政府の原発再稼働→原発保持の動きに抗する戦略を

著者: 三上治 みかみおさむ : 9条改憲阻止の会
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原発いらない福島の女たちから全国の女たちに受継がれた闘い 

<2011年10月31日 連帯・共同ニュース第179号>

■ かつてなら「がんばろう…燃え上がる女の拳がある戦いはここから戦いは今から」という勇ましい歌が聞こえてきたかもしれない。しかし、こんな光景はなかった。「原発いらない福島の女たち」の経産省前座り込みである。そこにあったのは座り込み中に毛糸で編んだひもを鎖としと経産省を囲むものだったし、終始、笑顔の絶えない穏やかなものだった。座り込みの最終日を飾るデモだってそういえるかもしれない。しかし、ここには従来のイメージとは違う力強があった。解放区のような様相を呈した経産省前では生活や日常から出てくる力強さがあり、人々のこころに響きある旋律があった。これは30日からの「原発いらない全国の女たち」の座り込みに受け継がれているが、また、全国にまかれた種としてやがては新しい運動の芽にもなって行く。

■  政府は国民の脱原発も反原発の流れを無視するかのような原発再稼働→原発保持の動きを始じめた。これは原発震災の時から経産省や原子力ムラでは構想されていたことであり、ベトナムなどへの原発輸出はその径路としてあった。かつての「原発安全神話」が崩壊したにも関わらず日本の原発技術の優秀さを喧伝し、再稼働の弾みに目論んでいるのである。いつの世にも体制や権力の太鼓持ちはいる。東電の宣伝費漬の知識人や学者、またメディアの姿はこの原発震災であぶり出されたが密かに復活している。桜井よしこ等の新聞広告はその一つである。僕らはこれらの動きに原発推進が新局面に入ったことを見抜き再稼働阻止→原発廃炉という戦略を対置しながら、広く深くその声を広めて行かなければならない。福島第一原発の震災が現在も収束せず、放射能汚染に対する対策もたってはいない。福島第一原発を廃炉にするには30年という歳月を要するという発表をしたばかりである。本当は廃炉にするにしても技術的目途は立ってはいないことを意味している。それらの時間の中で解決する技術を得たいというに過ぎない。核廃棄物の処理と同じことである。「科学技術は解決を見出すであろう」という信仰を現実にしたに過ぎないのである。こうした中でベトナム等への原発輸出は到底許されないことだ。恥しらずである。

■  「原発いらない全国の女たち」の座り込みは11月5日まで続けられる。多くの人が経産省前の行動に参加し、また、それを持ちかえって各地域やグループで生かして欲しいと思う。経産省前のテントは50日に達し、三つに増えた。何度も伝えてきたように僕らはこれを持続する。なお、福島の子供たちに食材を届ける第14次の支援行動もなされた。 

原発なんていらないが原発社会もまたいらない 

<2011年10月29日 連帯・共同ニュース第178号>

■ 「薄汚い極左の不法占拠を許すのか」「脱原発や反原発はいいけど憲法となんでむすびつくのだ」と大きな声が街宣車から聞こえてきた。穏やかに展開してきた女性たち中心の座り込みに突然のように登場した街宣車を僕は隣の人と一緒に笑った。一瞬の場面ではあったが、いくらか残ったものもあった。それは街宣車から怒号している面々は現在に対しどんなイメージを抱いているのだろうか、ということだった。貧困で薄汚い言葉はこの際除けば、彼らも現在の社会に対する不満とそれを変えたいというイメージを持って(?)いるはずではないのか。そのことで少しも届くものがなかった。これは言葉の貧困というより思想の貧困なのだろう、と思う。あらゆるものを反面教師にせよとはある先人の教えだが、この思想の貧困は何を教えるというのか(?)

■ 原発がかつて夢のエネルギーとして喧伝されてきた時代はあった。それがどこまで人々に信じられていたかはともかくそういう時代は存在した。ここには高度成長社会という幻想があった。この社会は生産力によって貧困から脱出し、豊かな社会を実現するものと思われていたのである。当時からもこれを危ういと批判する声は存した。しかし、それは民俗学の創出者である柳田国男に流れていたとされる「いざ今一度かえらばや、うつくしかりき夢の世に」という情念のごときものに思われていた。近代という世に目覚めさせられることに抗いたいとする心性として。今、その高度成長社会は夢ではなく、夢の後の光景としてある。原発震災はその象徴である。「今いちどかえらばや」と高度成長時代の夢にしがみつく御仁も少なくないが、僕らは非近代も、近代も夢ではなくなった時代に生きている。非近代も近代も含めた歴史からの帰路のなかにある。帰路とは歴史の見直しであり、それは生活や日常の見直しと同じことである。夢はそこに発見するしかない。経産省前に集まった数百を超える人々の一人ひとりが自問自答しているのもこの世界だろう。これはまだ言葉として羽ばたくことも出来ずに個々の内にある。と同時にそれは個々を超えてもいる。「経済よりも生命」などの言葉はまだ自問の内に発している言葉であるが、やがては全社会のものになるべきものだ。こうした言葉、つまりは「意志の空間」が全社会の意志になったとき、原発も原発社会もなくなっているはずだ。明日から「原発いらない全国の女たち」が主催の座り込みがある。僕らは明日も明後日…この空間を維持し、そこでは自問を交換し続ける。幾分か祝祭に似たおもむきを保持しながら……。   

 

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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