日本とスミスー近代市民社会論をつきぬけて(その1)

今日で最終講義となりますが,研究としてはこれまでと同じく経過点にすぎません。

私はこれまでヨーロッパの経済学史と日本の思想史を二つの軸として研究し,講義してきました。この二つ,あまり関連ないように見えますが,私にとってはともに必要なものでした。これでもって私は何をやろうとしてきたのか,これからどうやろうとするのか。そのことはただ私個人に限ることでないと思います。その骨子をあらかじめ言っておくと,こうなります。日本は戦後,「近代」をどう問題にし,自分のものにしようとしたか。そして,どうやってその近代をくぐりぬけていったらよいか。

1 2人の先生に出会う

私は1964年に名古屋大学の経済学部に入りました。そこで二人の先生を知ることになります。平田清明先生と内田義彦先生です。平田(――以下では敬称を省略する)は同じ大学の経済学部の先生ですが,内田は東京の専修大学の教授でした。

私は入学後,やらねばならないことが定まらず,いろいろとさ迷ってきました。青年にありがちなことです。入学の年の1964年は東京でアジア初のオリンピックが開かれ,それに間に合わせるために東海道新幹線が開通するという年でした。日本はすでに10年近くの高度成長を経験していて,あの敗戦後の混乱から見事に立ち直っていたのです。それだけでなく,幕末・明治維新以来の念願であった欧米に追いつけの目標を実現し,ある産業部門では追い越していました。あと6年先にはこれもアジア初の万国博覧会を開催するところまで燃えに燃えていました。それとともに大変な人間破壊と自然破壊が進行します。九州の水俣病患者を支援する人々が「怨」と記した旗を掲げて東京のチッソ本社に攻めあげる。どぶの海・死の海となった瀬戸内海や東京湾。道路を通すのに邪魔だと切られる日光の大杉や歴史的な建造物。そして,大学の存在理由が問われたあの紛争。眼を外にやると,あれほど輝かしく見えた革命中国で文化大革命が進行し紅衛兵が知識人狩りをする。他方,世界の覇者となったアメリカでは黒人差別に対する公民権闘争が展開され,ベトナム戦争に反対する運動が起こっていました。日本では戦後の連合軍による占領から独立したはずなのに,沖縄は依然としてアメリカの高等弁務官に監督されたままでした。

こんな日本のなかで,私は多くの青年と同じく,本当の勉強をしたいと思っていました。私は長野県の進学校を出たのですが,大学に入れば入試のためでない勉強本来の面白さを今度こそ存分に味わいたいと思っていました。教養部の時代はいろいろな授業を受けましたが,とくに法学の講義では具体的な事例をたくさんあげて法というものを考えさせてくれたことには今でも感謝しています。ところが私が専門とするはずの経済学の入門授業では幻滅してしまいました。担当者はアメリカの経済学者ライオネル・ロビンズの『経済学の本質と意義』を翻訳した教授なのですが,経済学とはなにかの定義を訳書どおりに専門語をつらねるだけだったのです。何のためにどうやってこの日本の経済をとらえるのか,それが知りたいのに(――ただ後でその教授は体調を崩していると知らされました)。本格的な経済学の講義は学部に入ってから受けますが,白眉は平田の経済学史講義でした。他のどんな現代経済論よりもリアルに感じられ,知的にも思想的にも刺激されました。今でもその時の筆記ノートを持っています。マルクス経済学の原論講義は論理一辺倒でした。さて聴講すること以外に私は自分でも本を読みました。大学生であればこれくらいのものは読むべきだという本があったのです。経済学であれば,ケインズの『一般理論』とマルクスの『資本論』,そしてガルブレイスの『豊かな社会』等。それ以外にあれこれの古典もかじってみました。また,サークル活動にも1,2手を出しました。学園祭にも参加しました。こうやって時間を過ごしてきたのですが,時々心に空虚を感じてしまうのです。寂しくなるのです。自分は本当に何をやるべきなのか,それがどうしてもつかめない。

