はじめに
1. 憲法9条と天皇制
2. 日米安保と沖縄
3. 集団的自衛権と再軍備
4. 安保理の機能不全と憲法9条の精神
おわりに
はじめに
ノルウェーのノーベル委員会は、11日、今年のノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に授与すると発表しました。大変うれしいニュースではあるのですが、スウェーデンのノーベル委員会と異なりかなり政治的だと言われたノーベル平和賞なだけに、なぜこの時期にと言う疑問がありましたが、ここは素直に喜びたいと思いました。その上で、翌日の東京新聞の一面には、「核共有 怒り心頭」との記事が掲載されていました。これは、石破首相の持論に対する代表委員田中照巳さんの発言でした。石破首相は、自ら軍事専門家を認めており、そのような発言をしてきたこともあり、「核共有」に関しても専門家としての知識を披歴したつもりだったのでしょうが、この感性が、被爆者の感情を逆なでしたことでしたが、なぜそのような不幸な邂逅になってしまったのでしょうか。
これは、石破首相が、日本国憲法第九条の成立過程を知らないことによるものと思われます。もちろん被団協の人々の感情も、現実の国際政治においては、理想論ではあるのですが、何よりも、石破氏の戦後日本国憲法の成立過程における、日本の安全保障のあり方に対する理解が無いことの方が問題であり、深刻な事態です。
ここに改めて憲法九条の成立過程を再検討する価値があると思いました。何事も基本や歴史が大事なことはいうまでもないのですが、こと安全保障に関しては、いくら「国を守る」とか「日本を護る」と叫んでも、それこそ現実を知らなければまったく意味がありません。
1. 憲法9条と天皇制
安全保障を考えるには、何といっても軍事力、すなわち軍隊の存在と位置づけが問題となりますが、日本国憲法9条では、交戦権はもとより軍隊をもつことも禁じています。なぜこのような建付けになったのでしょうか。まず、そのことの前に、敗戦までの大日本帝国憲法(以下、「帝国憲法」)では、軍隊はどのようなものであったかを知る必要があります。
帝国憲法では、「陸海軍」は、天皇の「統帥権」によって運用されることになっていました。この「統帥権」こそは、帝国憲法の最も重要な要素であり、天皇制を支える基本であったのです。つまり、戦前の軍隊は、天皇の軍隊であり「皇軍」でもあったのです。このことの確認がきわめて重要です。
このように日本では、天皇制と軍隊は一体のものであり事実そのように形式も実態もなされてきたのでした。しかし、連合国総司令官のマッカーサー元帥は、日本の占領政策には天皇制が必要であると考え、「軍隊」と切り離して、その存続を前提に憲法改正に取り組むのでした。それが、マッカーサー元帥が出したとされる、憲法起草のための三原則でした。
これによれば、1.天皇は最高位にあること、2.戦争は放棄すること、3.封建的な制度を廃止すること、というものでした(1)。したがって、草案当初から天皇制の存置による憲法草案だったので、大日本帝国憲法の改訂版にならざるを得なかったのです。
そこで、マッカーサーは、昭和天皇を東京裁判から救い出すために、天皇と不可分一体であった「軍隊」を切り離すだけではなく、徹底した「平和主義」を憲法上明記することが必要であるとして、それが、「憲法9条」であったのです。
当時の連合国内では、天皇の戦争責任を問うことは、当然であるとして、東京裁判にかけることが大勢を占めていたのです。そのことを封じるためにも徹底した「平和主義」が必要だったのです。しかも、マッカーサーには時間がありませんでした。というのは、そもそも、マッカーサーは日本の統治に対する絶対的な権限があったのではなく、日本軍の武装解除と治安回復程度のものであったのでした。しかも、「イタリア方式」といわれる先取特権的なアメリカの占領統治に対して、スターリンは、東欧のソ連単独占領を認めさせるために、「アメリカの単独統治を認める」と言い出したので、アメリカとイギリスはそれを阻止するために、1946年2月26日、ワシントンにソ連を入れた連合国の「極東委員会」を設置する提案をして認められたのです(2)。
つまり、マッカーサーとしては、この期限のうちに「突貫工事」で憲法起草をする必要に迫られたのでした。その結果が、2月2日のマッカーサー三原則の提示、13日の日本への草案の手交、26日の閣議決定と、極東委員会設置の日に滑り込みで完成し、11月に新憲法は公布され、翌年5月に施行されました。
