[コロナ災禍を表現するカタカナ語] この「ちきゅう座」に掲載された拙稿「コロナがさったあと」で指摘したように、《いざというときにこそ、その正体がはっきりする》。日本語の特性もそうである。それが証拠に、コロナ災禍の深刻な事態を表現する言葉が、ほとんどカタカナ語である。いわく、
クラスター、ロック・ダウン、ソーシァル・ディスタンス、ドライブ・スルー、ステイ・ホーム、パンデミック、などなど。
このように、なぜ、カタカナ語でいうのであろうか。コロナ災禍の事態は深刻である。にもかかわらず、このように、カタカナ語で表現されると、事態は和らいでみえる。なにか遠くの出来事のようにも響く。
[カタカナ語の日本語訳] これらのカタカナ語を下記の( )のなかに挿入したように《翻訳する》と、なにやら、もやもやしていた事態は、霧が晴れたようにみえてくる。カタカナ語の特性が、コロナ災禍自体を表現する事柄をぼかしているためである。
「クラスター(感染網)」
「ロック・ダウン(都市封鎖)」
「ソーシァル・ディスタンス(社会的距離、あるいは、人と距離をおく)」
「ドライブ・スルー(乗車のままの案件解決)」
「ステイホーム(家で過そう)」
「パンデミック(大規模感染)」
[日本語翻訳機能の休眠] 日本語にはこのように翻訳する能力があるのに、外来語をカタカナ語に置き換えて表記する。日本語の上記のような翻訳能力は活用されないまま休眠状態である。外来語を無原則に単純にカタカナ語の日本語に替えて使用することは、日本人が日本語を使用して育ててきた日本語の文化的な蓄積を使用停止しいつかは腐朽させ解体させることになる。カタカナ語の無原則な使用者は、この深刻な帰結を思い致さない。
[国立国語研究所の外来語への対策] カタカナ語の使用状況に対して、国立国語研究所は、「外来語委員会」を2002年に設置し、「外来語のいいかえの提案」を行っている。その提案には「アーカイブ(archive)」から「ワン・ストップ(one stop)」まで176語ある。しかしそれはあくまで「提案」であって、強制力はない。
その提案は参考になる。けれども、「グローバリゼーション(地球規模化)」(当該研究所の「外来語のいいかえの提案」による)によって、日々刻々、つぎつぎと新しい外来語が登場しているので、むしろ、外来語の情報にいち早く接する新聞社・テレビ放送局などが、外来語の日本語へのいいかえについて協議・提案することが望まれる。
[文化意識としての日本語] 外来語を「カタカナ語」だけでなく、例えば、United Nations(戦勝国側連合国=国連)をUNの「省略語」で表記することいついても、外来語と同じような配慮が必要であろう。
カタカナ語や省略語を日本語に無原則に導入・使用することには弊害がある。この問題点について、以下のような諸点が指摘できるのではなかろうか。
第1に、各国の国語はその国民の文化を集約する意識形態である。日本語もそうである。しかるに、カタカナ語・省略語は、日本国民の多数が正確に理解し使用しているわけではない。
第2に、この事態を逆から見れば、カタカナ語・省略語は、日本語であるはずなのに、その使用者である日本人が必ずしも理解しているわけではない。カタカナ語・省略語は、主な使用者である主な日本人を置き去りにしている用語になっている。これは異常な事態ではないだろうか。
第3に、「漢字」および「かな」の混成語としての日本語が保有する外来語を翻訳する機能を使用しないで、外来語をカタカナ語・省略語を無原則に導入する。現今のこのような事態は、文化的に異質な表現形態を混入させる行為であり、日本語の文化的規範を破る行為である。
[文化的規範としての日本語] いうまでもなく、言語使用には規則がある。規則は、日本語を使用する者のあいだの約束事・規範である。その規則の習得は、その文化的伝統に参加する行為である。外来語を日本語に翻訳して使用することは、その外来語という来訪者を排除するのではなく、日本文化への参加を歓迎する様式である。
やたらとカタカナ語を使用する者は、そのから様式から逸脱していることすら知らないで、規範破りをしている。放縦は自由ではない。自由は法則・規則を媒介にする。対象を制御する能力に自由が開かれる。自然法則、社会法則、共にそうである。
[文化安保としての日米安保] 「15年戦争」敗北の直後、日米安保条約は、日本国憲法と組み合わせになって制定された。安保条約は、在日米軍という暴力装置による戦後日本のアメリカ化を強制して実現する暴力装置である。安保は単に軍事同盟であるだけでなく、文化同盟でもある。在日米軍は日本のアメリカ文化の無限受容のための強制力装置である。