そこに転機が来ました。教養部を終えて1966年,私は専門学部に入りました。3年次からゼミが始まります。私は平田ゼミに入りました。平田のことは教養部時代に,まだ講師で若いけれど張り切ってやっているのがいると耳にしていたからです。私はひそかにこれだと思いました。当時は資本主義か社会主義か,それとも第3の道かという雰囲気でした。平田ゼミはいわゆるマル経のゼミでした。戦前は社会科学といえば,マルクス経済学のことで,それが満州事変前後から弾圧を受け,戦中にはほとんど自由な研究はできなくなります。戦後は反動的にマルクスが復活し,ケインズと並び立ちます。両者は今と違って(――今はまったくの抽象的な対立に転化)切磋琢磨の関係でした。復活したマルクスは階級対立一元論と,それとはちがう構造改革論や社会民主主義論,市民社会論に分かれていました。私は学部の近代経済学に惹かれるものを感じませんでした。人間的なものを感じなかったからです。ケインズの資本主義変化論には興味があったのですが。

平田は第1回のゼミでマルクスの『資本論』を読むと言いました。私は嬉しかったですね。これでよく分からなかったマルクスを教えてもらえると思いました。それまで経済学入門とか革新政党が作成するパンフレット類を手にすることがありましたが,義理で読むような感じで,歯ごたえのないものでした。最近,すぐ分かるマルクスというような類の本が出ていますが,怪しいものですね。さて,「序言」や「あとがき」をさらって,いよいよ『資本論』の本論に入った時です。これは!ということになりました。『資本論』の冒頭はこうなっていますね。長谷部文雄訳を引用します。「資本制的生産様式が支配的に行われる諸社会の富は一つの「膨大な商品集成」として現象し,個々の商品はかかる富の原基形態として現象する。だから,われわれの研究は商品の分析をもって始まる。」平田はこれの一字一句について,それは何かと答を求めるのです。資本制的生産様式とは?富とは? 膨大な商品集合とは? 現象するとは? と。なんとかそれらしき答を見つけたいが,答えられない。ちゃんと答えないと,次の言葉,次のパラグラフに進めさせてくれません。一年もかかってやっと一章どまりです。まあ,経済学原論や学説史・思想史関係の本で予習すれば,ある程度対応できます。でもそんなことでマルクスが言葉に込めたものを開くことはできません。

一番の問題はこういうことにありました。現代に対して問題意識をもつこと,それも日頃の自分の生活感情に即した意識をもつこと,そしてマルクスと自分との間にある距離を自覚すること,でした。古典と現代との往復です。いま引用した『資本論』の文章は経済学の専門語でできていますが,それは直接には19世紀の西欧の自由資本主義を背景にしています。それを発展段階の異なる20世紀の今日,それも西欧とは異文化の要素をもった日本において理解しなければならないのです(――私の学説史の講義を受けた人は初回の講義で『レモンをお金に変える法』の英語文を読んだことを思い出してください)。そうでないと,古典なんてしょせん他人ごとです。こういう読みをすることの苦しいこと!分からなければ分からない者が悪い,自分で分かるようにせねばならないのです。でもこの時の勉強がどれだけその後の研究生活の励みになったことか,それは後で実感させられます。今の大学はなんて学生に親切なのでしょう。

