13)

「国会議事堂火災は、ドイツ国民が当初はどのような重大な結果になるかも意識しないうちに、共産党の暴力行為に対する防衛措置という目的をはるかに超えた措置の口実にされた。2月28日、大統領はヒトラー、フリック、ギュルトナーの副署した『国民と国家の防衛のための』緊急令を発し、憲法による人身の自由の保証を撤廃した。この緊急令はワイマル共和国の運命を閉ざすものであった。これによってヒトラーは、ナチ党の単独支配を確保することの出来る権限を入手できたからである。・・・警察はいまや、逮捕状や裁判所による監督なしに逮捕し、無期限に非逮捕者の自由を奪い、家宅捜索し、信書の秘密を侵し、新聞を禁止または検閲し、政党や結社を解散し、集会を禁止し、個人財産を没収することが出来るようになった。」(pp.14-15)

 

このような危険極まりない法令が、いま日本で、安倍政権の下で準備されようとしている。これは、われわれ一人一人の自由の拘束であるばかりか、国民全体を戦争へと駆り立てるものに他ならない。成立させてからでは遅い。今ただちに、こういう法案成立への動きを阻止すべく立ち上がらなければならない。「自由かしからずんば死か」(George Sand)の決意を以て。

 

「1933年3月5日の選挙では、32年11月の選挙に比べ、約400万多くの人々が投票した。政府与党はわずかの差ながら絶対多数を獲得した。ナチスは議席数を196から288に増加した。ナチスの新たに獲得した票は、共産党、これまでの棄権者、初めて投票する青年からきたものであった。・・・共産党は前議席100のうち19を失った。それにしても、共産党議員がもはや新しい国会に出席できぬことが始めからわかりきっていたのに、480万の有権者は共産党に投票したのである。共産党議員は国外に亡命するか、地下に潜ったものを除けば、全て逮捕され、拘禁されたままであった。」(pp.15-16)

「政府与党はどちら(ドイツ国権党とナチス)も投票日の前に、3月5日の国会選挙が最後の選挙になることを声明していた。新たに選挙された国会に課せられた任務は、唯一つだけであった。すなわち、政府に完全な行動の自由を与え、国会を消滅させる全権賦与法(Ermächtigungsgesetz)を議決することがそれであった。・・・全権賦与法の正式名称は『国民と国家の危急除去のための法律』(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reichといい、これは政府に4年間、憲法による国会の協賛なしに法律を制定する権利を与えたもので、制定しうる法律の中には、憲法に反するものも含まれると明記されてあった。」(pp.16,18)

「ヴェルサイユ条約によってドイツの兵力は10万と定められ、軍備にも様々な制限を付されたが、ドイツの軍隊は解体しなかった。フォン・ゼークト将軍によって改編された国防軍(Reichswehr)は、相変わらずその首脳を帝政ドイツの軍首脳で固めていた。彼らは封建的なプロイセンのユンカー(土地貴族)階級の出身で、徹底的な軍国主義者、ドイツ反動勢力の大きな支柱だった。その将校団は戦後は一時反共的な『義勇軍』(Freikorps)に集まり、革命運動の弾圧に大きな役割を演じ、リープクネヒトやルクセンブルクを虐殺したのも、ミュンヘンの短期に終ったソヴィエト型共和国を押しつぶしたのも、全て彼らであった。国防軍はこうしてワイマール共和国という国家の中の「国家」になり、その参謀本部は政治的実権を握っていた。」(p.23)

「『国粋(国家)社会主義ドイツ労働者党』(略称NSDAP)というのがナチ党の正式名称である。

『突撃隊』(Sturmabteilung略称SA)は1921年10月、ナチ党の防衛組織として旧ドイツ軍将校のレームによって組織され、はじめは反共義勇軍に参加した反動的な前線将校と兵士が主な隊員だったが、後にはインフレで没落した中産階級の子弟、失業でルンペン化した労働者なども参加し、ナチスの在野時代や政権獲得直後の時代には、その戦闘部隊としてテロ行為にもっとも活動し、その褐色のシャツは恐怖の的であった。」(pp.23,24)

 

この際注意すべきは、「ワイマール共和国」は多数派社会民主党のヘルマン・ミュラーを宰相として、多数派社会民主党、民主党およびカソリック中央党からなる「ワイマール連合」によって運営された、ということである。そして、その崩壊に至るまでの10余年間、多少の曲折はあったにせよ、おおむねそういう体制が維持されたにもかかわらず、「義勇軍」(=後の「国防軍」)の改組はもちろんのこと、プロイセン軍隊以来の古い体質を引きずった軍属、官僚組織には何一つ手が着けられないまま、それらを残続させた(旧参謀総長のヒンデンブルクを1925年に大統領にしたことはその最たるものであろう)のである。この点、わが「民主党政権」の運命と酷似しているように感じ、戦慄を覚える。