この点につき吉田茂は、「マッカーサーとしては、極東委員会が発足すれば、ただちに日本の憲法問題を採り上げること必至であり、その結果はソ連や豪州側からすれば、天皇の地位はどのようになるかわからない。そこで、先手を打って、既成事実を作ってしまおうという決意をしたものであります」と述べたことが、マッカーサーによる「憲法押付論」の真相であったのです。その結果、天皇制が護られたのでした。
疑問なのは、自民党が党是で主張する“押付憲法論”は、天皇制という国体が、皮肉にもマッカーサーによって護持されたという意味で、アメリカに感謝こそすれ、批判される筋合いではないのであって、その論は、自己矛盾しています。しかし、逆に、天皇制に配慮し、大日本帝国憲法を焼き直すことによって民主主義の衣を着せた新憲法をリベラル勢力こそ「押付憲法」として「民主的改憲」を主張すべきなのです。つまり、日本の憲法議論はその根本から捻じれているのです。
2. 日米安保と沖縄
1947年5月3日に施行された新憲法(「日本国憲法」)によって、「象徴天皇」となった昭和天皇は、政治的にはまったく関与していなかったかというと、そうではなく、マッカーサーとの会見は、1951年4月15日の第十一回まで続き、かなり踏み込んだ「天皇外交」ともいうべきことを行ってきたようです。
安保条約の成立や沖縄の基地問題も実は、この昭和天皇の行動によってその骨格がつくられたといってもよいでしょう。それは、日本の独立後において米軍の駐留と安全保障をめぐって議論されたなかで明らかとなっていくのです。
米国務省のダレスは、占領後の日本において、再軍備よりも占領期と同じように米軍の日本での広範な展開をいかに可能とするかが、日米交渉の最大の獲得目標であったのですが、当時の吉田首相は、その意図をはかりかねて、二つのメッセージをアメリカに伝えたのです。
一つは池田蔵相を通じた、日本から米軍への基地提供を申し出るものと、白洲次郎による米国務次官への「軍事的な基地提供は憲法上難しいので反対する日本人がふえていくだろう」との否定的なものとがありました。吉田のこの「観測気球」に対して昭和天皇は、白洲を批判して池田の意見を支持する旨の発言をマッカーサーに伝え、一方で吉田を叱責したのでした。その結果、1951年に開始された日米交渉において「自発的で無条件の基地提供」となったのでした。そして、このことによって策定された日米安保条約は、日本は全土を基地として提供する義務はあるが、米国は日本を防衛する義務はないという「片務的」な内容となったのです。これは吉田の対等な「五分と五分」との条約ではなく、とても承諾できるものではなかったのですが、共産主義の脅威に恐怖していた昭和天皇は、本条約第一条中に米軍による「大規模な内乱」の鎮圧があることに満足していたのでした。そこで、吉田は、「自尊心の問題」からか、サンフランシスコでの講和条約ならびに安保条約締結の全権大使を執拗に固辞したのでした。このようにして昭和天皇の口利きと吉田への恫喝で占領状態の事実上の継続のような、日米安保条約が成立したのでした(3)。
そして「沖縄の問題」も天皇外交によるものでした。
敗戦後の日本の領土は、ポツダム宣言によって「北海道、本州、四国、九州、その他の連合国が認めた島嶼部」となっており、沖縄や尖閣列島などは明確な形では入っていませんでした。そこで米軍とりわけ陸軍と海兵隊は、多大な犠牲を払った戦利品と極東における戦略的価値と言う両方の意味から米国領土に併合するように主張していたのですが、米国政府としては「領土の不拡大」方針を採っていたために「沖縄問題」につては方針が定まっていなかったのです。
そこに、1947年9月19日、昭和天皇は、いわゆる「沖縄メッセージ」を出すのです。その内容は、「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものである旨が記される」(4)というものです。
この「沖縄メッセージ」は、米国の沖縄政策決定過程に大きな影響を与えました。その結果、その後1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約のその第三条に米国が「行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」と規定され、事実上米国の占領状態が継続されたのです(5)。