どうしてこんな勉強の仕方をするのか。平田は当時のマルクス主義を粗雑な階級一元論だと憤っていました。マルクス主義は明治の中期以降に,まだ資本主義は未熟であったのに,早くも輸入されました。当時の地主制度や資本制的企業経営は一部温情的なものはありましたが,野蛮で非人間的でしたから,階級廃絶に献身するマルクス主義は一つの人間解放であったのです。ロシア革命後に入ってきたマルクス主義は歴史を封建制→資本主義→社会主義と進歩すると説いたので,それが当時の知識人と労働者・小作人の心を捉えます。ところが将来の社会主義をソヴェト・モデルで描くことに疑いがもたれるようになります。政治現象的には第2次大戦後のことです。1956年,ソ連共産党第21回大会が開かれ,フルシチョフ第1書記が秘密会でスターリンを批判します。同じ年にハンガリーで政府に反対する暴動が起こり,ソ連軍が鎮圧に乗りだします。その後社会主義圏では約10年ごとに体制的な危機の事件が起こっていきます。社会主義国は資本主義国とは違う平和勢力とされていたのに,ソ連が膨大な核兵器を保有し,中国との国境で武力衝突を起こす。そういう流れの中で平田は日本の革新政党の運動を横に見つつ,いったいマルクスはどうであったのか,もう一度,原典に戻って考えてみようとしたのです。とくに中期マルクスの『経済学批判要綱』(1857―58年)を蘇生させ,『資本論』(1867年)を含めてまったく新しいマルクスを世に問います。それが『市民社会と社会主義』(1969年)です。マルクスに市民社会概念がある,それは歴史的には資本主義とともに出てくるが,それに収斂され切らないものである。それは所有権を始めとする諸人権に象徴されるものであり,封建的な身分や国家的統制から自由な諸個人とそれの集合である。これが階級廃絶後の社会主義にも受け継がれるべきだと言うのです。これはそれまでのマルクス主義に大変なショックを与えました。それを歓迎する人,攻撃する人,ちょっとした騒ぎでした。私どもはそういう平田に学んだのです。私たちはゼミから外へ出ると,平田さん,ちょっとおかしくなったんじゃない?と揶揄され,史的唯物論はどうなるんだ!と詰問されることがありました。今でこそ市民社会論的マルクス理解は学界の「常識」となり,歴史にすらなっていますが。その新しいマルクス研究がアカデミズムの中から出てきたのです。それが私どもが受けたゼミでの勉強の仕方でした。それは江戸時代の古文辞学派に近いものだったのです。

私どもは戸惑いました。ゼミには実践運動をする者がたくさんいました。学生運動やサークル活動,政治運動の分野です。それらにこの文献学的なスタイルが役に立つのか。昔からマルクス主義は政治優先的でしたから,先生についていけない者が出ます。運動でしばらくゼミを休んでいる者がしばらくぶりにゼミに出てきた時など,先生はよく来たと嬉しそうでした。それでも平田は言い続けていました。知的誠実なくして実践なし,古典を自分の言葉で語れ,と。経済学史の「アカデミック」な研究こそが現代を開く。そうしなければ,マルクス主義が社会主義国で犯した悲劇は乗り越えられない。先生にはそういう自覚があったのです。マルクスの歴史理論をめぐって歴史の進路が争われている。マルクスは本当のところ何と言っているのか。『資本論』を開いて眼にしてみよ。ここにこう書いてあるではないか。……私はこういうマルクス研究がもつ重みに息苦しさを感じましたが,とにかくついていくしかありません。古典を読むことはこんなにも厳しいものかと恐ろしくなりました。とともに,そこに魅力を感じていたのです。

内田に出会ったのも大きい。私たちはサブゼミで自主的に内田の『経済学史講義』(1961年)をテキストにして勉強しました。それは内田が戦後に専修大学(他大学での非常勤を含めて)で行なった講義をもとにしており,重商主義からマルクスまでを範囲にしていますが,通常の教科書とはまったく違っていました。理論的にはマルクスの剰余価値論と資本蓄積論をその底に通しているのですが,それとは一応関係なく各学説がそれぞれの時代のなかでそれぞれの問題を抱えてどう答えているか,そのさまが描かれていて,実に面白かった。経済学史は資本主義の理論と思想を歴史的に研究する分野ですが,マルクス経済学系では普通は生産場面での階級関係を指摘する(「絶対的剰余価値論」)だけのことが多く,内田はそれ以外に資本主義の生産力的側面に(「相対的剰余価値論」)注目していました。また後代の理論的成果でもって前代の学説を未熟だと判定するだけ(「澄んだ眼」の「検察官型」)でなく,時代のなかで模索している様子を描いて(「濁れる眼」の「弁護人型」)いました。さらにまた,ケネーやスミス,リカードやマルクスの学説はただ説明されるのではありません。それらが生まれる根拠が読者にも納得できるように語るのです。学説をして語らせるための舞台がじつにうまくできている。おまけにこの種の教科書では初めてなされたことですが,「です・ます」の話し言葉で読者に語りかけるというやりかた。学説を客観的に知ることはそれの伝達と表現を伴なうものなのだ,教科書とはこういうものをいうのだ。私どもはそう思い知らされました。