 

2.ドイツ国民とナチズム

「・・・かつての敵対者の側からナチスへの大量移行をもたらしたのは、強制(テロと暴力)によるものというよりは、革命の首尾よき達成を大衆が是認したことによるものであった。1933年11月12日(ドイツの国際連盟脱退後)の国民投票や、1934年8月19日(大統領とドイツ国総理の地位をヒトラーの一身に統合した後)の国民投票では、その結果をどのように説明するにせよ(まだ計画的に投票結果をゆがめることはなく)、それぞれ有権者の88%、84%がヒトラーとその政体を支持したのであった。・・・ドイツ国民がこれほどやすやすとナチの冒険者に身をまかす気になったのは、何によるものであろうか?この問いに答えるための考察は全て、1918年にさかのぼる。―――1918年のドイツの画期的な出来事は帝政の崩壊であった。・・・新しい変化した秩序に意識を適応させることは、緩慢で困難な過程である。・・・1918年以来、ドイツ国民は不安な意識適応の過程を経験していた。戦争の物質的結果である貧困の重荷が、新しい秩序に耐えがたくのしかかればかかるほど、この不安に対する反動はますます激しいものになった。ナチズムの成功の一つの理由は、それがこの不安な気持ちに効果的にはけ口を与えたことにある。その魅力は何よりも先ず、それが断固として現状を否認し、1918年以後のドイツの状態の三つの主な原因、すなわち、①ドイツが戦争に負けたこと、②ヴェルサイユ条約に調印したこと、③民主的共和制の国体を受け入れたこと、を認めなかった点にあった。ナチ党の発展は、この新しい状態に対するドイツ国民の危機と論争の過程を反映している。・・・党綱領は現実に対する不安にとって抑えきれぬ方式たることを示したが、それが効果を及ぼしたのは、ここの問題に与える解答によってよりもむしろ、問題提起の急進性によってであった。・・・『国民共同体』(Volksgemeinschaft)への呼びかけは、特に感じやすいところ―階級対立によって引き裂かれ、物質的関係で固定化した社会における人間の不幸な孤独感―に触れるものであった。」(pp.36-39)

 

この二度にわたる国民投票の結果が、今から考えれば(ニーチェ流の)「悲劇の始まり」であった。しかし、わが日本国民も、「前車の轍を再び踏もうとしている」ように思えてならない。これは危惧であろうか。甘利大臣の「汚職発覚・辞任」直後の世論調査で、安倍政権支持が、56%に増えていることをどう理解すればよいのだろうか?

さらに、このナチの「国民(民族)共同体」提唱は、おそらく安倍晋三がいう「一億総活躍」スローガンの下敷きとなったものであろう。このような手口を真に受けて、日本人は再び「戦争への道」へと邁進するつもりであろうか?その結果がいかに悲惨なものであるかを、じっくり考える必要があるだろう。「アべノミクスによる景気回復」などの口当たりの好さそうなキャッチコピーにはくれぐれもご用心である。

 

「ナチ党綱領第25条は、同党がNSDAPと改称する直前の1920年2月24日、ヒトラーによって発表されたもの。労働者や下層中産階級を呼び集めるため、例えば勤労によらざる所得の廃止とか、大工業の利潤の分配といった『社会主義的』デマゴギーも含まれていたが、ヴェルサイユ条約の廃棄、大ドイツの建設、ユダヤ人の公職追放など、国粋主義的色彩が強く、しかも、それが当時のドイツ国民の気持ちをある程度反映したのである。」(p.58)

 

「戦争国家」成立への移行には明らかにそれを歓迎し、支えた、あるいは「無関心に」支持した国民大衆の責任が大いにあるだろう。原発事故もワーキングプアも格差問題も政治の腐敗にも、責任の大きな部分は選挙民たる我々の側にあるのではないだろうか。「ヒトラー政権を選んだのはドイツ国民である」ということの意味をもっと深刻に受け止めてもよいのではないだろうか。

以下、ドイツ第三帝国による戦争拡大とユダヤ人虐殺と崩壊への道を引用のみで辿りたいと思う。じっくり読んで、自分たちの問題として考えていただきたい。

 

