政権交代後の自分たちの所業に反省はあるのか

 三上 治

  政治はいつも前向きに進まざるをえない所がある。後ろ向きになることを許されないところがあるのだ。文学や芸術が後ろ向きになりながら前に進むのとの違いである。だが、前向きだからと言って前が見えるわけではない。ここに政治的なものの困難さがあることは疑いない。だが、時には後ろ向きになる必要もある。それによって、また前が見えることもあるのだ。政治家たちにとっては不断に問われる決断にどう対処するかだから、なかなか後ろ向きにはなれないのだろうが、やはり後ろ向きにつまりは反省的になることは重要である。政治家が何によって決断をするのかというとき僕らが理想を考えられるとすれば、国民の意思(共同意思)と普遍性である。僕はしばしば政治的のことにおいて見識や構想あるいは政治的理念の重要性を語ってきたが、それは共同意思や普遍的なものが現れるところだからだ。その表現だからである。

  偶然の連鎖や積み重ねに見える政治的決断が必然性に繋がるとすれば政治的見識や構想(理念)においてである。つまり、偶然にしか思えない政治的決断も重ねて行けば政治的理念に収斂していく。政権交代後に早くも二人の首相を交代させる民主党はその苦しさとして「連立」という幻にすがろうとしているように見える。結局のところ、これは自民党や公明党と同じ政治的理念しか持ち合わせていないことを表明しただけであり、政治権力の座に就き権力政治の中で翻弄されてきたことを告白しているのだ。民意(共同意思)も変革(普遍)も何ら実現できなかっただけで、国民の寛容(?)な精神に甘んじて政局という名の権力政治に戯れてきただけである。いや、戯れるなどという立派なものではない。これを露呈させているのが大震災や原発震災への民主党政権の対応である。「ねじれ国会」や大震災の対応で俺たちは苦労をしている、汗を流しているし、それなりに前進しているというのだろうがそんな言い分は通らない。民主党は分裂し、結果として政権からずり落ちてもいいから、政権交代後の自分たち政治的所業を反省し出直すべきだ。出直すとは政治的理念による再結合を果たすことである。僕は民主党が政権交代時に掲げた「日米関係の見直し」「政治的主体の脱官僚」「生活が第一」という理念的な枠組みを支持してきたし、それは間違ってはいなかったと思う。この理念がスローガンの域を出ない曖昧なところが多いことは懸念していたにしても。大震災や原発震災はこの理念を試すリトマス紙の役割を果たしたが自分たちの政治的所業の中でこれを検証すべきである。これをやれなければ民主党には次はない。明日はないと言うべきか。