内田は『学史講義』の前に『経済学の生誕』(1953年)というスミス研究の本を出していました。それが戦後の社会科学の世界に「生誕ショック」をひき起こし,私どもにも語り伝えられていました。後に伊東光晴はこう言っています。「私は内田さんと専門を異にしている者の幸せを味わう」と。これは経済学史の研究者,とくにスミス研究者に対しては大変な皮肉なのですが,それほどのことだったのです。私は直接ショックを受けた世代ではありませんが,この本がただのスミス研究でないことはすぐに分かりました。内田の活動が日本の学問史のなかでどういう意味をもったかについては,いずれ私も本格的に考えてみたいと思っています。ここではそのことを簡単に述べますが,その前に内田の人物についてちょっとお話ししておきます。

内田についてはこれまでにたくさんの人が言及し論じています。それを集めただけで1冊の本になります。どれも面白いのですが,加藤周一が『内田義彦著作集』第6巻(1988年9月)の月報で的確に指摘しています。「内田義彦とはどういう人か」。四つあって,「内田さんは,読む人である」,「内田さんは,文を作る」,「内田さんは流行に従わない」,「内田さんは素晴らしい友人である」と書いています。どれも私には思い当たることがあります。3番目のことだけについて。内田は時代の流行や傾向について大変に敏感でした。晩年の1980年代に入って「君,アマデウス,見た?」とか「ホグウッド,聴いた?」と言われて,なんてアンテナの敏感な人だろうと思いました。私は音楽が好きなのに,ピーター・シェファーの『アマデウス』公演もホグウッドの古楽器演奏にも接していなかったのです。でも,ここがポイントなのですが,彼はそれほど先端的でありながら,けっして流行を追わないのです。今でも大学院生は自分のテーマを決める時に流行っているものに手を出しますね。無理もないです。日本の研究者先生は相変わらず欧米でできたテーマを輸入して追いかけることに精を出しているのですから。内田は反対で,そういうものを知りつつ,自分の視座にくぐらせないと承知しないのです。

私が内田に触れたことを述べておきます。最初に知ったのは学部3年生の時で,大学院でちょうど出たばかりの『資本論の世界』(1966年)を使って集中講義がもたれました。私は院生ではなかったのですが,他の二人とともに平田の許可をもらって出席しました。内田が教室に入ってきた時のことをよく覚えています。たしか白っぽいズボンをはいて平田と談笑しながらさっそうと入ってきました。あれ,普通の大学の先生とは違うぞ!華があるのです。違うのは授業の仕方もそうでした。まずテキストを開いて,ここのところにコンマを,傍点を打ってくれと言うんです。そこまで文章にこだわるのか! 授業の様子は平田のゼミとは大違いで,和やかに,しかし厳しさがのぞくというものでした。ある院生の報告に対して「平田君,ちょっとパラフレーズしてくれないか」と言われたのには,報告者ならずとも心穏やかではありませんでした。私が内田に直接会う機会がやってきます。私は大学院の修士課程にいるときに,さらに博士課程に進学して研究者の道に進むか,音楽出版の関係で職を得るか,悩んでいました。誰でも通る道です。その時に平田が内田に会って相談してみろと助言してくれたのです。内田は音楽が好きで,戦前の若いころには竹針の蓄音機に耳を傾け,戦後すぐには東大音感合唱研究会で活躍し,ベートーヴェンの第9交響曲の合唱部分を指揮していた人です。その後から「うたごえ運動」が盛りあがっていきます。映画『ここに泉あり』はこのころの日本の音楽活動の一つの雰囲気を伝えています。

さてお話しを聞いていただき,結局は音楽の仕事では何かの技術をもつことが大事だということになったのですが,突然,「音楽でも聴きませんか」と言われたのには虚をつかれました。それから2時間近く,レコードを聴くことになりました。アンプはクォード,プレーヤーのカートリッジはオルトフォン,スピーカーはグッドマンと,マニア垂涎のものでした。その時聴いたフランクのヴァイオリン・ソナタは今でも頭のなかに残っています。演奏は派出でない音楽性に満ちたものでした。失礼をして家を出ようとすると,スピーカーの上に置いてあったイギリス土産の人形をさして,どう,いい表情しているでしょうと言うんです。ヨーロッパ旅行をした人であれば分かることです。日本のこけしや能面とは違いますね。内田はこんな一面をもっていました。