3.第二革命

「ヒトラーは突撃隊(SA)指導者への演説(7月1日)と国家直属知事への演説(7月6日)で、革命が終了したと声明した。・・・この呼びかけは、最初は成功したように思われた。ところが1934年春以来は、『第二革命』という言葉がまた語られるようになり、ナチ党指導部内の緊張は危険なほど大きくなってきた。最後には党指導部内が、上から下まで真っ二つに割れていることが、全世界に明白になった。1934年6月30日、ヒトラーはこの分裂を彼流で処理した。」(p.42)

「ヒトラーは7月13日の国会演説で、レームとシュライヘアが『外国勢力』の援助を求め、ブレドウが仲介をしたとして、彼らを『反逆者』と呼び、その射殺の理由とした。・・・グレゴア・シュトラッサーはナチ古参党員で『社会主義的』な面を重視し、ヒトラーと対立し、ついに離党することになったが、6月30日に粛清された。彼の地位は、ヒトラーの次で、レーム、ゲーリンク、ゲッペルスの上にあった。」(p.59)

「親衛隊(SS=Schutzstaffel)は、はじめヒトラーの身辺を護衛するものとして、1928年SAの精鋭分子から構成され、ヒトラーが直接自分の配下においたもので、ヒムラーがその隊長。ナチ政権獲得後はゲシュタポを握っていたが、レーム生存中はSAの一部をなしていた。」(p.59)

「ヒトラーが権力を獲得したとき、国際情勢はドイツにとって不利ではなかった。ワイマル共和国の外交政策は、第一次大戦の戦勝国からヴェルサイユ条約によってドイツに課せられた厳しい条件を、一歩一歩と軽くするのに成功していた。ヨーロッパにおけるドイツの孤立は終わり、かなり大きな信頼という資産を集めていた。ドイツの政治的な支払い義務たる賠償はなくなっていた。1932年の国際軍縮会議で、ドイツはヴェルサイユ条約の軍縮義務を実行した唯一つの国であることを指摘し、対等の権利を要求する声をあげていた。1932年12月11日、ヒトラー内閣の出来る数週間前、ドイツの対等の権利の要求は、イギリス、フランス、イタリアの共同声明で、少なくとも原則的には認められていた。」(p.62)

「ヒトラーの二国間条約政策―――1935年6月18日、イギリスはドイツと海軍協定を結び、これにより英・独の海軍力比率は100対35になり、潜水艦については同数の原則が認められた。この条約によってイギリスは、同年4月11日のイタリア、ストレザでのドイツの再軍備非難、集団安保体制強調を暗黙のうちに破棄し、ドイツの再軍備を認めたのである。その背景には、イギリス内部に、世界政治上の出来事、ことに極東における出来事に押されて、ヨーロッパの平和を維持するには、譲歩によってヒトラーを融和した方が良いという考えが現れ始めていたためであった。

・・・1936年7月18日に始まったスペイン内乱が、独・伊の一層の緊密な政治的協力をもたらす機縁になった。独・伊はフランコ指導下の反乱軍の側に立って干渉し、これにより、ソ連に支持された共和国政府軍に対する反乱軍の究極の勝利を確実にした。・・・1936年11月25日『日・独防共協定』―第三インター(コミンテルン)に対する共同闘争のための条約の締結・・・ヒトラーはフランスの指導するヨーロッパ集団条約体制を粉砕し、二国間協定の政策によりポーランド、イタリア、日本を外交上のパートナーに獲得した。」(pp.68-70)

「1931年9月、満州事変勃発・・・中国に大きな権益を持つイギリスとしては、ヨーロッパで紛争を起こすことを避けたかったのと、イギリスの保守政治家が、ボリシェヴィズムの脅威から西欧を守る防壁というヒトラーの主張に好意を持ち、直接イギリスの利益が脅かされぬ限り、ナチ・ドイツが強くなることを積極的に防止しようとはしなかったことが背景にある。」(p.89)

「ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害の歴史・・・帝政ロシア、ポーランドその他の東欧諸国、ドイツではしばしばポグロム(ユダヤ人虐殺)が起こった。・・・マルチン・ルターは熱情的な反ユダヤ主義者で、ドイツからあらゆるユダヤ人を追い出すことを希望していた。」(pp.89-90)

「1933-34年における最大の反ユダヤ措置は、1933年9月のいわゆる『ニュルンベルク法』の制定であった。これはドイツのユダヤ人から系統的にあらゆる権利を簒い、誰でも彼らを勝手気ままに扱えることにした、一連の長いナチ特別法の中核をなすものであった。この法律を持って、1938年11月9日から10日にかけての夜のユダヤ人虐殺に進み、最後にはユダヤ人絶滅措置に至る道に乗り出した。」(p.74)