[支配の要=文化としての言語支配] 敗戦後、米軍は日本各地に「アメリカ文化センター」を設置した。そこで、来日在住している米軍将校の妻たちは、「アメリカ英語会話教室」の教師となって、日本の青年を、アメリカ英語教育を通じて、アメリカに同化するために、宣撫した。在日米軍将校の妻たちは、英語を身につけたいと渇望する日本の青年に英会話を教えたのである(本稿筆者も「横浜アメリカ文化センター」で英会話を無料で教わった1958年])。敗戦後の日本のひもじい生活と比較などできない、アメリカ的生活様式への憧れは、《英語を身につけたい、英会話ができるようになりたい》という渇望になって、日本の青年をとらえていたのである。その渇望は、つぎのような対比で分かり安いかもしれない。
[1950年代の日米主婦の格差] 1950年代の日本の母親が軒下で、モンペ姿でしゃがんで、額に汗を流しながら、盥(たらい)で洗濯しているとき、例えば、横浜本牧の丘に建設された米軍将校用住宅に住んでいる将校の妻は、薄化粧してブラウスを着てタイトスカートを履いて、板張りの室内を中ヒールで闊歩し、米軍極東ラジオ放送から流れるジャズを聞きながら、自動洗濯機にスイッチを入れるだけで、そのあとオーブンで自家製ケーキを焼いていた。
[日米格差による英語への憧憬] 本稿筆者によるこの実話は、アメリカもよる日本に対するアメリカへの同化=本源的蓄積過程遂行の重要な一例である。アメリカ的生活様式(American way of life)への憧憬は、母国への裏切りであろうか。英語を学んで、もっとましな生活ができるようになりたい。言葉は、それを用いる人間の魂=文化意識の拠点である。言語の支配こそ、人間支配の要である。けれども、日本語に閉じこもることなく、英語を梃子に、豊かな生活を求めることは、何の根拠も無い夢想であったのであろうか。
[《安保文学》は存在するか] しかし、英語への憧憬を誘発する、このような日米安保の文化誘導装置(文化安保)に、いまなお普通の日本人は気づいていない。この不可視の装置の中で、つぎつぎと入ってくる外来語、そのほとんどはアメリカ英語である。それを「カタカナ語」で無規範に導入する。「文化安保」に気づいてそれを批判した日本文学作品はあるだろうか。三島由紀夫の作品は、そのようなものとして読めるのであろうか。魯迅が半植民地状態の清国の暗愚を克明に描いた『阿Q正伝』に対比されるような、文化的半植民地状態の現代日本を描いた「安保文学作品」は、存在するのだろうか。
[小池百合子のカタカナ語乱用] カタカナ語使用で、コロナ災禍という深刻な事態がソフト化されて受け止められる。つぎのコロナ災禍にともなって使用されている一連のカタカナ語でなくて、日本語で伝えないのは、なぜなのだろうか。カタカナ語のソフト化効果で、《あわてないで、落ち着きましょう》という冷静な導き効果を意図しているのであろうか。
特に、東京都知事の小池百合子は、現在進行中の「コロナ災禍」以前から、カタカナ語を好んで使ってきた。小池知事は、カタカナ語で表現する行為が都民や日本人にもたらす、スマートな語感の響きがもたらす効果を知っている。小池知事は、カタカナ語で表現することが都民や日本人にもたらす、その効果を意図的に・意識的に活用してきた。彼女は自覚的な言語操作家である。小池知事は弁論家・レトリシャン(rhetorician)なのである。この特性を軽視してはならない。
[東京都の広報《今こそテレワーク》のカタカナ語] このように書いてきて、「やっぱりそうだ」と相槌を打ちたくなる事例を最近、見つけた。『朝日新聞』2020年5月15日(金)、7頁に掲載された東京都の広報「今こそテレワーク」が、それである。その広報は、「テレワークこそ、社員を守り、会社を守る!!」と力説する。「自宅作業」といわずに「テレワーク」といい、「(東京都の)円滑業務」といわずに「スムーズビズ(smooth biz)」といい、「利点」といわずに「メリット」という。カタカナ語の乱用である。特製マスクでカタカナ語を乱発する。
[無防備な聞き手・読み手] カタカナ語を乱発する、小池知事の言葉遣いのこのような特性があまり認識されていないのではなかろうか。とすると、その効果は、てきめんである。読み手もまた、カタカナ語でいうと《カッコイイ、先進的だ、現代的だ》という思いを抱いているから、発言者と読み手・聞き手との同調効果は大きい。