またこういうこともありました。私は内田に会うために渋谷駅で東横線に乗り換え,学芸大学前駅で降りて電話をかけました。そうしたら道順を教えてくれ,「豆腐屋さんの前を過ぎて米屋さんの前の(――このへん記憶危うし),たしか塀が傾いているところ」と言うんです。私は思わず,にやりとしてしまいました。少し緊張が解けました。行ってみると,確かに板塀は傾いていました。内田はよく人を笑わせ,リラックスさせることができる人でした。周りの人たちには自分を「先生」と呼ばないように求めていました。

こうして内田は次第に私に近い人になっていきます。そして内田の学問世界に入っていくようになります。それは知っていくたびに,日本と自分の学問のありようを考えさせられていきます。『作品としての社会科学』(1981年)の河上肇論,あれはいいですね。『読書と社会科学』(1985年)はあるところまで来ると,胸にぐっときます。内田の遺言になっています。

私は以上の二人の学問研究に自分を託しました。そこから私の歩みが始まります。

2 日本だからこそできたスミス研究

私は研究テーマとしてスミスを選びました。他のゼミ生はほとんどが平田と同じく新しいマルクス研究の開拓にとりかかりましたが,私はそこに入る踏ん切りがつきませんでした。自分はどういうものか,もう少し時間をかけておさえたかったのです。平田は後に,「野沢君がスミスをやると言ったとき,しまったと思ったよ」と言ってくれました。自分にもっと入ってきてほしかったのです。ありがたい先生です。その頃のスミス研究の中心は戦中にすでに仕事をしていた高島善哉と大河内一男,戦後に本格的に活動した内田の3人でした。それに同じ経済学部にスミス研究の専門家として水田洋がいました。彼らは世界でも素晴らしいスミス研究者でした。スミスと言えば,一般には,利己心の自由放任と見えざる手による調和を主張した人というあのお決まりのもので,今でもそうです。私は高校の世界史の授業でこういうスミスを教えられましたが,こんなものがどうして偉大な思想なのか分かりませんでした。ルソーの人間教育論や社会契約論,カントの啓蒙思想のほうが思想として立派でないかと思っていました。それが実はスミスの時代のイギリスにとっても,20世紀の日本にとっても大変なことを言っていると知ったのは,3人のスミス研究に触れてからです。それはこういうものでした。日本は1937年に日中戦争を引きおこし,1941年には太平洋戦争に突っ込みます。当時の天皇制全体主義と軍事独裁のもとではマルクス主義は禁圧されます。マルクス主義だけでなく自由主義まで弾圧されます。そんなわけでスミスがマルクスの隠れ蓑として研究されることがありました。スミスは自由主義者であるが,マルクス以前に労働価値論を出した者とみなされていたからです。スミスはそういう一面をもちますが,でもマルクスの代行に留まらない独自の価値をもっていたのです。それが近代市民社会論です。

高島善哉『経済社会学の根本問題』(1941年)が最初の金字塔でした。高島は二つの方法でスミスを研究しました。一つは,スミスを当時の経済学の流れのなかでよりも,社会思想史と「道徳哲学」体系のなかで位置づけること。二つは,スミスは生涯に『道徳感情論』と『国富論』の2冊の本を出しているが,その間に「法学」の講義をしている。この3者の関連を問うて経済学の成立を追うこと。特に「法学」と『国富論』との関連を問うこと。この方法で高島は次の二つの問題を追求しました。

①近代市民社会と国家との区別と関連を問うこと。②市民社会を生産力の機構として経済学的に分析すること。彼は以上の方法とテーマによるスミス研究でもって当時の全体主義を批判しようとしたのです。もう少しテーマの内容を述べましょう。