「1938年2月4日のヒトラーの国防軍首脳改組で、国防軍は完全にナチ党の支配下に置かれ、またオーストリアの無血併合によって、彼に不満を持つものでも彼がドイツを偉大にした功績は認めざるを得なかった。しかし、5月のチェコをめぐる危機以来、ヒトラーがドイツを戦争の破局に導いているという不安から、軍部内でその政策に対する批判が強くなり、8月ベック参謀総長が辞任し、その後任となった参謀総長ハルダーは、ベルリンを含む第三軍管区司令官ウィッツレーベン、ポツダム守備隊司令官ブロックドルフ=アーレフェルト、チューリンゲン機械化師団長へプナーなどの将軍と共に、8月末以来、もしもヒトラーがチェコ進撃命令を下せば、直ちにクーデターを起こしてヒトラーを逮捕し、人民裁判にかけることを計画した。この計画はイギリスにも通達されたが、ヒトラー宥和に傾いていたイギリスはこれを相手にしなかった。『チェンバレンがヒトラーを救った』と言える。」(p.117)

「戦争勃発以来、SSのヘゲモニーが急速に高まってきた。ヒムラーは、SSを党の大衆組織とは違って、『人種的』にえり抜きの政治上および軍事上のエリートとして、『支配者族』(Herrnmensch)の結社たらしめようとした。また、SSを各種の警察機構と人的にも組織的にも統合して、一個の国家保安隊を作ろうとした。ハイドリッヒは1939年に設置された「全ドイツ国家保安本部」(Reichssicherheitshauptamt=RSHA)の形で中央機関を創設し、この中央機関はドイツ国内および占領諸国に、指導と監視の下部機関網を張り巡らしていた。ゲシュタポだけでも1943-45年には、4万名以上の人員を持っていた(国際軍事法廷議事録)。これに加えてSS戦闘部隊(Waffen-SS)が計画的に増員された。・・・戦争末期にはSS戦闘部隊は約90万の兵力を持っていた。」(p.144)

「1941年1月2日、強制収容所は『囚人の身分と国家に対する危険の度合いに応じて』三つの等級に分けられた。①『軽罪で矯正可能な』囚人、②『重罪だが、教育ないし矯正可能な』囚人、③『重罪で教育の見込みほとんどなき囚人』・・・この第三のグループのためには、マウトハウゼン収容所があてられた・・・強制収容所の囚人を極秘の『医学』実験のため、『言うまでもなく自発的に』(ヒムラーの命令、国際軍事法廷議事録)提供させるのは、戦争中のナチ国家指導部にとっては習慣になっていた。そのさい、『国家の福祉』を引き合いに出し、戦争でドイツ国民がしのばねばならぬ思い負担に鑑み、『死刑に値する』犯罪者や『共同体に害悪を流すもの』にも、全体の福祉への寄与を要求するのは当然だとして、この行為を合理化した(医師裁判記録、同上)。さらに、この『人間実験』に反対するものを『大逆罪』で告発するぞと脅かし、SSの特別な地位を利用して、『倦み疲れたブルジョア的原則』から脱却し、新しい道に乗り出すことを積極的に鼓舞した(同上)。・・・この恐るべき犯罪の頂点は、ストラスブルクの『遺伝学』研究所の協力で、頭蓋骨収集のために、100名以上の囚人が殺害された事件であった。この事件の痕跡は西部戦線におけるドイツの軍事的破局の後は、かなり抹消されたものと考えられる(ニュルンベルク文書)。

もう一つの計画は『安楽死計画』である。1939年10月末の秘密命令のなかでヒトラーは、「特に指名した医師には、その権限を拡大して、人知の及ぶ範囲内のもっとも厳密な標準で不治と判断された患者に対しては、慈悲死を与えることを許す」と述べたのである(国際軍事法廷議事録)。

・・・『慈悲死を与える』ための主要な尺度は、当人の労働能力とその『人種』であり、1941年8月までに、当時のナチの計算によれば、主として精神病患者70273名が、特別の施設内でガスその他の手段で殺された。これによって国家にとっての節約が、8億8543万9800ライヒマルクに達したこともその計算には明記されている(『ポーランドにおけるドイツの犯罪』)」(pp.145-147)

アウシュヴィッツ(での大量虐殺は)・・・1941年12月以降からはじまった。

2016.02.21記

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0206:160221〕