しかも、聞き手の方は、話者がそのようなカタカナ語の効果を知っていて意図的に使用していると見抜いてはいないから、書き手・話し手の思うままである。だから、カタカナ語の使用効果は高い。
[社会を動かす言語を知る小池知事] 小池知事は、《言葉は物と同じように客観的な存在である》という欧米のような言語観をよく知り活用している政治家である。ということは、けっして彼女を褒めていることではない。そうではなくて、小池知事が言語操作能力で政治的に人々のこころを動かす能力をもっていることに注目しなければならないということを指摘しているのである。
欧米の言語観は、言葉で言ったように、言葉で書いたように、その表現者は考えているとみなす。言語表現は、思惟に等しい。表現者の言語による表現こそ、その人間の考えである。言葉のニュアンスの幅というものもあるけれども、その表現と無関係ではない。その表現の文脈に即して推察される。
そのような言語観からは、人間も客観的存在として位置づけ、操作する対象として操作する対象となる。車を運転する(drive)ように、人間を運転する(drive)のである。言葉には人を、社会を動かす力があるから、言葉は実在する客観的存在である。しかし、普通の日本人は言葉を客観的存在として、意図的に操作していない。
[新聞記事のカタカナ語] それでは、日常生活でよく接する新聞記事の日本語では、カタカナ語が、どのように使用されているだろうか。1つの例として、最近の『東京新聞』(2020年5月13日[水]朝刊のいわゆる三面記事[23頁])に掲載された「検察庁法改正案」をめぐる最近の世論の動向を報道する記事(本文1106字、担当:梅野光春、神谷円香)をまずみよう。この記事に使用されているカタカナ語は、つぎのようである。
ツィッター、サイト、ハッシュタグ、ツィート、アカウント、フェミニスト、バンド、トレンド、ステイホーム、タレント、スマートフォン、ニュースサイト、リベラル、ポスト、計14である。
[カタカナ語を使わない新聞記事] ところが、その記事の左下の関連記事(本文378字、担当:望月衣塑子)「官邸の力強めたい政権」では、カタカナ語は一切使用されていない。
この2つの記事の左隣の記事は、《「京都新城」跡発見、秀吉の「幻の城」》である。記事執筆者の名前はない。そこでも一切、カタカナ語は使用されていない。望月記者の記事でもカタカナ語が使用されていない。したがって、記事の内容とカタカナ語使用とは関係がないと判断される。
読者諸賢も、手元の新聞を開いて、カタカナ語がどのように使用されているか、点検されると、日本語の現状の一端が分かるのではなかろうか。
[カタカナ語の多面的な効果] 通常の日本語の世界では、カタカナ語は「意匠」なのである。カタカナ語を使用する場合、言葉で物事を単に客観的に伝えるだけでなく、
[1]カタカナ語がもつソフト化効果、
[2]カタカナ語を使用すると、知識ある人物 (high brow) であるかのような効果、
[3]貴重な知識・情報であるかのような効果、
[4]外来思想に敏感な日本人にとって、新しい、したがって、貴重な知識・情報であるかのような効果、
が存在する。だからこそ、カタカナ語が頻繁に使用され、新しいカタカナ語がつぎつぎと製造され、頻繁に使用されるのである。
[キャパシティとは何?] コロナ感染者を収容する病院の寝台数の不足状態を念頭に、新聞や雑誌に「キャパシティ」というカタカナ語を見かける。この「キャパシティ」は、或る英単語のカタカナ表記のつもりなのであろう。しかし、英語に「キャパシティ」とカタカナで表記できる単語はあるのだろうか。おそらくその筆者はその和製英語を「収容能力」という意味で用いているのであろう。けれども、「収容能力」という意味の英語capacityのカタカナ語表記として、正しいであろうか。
[カパサティが正しい] しかしその単語capasityは、「キャパシティ」とは発音しない。「カパサティcapacity(kəpǽsəti)」と発音する。その用語の使用者の「キャ」は、第1音節にアクセントが在ると誤解している証拠である。しかし、正確には第2音節にあり、つぎの綴りci も「シ(si)」でなく「サ(sə)」と発音する。日本語漢字で「収容能力」と書けば、分かりやすいのに、わざわざ気取って、「キャパシティ」と書く。言う。ありもしない英単語を使って、良い気分になる。おかしくないのだろうか。