1)まず市民社会とは何か。それは「シヴィル・ソサエティ」の日本語訳であり(――日本に独自なこと),非宗教的・非軍事的・非政治的な経済社会のこととされます。市民社会は中世の身分社会や重商主義の国家とは異なるのです。もう少し積極的に定義するとこうです。社会学のほうでは近代社会=ゲゼルシャフトを共同体のゲマインシャフトと区別して議論していましたが,もっと歴史的に17,8世紀のイギリスに内在する必要があります。すると市民社会は三つの層をもつ一つの全体であることが分かります。一つは市民社会は独立的生産者でつくられ,彼らの間での分業と商品交換の「商業社会」のことです。二番目はその背後で資本主義と階級の社会が展開されているものです。そして三番目が農工商の健全な産業構成をもって生産力を発展させている文明社会です。この三つで構成されるのがスミス市民社会だと言うのです。それは日本では順調に育たず,明治以来の政府主導の重商主義と封建的なものを残した資本主義によって,そして時の高度国防国家によって抑圧されてきたものでした。市民社会論はそれを批判するものであったのです。但しと言って,高島はスミスはマルクスと比較すると,市民社会を自然と見る点で歴史的でないとくぎをさしていました。歴史はマルクス的にいうと,古い共同体→市民社会→新たな共同体へと進むと考えたからです。

ではこの市民社会に国家は必要ないのか。スミスにも国家はある。でもその国家は結局,市民社会に吸収されるのです。高島はスミスの弟子筋にあたるJ.ミラーの証言に注目します。ミラーはスミスがグラスゴー大学で講義したのは「道徳哲学」であり,それは自然神学・倫理学・法学・経済学からなっていて、スミスは次第に前者から後者に重心を移していったと述べています。そのうちで倫理学は『道徳感情論』(1759年)に,経済学は『国富論』(1776年)に実ります。高島はその二つの本の間にあって未完に終わった『法学講義』(1762―63年と1763年のものがあるが,当時は後者のみが知られていた)に注目し,その中の治政(「ポリース」)論に注目しました。社会は秩序なくして成立しないが,それは権力で強制するよりも,経済的に繁栄させた方が効果的である。その富は上下間の身分的依存をなくして等価交換の法的「正義」を育てて保障することで生まれる。つまり,国家成員の安全は法的な市民社会の実現次第である。高島はそう論証して,スミスでは国家は市民社会に吸収されていると結論したのです。

これで分かるように,高島は国家に対して批判的なのです。彼はヘーゲル『法哲学』のように市民社会を家族から国家への単なる通過点とは見ず,市民社会の領域に十分留まるようにと論じました。ヘーゲルのように国家への道を急ぐな,と。こういう高島のスミス研究は和辻哲郎に対立していたと言えます。和辻は戦中までに書いていた『倫理学』のなかで近代を克服しようと考え,所有権を制限して国家統制を説いていました。

2)スミスはその市民社会をどう経済学的に捉えたか。経済学の歴史では18世紀のスミスは後の19世紀のF.リストによって批判されます。リストは列強のイギリスに対抗して自国のドイツをイギリス並みの商工業国に仕立て上げようと考えた人です。この彼からすれば,スミスはすでにできあがった富の国を前にして,そこでの商品の価値とか価格を分析するのみでよかったが,ドイツにとっては富を作る源である生産力を物質的にも精神的にもこれから作り上げねばならない。当時,ドイツのナチスも先進の英・仏・米に対抗してこれから自分たちの経済圏を作ろうとしていました。ですからリストはナチスによって評価されます。

高島はそれに対してスミスに内在し,スミスはスミスなりに一つの「全体」を捉えていたと論じていきます。スミスは前述したように,まず近代を商業社会とおさえ,その背後で資本制的な生産が行なわれていることを経済学的に分析していきます。最初に価値論・剰余価値論という体制的な議論をし,その後で市場での価格現象を説明し,所得が資本蓄積とともに変動することが検討されます。そして再び所得が消費と蓄積に向かう様子が考察され,再生産が社会的な規模でなされることが描かれます。経済社会の自律性がここで証明されます。このようにして経済社会は一つの全体を構成していくのです。重商主義のこまごまとした政策がなくても。

