社会主義理論学会と慶応大学東アジア研究所が開催した日中社会主義フォーラム(平成25年12月21-22日)で引退共産党幹部Q氏に会った。帰路、Q氏から日本共産党とユーゴスラヴィア共産主義者同盟の党交回復に関する裏話をうかがった。
私は、1965年から1967年、三年弱、ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードでユーゴスラヴィアの労働者自主管理型社会主義の研究をした。それは、高橋正雄(九大教授)や山口房男(社会党国際局長)と言った社会党右派との交流がきっかけであった。当時、日本共産党も、中国派も、ソ連派も、反代々木の新左翼諸党派も、社会主義革命を語る者たちの中にユーゴスラヴィアを社会主義国であると考えていた者は、殆どいなかった。1948年6月28日のコミンフォルム決議でユーゴスラヴィア共産党が国際共産主義運動から追放されて以来、ユーゴ党は、裏切者、対米協力者としてのみ語られて来た。勿論、ユーゴ党の方も果敢に反論していた。例えば「同志フルシチョフは、社会主義は米国の小麦では育たないとよく言っているが、わたしは……どうすればよいかを知らない人々は、自分自身の小麦でも社会主義を育てることはできないと思う。」(1958年6月15日、チトー演説)そんな声にアンテナを向けていたのは、社会党右派の人達位ではなかったろうか。
中ソ対立の初期、中ソ論争の段階で、中国共産党は、チトーのユーゴスラヴィアを叩く事で、その実ソ連共産党を的にしていた。ソ連共産党は、エンヴェル・ホッジャのアルバニアを叩く事で、その実中国共産党を的にしていた。そんな○○○の腐ったような口喧嘩は私達の世代の日本人にとって虫酸が走る。そこで、私は、ユーゴスラヴィアに留学して、現実を見たいと考えるようになった。一橋大学社会学研究科修士課程の時代に文部省交換留学生としてベオグラードに行くことになった。行ってみると、社会党や総評とユーゴスラヴィア社会主義勤労者同盟や労働組合同盟との間の交流による留学生も来ており、ユーゴ社会主義もそれなりに対外的に自己主張していたのだな、と実感した。
三年間の留学の成果は、1968年執筆で1971年出版の『比較社会主義経済論』(日本評論社)で世に問うた。その頃愛知大学(?)で開かれた社会主義経済学会(社会主義体制崩壊後、比較経済体制学会へ改称)で報告した。フロアからの最初の質問者は京都大学の院生で、「報告者は、ユーゴスラヴィアを社会主義であると前提して報告されましたが、それはさておき、以下の諸点をうかがいたい」と切り出された。質問内容は全く記憶にないが、「それはさておき」より前の口上は、未だに憶えている。1960年代末になると、裏切者云々の表現こそ消えていたとは言え、真正面からユーゴスラヴィア社会主義を明言する事は、まだなかった。そう考える研究者は、「世界の社会主義諸国十四ヶ国」と書く。そう考えない研究者は、「十三ヶ国、ユーゴスラヴィアは入りません。」と書く。
こんな状況が1970年代前半に様変わりした。状況変化に大きな役割を果たしたのが、日本共産党代々木本部勤務のQ氏であった。Q氏によれば、1971年に党のトップより、ユーゴ共産主義者同盟と党交を回復するので、調査研究するようにと指示を受け、コミンフォルム決議以来の歴史を党の古いアルヒーフで読み、党外で出版されたユーゴスラヴィア関連文献を分析し、一年かけて調査報告にまとめた、と言う。その結果、1972年に、日本共産党は、対ユーゴ党問題で自分達の非を認め、党交回復に至ったそうである。そこで、私は、「1971年に出した私の『比較社会主義経済論』は参考にされましたか。」と問うと、「していなかった」と答えられた。
Q氏は1971-72年当時の自分の仕事を誇りとしておられたというので、私は、次のようにコメントした。「順序が違うのではないか。社会主義経済学会のような共産党系の研究者の勢力が強い学会等で、学者達の自由な研究と討論があって、そのプロセスでユーゴスラヴィア社会主義承認論が強まり、それが党中央に反映して、その問題に関する日本共産党の自己批判に結実して、党交回復に至る。これが順序でしよう。実施は、党中央の非公式決定→Q氏の調査研究→党中央の公式決定→一般研究者の研究姿勢の変化。納得しきれない所が残る。」Q氏は、一瞬虚を突かれたような表情をされたが、私の論旨を了解されたようであった。
こんな考えをいだいたのは、たまたまQ氏に出会ったからではない。私の第二作『労働者自主管理』が1974年6月に紀伊国屋新書の形で出版された。この本は、実は、岩波新書として出る予定であった。私の知人の姉が岩波書店の編集者で私の研究の趣旨を良く理解してくれて、出版企画を進めてくれていた。ある時、「ユーゴ社会主義をめぐって政治的・思想的状況の変化があって、日本共産党もユーゴスラヴィア批判を止めましたよ。」と彼女に語った。そうすると、「新書編集担当者の中に代々木の硬い人がいて、その人に本書の企画を納得させるために、対ユーゴ政策の変化を伝える日本共産党の諸資料を集めて、参考材料として送って欲しい。」と言われた。その場は、「はい、送ります」と答えておいたが、私の研究の価値は、それ自体で評価されるべきで、代々木の判断に左右される謂われはない、とその翌日、彼女に出版企画中断の電話を入れた。彼女には迷惑をかけた、と反省する。若手研究者にチャンスを与えようと、純粋に助言してくれたのであろう。人生とは面白いものだ。一昨年、「変革のアソシエ」の中野オフィスで開かれたある女性中国研究者の報告会でそれこそ40年ぶりに彼女に再会した。
1976-1977年にポーランドとユーゴスラヴィアに研究滞在した。1977年、ベオグラードに共産党系の社会主義経済研究のリーダー的存在である長砂実(関西大学教授)が滞在していた。時代の変化を実感した。何回か会って社会主義論をたたかわした。「ところで、長砂先生達もユーゴ社会主義を認めるようになって、ここにおられるわけですが、私が1971年に出した『比較社会主義経済論』(日本評論社)を読んでくれていますか。」「読んでいない。本屋で書名を見て、アメリカ系の浅薄な比較体制論の亜種だろうと思って、手にもとらなかった。」「それは困ります。ここに一冊ありますから、読んで下さい。」数日後、長砂教授は、「読んだ。思ったより、マルクス度が高い。」とほめてくれた。「マルクス度」と言う表現が新鮮に響いたのを覚えている。
ところで、反代々木の新左翼の方のユーゴスラヴィア社会主義への関心は、どうであったろうか。無きに等しかった。1970年代後半、雑誌『情況』の事務所で古賀編集長の司会で広松渉、農林省課長某氏、そして私岩田との間でユーゴスラヴィア社会主義、労働力の脱商品化と労働者自主管理、社会主義下の商品・市場経済等をめぐって、六時間を超える討論をした。テープにとって、『情況』にのる予定であった。編集長がテープを紛失したという口実でこの討論は世に出なかった。
平成26年正月15日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.ne/
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