[カタカナ語乱用は日米文化同盟の証拠] なぜかくもカタカナ語が乱用されるのであろうか。再論するけれども、日米同盟が単に軍事同盟であるだけでなく、文化同盟でもあるからである。英語の小学校からの教育、日本で上映される外国映画はほとんどアメリカ映画である。敗戦後、沖縄同様に、日本の「本土」でもアメリカ・ドルを使用させようとしていた。その計画に重光外務大臣が待ったを掛け成功したのである。
[三木清の予感と警告] スペインの後、フィリピンを植民化し支配するアメリカは、フィリピンの公用語を「英語と彼らの(伝統的な母語である多様な)フィリピン語」に転化している。同じように、戦後の日本の公用語を「英語と日本語」にしたかったのではかなろうか。敗戦直後の日本では、「カム、カム、エヴリボディ、ハゥドゥユードゥ、アンド、ハワユー、・・・」という英会話ラジオ放送が、近所の子供たちと遊んでいる夕方、始まった。その敗戦直後の日本の英語熱は、いまも持続している。
近代日本の代表的な哲学者・三木清は、日本陸軍の要請で、フィリピンに戦時1942年の1年間滞在し、フィリピンを調査した。帰国後、敗戦後の日本がフィリピンのように「アメリカ化されること」を警戒しなければならないと友人に語っていた。
[生活基盤を知らない日本人] たいていの日本人は、そのような歴史的秘話を知らない。英語をカタカナ語に音声を似せて訳して、それを語ることで、なにやら高尚な言葉遣いをしているかのような気分を味わっていないだろうか。コロナ災禍自体に直面することよりも、コロナをカタカナ語で表現する気分に、意識がずれていないだろうか。
[東京五輪の無理押し] 延期になった東京五輪は、予定ではその開催中、東京西側上空の間近を航空機が、人々を威圧するような轟音を響かせながら、羽田飛行場目指して頻繁に急降下する予定である。それを知った住民は慌てて反対した。しかし、東京都西半分と神奈川県上空は、戦後ずっと米軍の支配空域である。その歪みが羽田飛行場を離発着する飛行機の航路を著しく狭めてきたのである。
その基本的な歪みを知らないまま、自分たちの生活権に直結するや、慌てる。それでは遅いのである。日本では日常生活で政治を語ることは、禁忌(タブー)である。この制約を打破することが出発点である。「もっとも重要な教養は政治的教養である」とは、先の三木清の名言である。
[文化意識としての翻訳装置] 中国語では、coronavirusを「冠状病毒guanzhuangbingdu」と訳される。コロナが「冠状」に訳され、ウイルスが「病毒」と訳される。「冠状」はコロナの形状を表しているから、病理学的含意がある。
ところが、日本語では、coronavirusの音声をそのままカタカナ文字「コロナ・ウイルス」に置き換えているにすぎない。外来語の日本語への導入で、日本語固有の文化意識が媒介しない。あえて、そこに文化意識が存在すると仮定すれば、外来語をそのまま音声で可能な限り近似的に模写することが一番重要であるという、「導入先の文化へ無限に接近しようとする意識」が作動しているといえる。このことに気づいた日本人に竹内好がいる。
[竹内好の日本文化論] 竹内好はこのような日本の特性を敗戦直後に痛感し、日本人の外来文化導入の特徴を「無限の文化受用(ママ)構造」と特徴づけた。竹内好は、魯迅研究などを通して、日本人のこのような固有の文化意識を痛感したにちがいない。竹内好は、魯迅研究のあと中国戦線に出征し、帰国後、「中国の近代、日本の近代―魯迅を手がかりにしてー」(1948年)で、つぎのように書いた。
「(中国とは反対に)日本がヨーロッパに抵抗を示さなかったのは、日本文化の構造的な特質からくるのではないかと思う。日本文化は、外へ向かっていつも新しいものを待っている。文化はいつも西からくる」(『日本とアジア』竹内好評論集第3巻、筑摩書房、1966年、46頁)。
[corona-virusのカタカナ語以外の日本語訳は不可能か] では、中国ではコロナ・ウイルスを「冠状病原体」と表意文字に訳すことができるのに、日本語では「コロナ・ウイルス」という表音文字にしか翻訳できないのだろうか。
[コロナ・ウイルス=光冠濾過性病原体]『大辞泉』によれば、コロナは「光冠」という漢字を当てられ、ウイルスには「濾過性病原体」という漢字を当てられている。したがって、コロナ・ウイルスは「光冠濾過性病原体」と訳すことができる。この日本語訳は、中国語訳の「冠状病毒」に対応できる。特に「コロナ」は「冠」で同じであり、「濾過性」は詳細な病理学規定である。このように、カタカナ語ではない日本語訳は可能なのである。しかも、この訳語の特に「濾過性」は、コロナ・ウイルスが人体の粘膜を通過して体の内部に侵入することを表現しているから、ふつうの日本人にとって分かりやすいのではなかろうか。