大河内一男『スミスとリスト』(1943年)が高島に続きます。大河内も戦中において日本の資本主義のあり方を批判しながらスミス研究をした人です。時の政府は戦争を遂行するために国民に国家倫理を説き,資本主義は物質主義の利己的な経済だとけなしていました。政府は軍需生産力を精神主義的に上げようとします。これに対して大河内は利己心を倫理や国民生産力と対立させず,それらと関連_させようとしました。それを行なったのがスミスですから,「スミスに還れ」と言うのです。そのスミスは何と言っているか。スミスは実は利己心を激しく批判しているではないか。これはどうしたことか。スミスは利己心の経済学者でないのか。大河内はその一見した矛盾を解きます。

スミスは確かに利己心を前提にして『国富論』を書いている。が,批判されているのは封建地主や重商主義の利己心であって,彼らは独占することで私的利益を排他的に求め,その富の追求は彼らの贅沢な消費をもたらし,国民や消費者の利益にならない。それとは別に認められる利己心がある。それが社会の中層・下層の人々,つまり近代的な産業資本と労働者の利己心であり,これらが国民的な生産力の形成につながる。都市のギルドの規制から自由なところ,都市の郊外や「農村」の小生産者の行動が生産力をあげて国民的利益につながる。しかも彼らは勤勉と節約の経済道徳=「慎慮」の徳を身につけている。経営者は労働者に高賃金を与え,積極的に機械を導入して生産性を上げようとする。労働者のほうも,古い意識の持主のように1週間分の賃金を3日で得たらあとの4日はぶらぶらして暮らすのでなく,労働支出を合理的に配分し,消費も明日のことを考えて合理的に行なう。そして資本家は一獲千金を求めるのでなく,安全で確実な利益を求めて,資本を身近な農→工,国内商業→外国商業の順で投下するようになる。その結果が健全な産業構造と国内市場の形成。そしてその上で外国市場に進出する。こうして「富」の追求と「徳」の成立は併行する。自利の追求と国民的利益の実現は同時進行する。

大河内はそういう議論をしたスミスを評価するのです。このアカデミックな学史研究が明治以来の日本の商工主義と逆転した富作りを批判したものであること,明白です。

もう一つ,大河内の『道徳感情論』の研究もそのままで現実批判を含むものでした。スミスはその本のなかで利己心が社会化される過程を追いました。近代は原理的には人びとを共同体から解放し,見知らぬ赤の他人の集まりにしています。でもそれはよく言われたように,18世紀の原子的個人の集まりではありません。人はその中でどうやって感情を表現し,行為をしているか。世間では人は自分のことを,身近の家族や友人でなく,ただの知人でもなく,自分に無関心で冷たい他人に受け入れられるように調整しています。スミスの言葉で言えば,人は「一方的で甘い観察者」でなく「無関心で中立的な観察者」によって「共感」されるように自分を抑制します。その調整を対象化すると,社会ルールとなり,道徳律となります。それが人の内面に住みつくと,「良心」となります。人は他人が見ていなくても自分で自分を見張ります。こうして近代市民社会では利己心から秩序が生まれるのです。近代では利己心はホッブズのように狼対狼の争いを生むから絶対主義的な国家に従わねばならないのでなく,またロックのように理性でもって利己心を統制しなければならないのでもない。倫理は経済の上から,あるいは外から説かれるものでなく,経済のなかから生まれるのです。……当時の日本国家は利己心を国策への滅私奉公と超絶無比の日本精神で超えようとしていました。

こうしてみると,『道徳感情論』での人間研究と『国富論』での社会研究とはお互いに照応します。

以上,高島の国家=市民社会論と法的視点,大河内の経済倫理的・一般規則形成論はいずれもスミス研究ですが,それを通じて,日本の資本主義は市民社会を作ってきたかと問うていたのです。これは日本だからこそできたスミス研究であって,欧米にはないものでした。このスミス研究をさらに推し進めたのが,内田義彦です。

初出:千葉大学経済研究第25巻第3号 野沢敏治先生退職記念号(2010年12月)より、執筆者と掲載誌『千葉大学経済研究』(千葉大学経済学会)の承諾を得て転載しました。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study384:110219〕