日本語にも、中国語に対応する固有の翻訳装置が存在する。カタカナ語訳は、その翻訳装置を活用しないで、ただ怠惰にカタカナ表現に凭れかかっているにすぎない。知的堕落である。だから、決して格好良くはないのである。
[漢字翻訳の基盤=漢字2千の識字・造語力] このような現在の日本語にも存在する翻訳能力の起源を、大野晋『日本語について』(同時代ライブラリー、1994年)が指摘している。大野によれば、明治維新ごろ、ほとんどの日本人は、江戸時代の寺子屋のおかげで、2000の漢字を知っていたという。大野はつぎのように指摘する。
「明治時代に、日本が取り入れようとしたヨーロッパ文化のもっていた諸概念のうち重要でかつ高度に抽象的な名詞について、日本では、そのままの形で日本語の中に入れることをせず、漢字二字の新語の単語に置きかえて日本語の中に入れた」(同書232-233頁、ボルド体は引用者)。
その国民的な知的基盤があってこそ、欧米の概念を二字の漢字で訳すと、大抵の日本人は理解できたし、その訳語を受け入れていったという。ところが、明治の日本人が避けた「そのままの形で日本語の中に入れること=カタカナ語への翻訳」を無原則に行っているのが、現在の日本人である。小池知事は、コロナ災禍から抜け出る「指針」を、わざわざ、カタカナ語訳英語「ロードマップ」という(2020年5月15日の記者会見)。「偉大な明治精神」(三木清)のまえで、令和の日本人のこのような無規範性が明るみになる。落胆しないのだろうか。
[敗戦日本へのローマ字導入] 15年戦争の敗戦直後、占領軍は日本語をローマ字表記の変更しようとした。けれども、日本人の高い漢字識字率を知って、その計画を放棄した、と大野晋は指摘する。やはり、アメリカ占領軍は、フィリピンに対して行ったことに近い「文明化」を敗戦日本に対して行おうとしていたのである。そういえば、本稿筆者は、小学校のとき国語の時間にローマ字を習わされた。
明治維新のころ、日本で生まれた翻訳二字語(電信・電話・電報・思想・文化・文明・科学・主観・客観・物質など)は、主に日本への中国人留学生によって、中国に導入された。たとえば、郭沫若は、主に社会科学用語を中国に持ち帰った。
[仮名・漢字の日本語の力=『資本論』日本語訳] 大野晋は、日本語の基礎は仮名漢字にあるという。カタカナ・ひらがなは漢字を変形して生まれた。そのなかで、日本語は漢字を不可欠な要素としているか。その事例を『資本論』の冒頭文節でみよう。その通常の漢字・ひらがなまじりの日本語訳と、すべて「やまとことば」で訳した場合をつぎに比較する。
通常の日本語訳
「資本主義的生産様式が支配する諸社会の富は巨魔的な商品集合として現れ、個々の商品はその要素形態として現象する。したがって、我々の研究は商品の分析をもって始まる」。
やまとことばでの訳
「もとでをふやすことをねらいとするものづくりのしかたがおさめているよのなかのとみは、ひとつのきもをつぶすほどおおきなしなもののあつまりとしてあらわれ、おのおののしなものは、そのあつまりのもとをなすかたちとしてあらわれる。それゆえに、われわれのとりしらべは、しなもののふわけからはじまる。」
すぐ分かることであるけれど、日本語の中の漢字が、概念を簡潔明瞭に規定していることが分かる。読み書き言葉としての日本語で、漢字の集合は、「一見=一括」して把握する機能があるので、正確に迅速に、書いてある内容が把握できる。
ところが、すべてをひらがなで・やまとことばで表現すると、漢字を用いる場合の特性がすべて失せ、非常に曖昧模糊とした把握しがたい文章になってしまうことに気づく。
やまとことばで書くと、読んでみても、「明晰・判明な(clear and distinct)」(デカルト『方法序説』) 文節にならないで、だらだらした文章になってしまう。簡潔で引き締まった表現は、漢字によるとところが大きいのである。たとえば、「資本主義的生産様式」を「やまとことば」で訳すと、上記のボールド体で表示した個所のようになる。他のもっと的確なやまとことばによる表現があるかもしれない。
いうまでもないことではあるけれども、以上の拙稿は、外国語を習得し運用できるようになる必要性を無視・否定するものではない。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion9769:200521〕