これは、明らかに昭和天皇による「外交」といわざるを得ない内容であり、明確に「象徴天皇制」に反する憲法違反の行為だと思われます。
この事態は、憲法九条に関して不安に感じた天皇が第四回目のマッカーサーとの会見時に非武装の不安を訴えたところ「日本が完全に軍備を持たぬこと自身が日本の為には最大の安全保障であってこれこそ日本の生きる唯一の道である」(6)と九条の意義を説示し、そのうえで、米国は沖縄の基地によって十分に日本への侵略を防げる旨発言したことに、天皇が着目し、米軍に縋る思いでこのような「メッセージ」となったと推察されます。しかも、入江相政日記において、「アメリカに占領してもらふのが沖縄の安全を保つ上からも一番よかろうと仰有ったと思う旨の仰せ」とありました。このように昭和天皇は、沖縄戦のときにもすでに沖縄を本土防衛(「神州防衛」)の「捨て石」に考えていたのは確かであり、「沖縄メッセージ」もその延長と考えられます(7)。
3. 集団的自衛権と再軍備
日本の安全保障で、集団的自衛権が問題となるのは、当初の安保条約が「米軍への基地提供義務はあるが、日本防衛の義務はない」といった一方的な米軍への利益供与の条約であり、「片務条約」と与党内からも批判されたところから、これを対等な「双務条約」とする議論が出てきたからです。この議論は、結党時の自民党の二つの勢力が関係していて、一方は、鳩山一郎や重光葵らの憲法だけではなく安保も押付であるとして、自衛軍を備え駐留外国軍の撤退、そして平和外交の積極的展開(日ソ平和条約交渉がダレスの逆鱗に触れた事件等)を主張し、対米一辺倒の吉田茂や岸信介らと対立していたのでした。
それに符合する形で米国も、国務省のダレスが主張する改憲そして再軍備をしなければ対等な関係は認められないとする強硬な立場と、マッカーサーの甥であったマッカーサー駐日米大使の集団的自衛権つまり日本の再軍備を棚上げした穏健な立場が展開されたのです。
その結果、自民党では、鳩山、重光らが一掃され、米国と親密であった岸とマッカーサー駐日大使とが主導することによって、米国の日本防衛義務を明確化することで安保改定への道を開いたのです。それが、1960年に改定された日米安保条約の5条で米国の日本防衛義務を規定し、6条で日本の基地提供義務を規定したことになったのです(8)。
岸信介は、60年安保について、「片務的な条約」を「双務的なもの」にしたと胸を張ったのですが、実は、ダレスが望んだように日本全土の米軍の基地使用を認める基本に変化はなく、その双務性も、日本は基地提供の義務、他方、米国は日本防衛の義務を負うとい言ったことが「集団的自衛権の狭義」の概念に該当するというものです。
これは、集団的自衛権を「広義と狭義」に二分した詭弁であり、「集団的自衛権」の「事実上の棚上げ」だったのです。それは同時に「改憲、再軍備の棚上げ」を意味していました。その後、安倍政権時の安保関連法案において「フルスペック」の「集団的自衛権」と言う言葉が生れたのは、この「岸の詭弁」からでした。
つまり、米国も岸も日本国憲法9条の変更を望んではいなかったということです。驚くべきことですが、この点が重要です。9条改憲すなわち再軍備を米国も自民党も本音のところでは望んではいないのであり、そのことは、米軍にあっては、軍報「スターズ&ストライプ」では再三に渡って安保による基地使用は日本の軍国主義を防止しているとの論が出されていることで、わかるというものです。他方、自民党にしてみれば国内向けに「改憲」は主張するも「再軍備」と言う表現で公然と主張しないのはそのためです。
こうした、日米双方の「改憲・再軍備」棚上げ論による安保体制は、その後、岸首相の孫である安倍晋三の内閣の時に問題となった「安保関連法案」のときに顕在化します。
岸とマッカーサー駐日米大使と協議した60年安保では、「狭義の集団的自衛権」といくら主張しても、自衛隊は軍隊ではないので軍事的な双務性は担保できないので、依然として集団的自衛権は棚上げ状態なのです。そこで、安倍政権は、改憲ではなく、内閣法制局長官の首を挿げ替えることで解釈改憲によって「安保関連法案」を強行採決したのでした。
安全保障問題で軍隊は重要な要素であるのですが、「自衛軍」とか「国防軍」とかの表現を党派的には主張していても「再軍備」という言葉を自民党は改憲勢力を自任しているにもかかわらず、封印しています。しかも、自衛隊は憲法上、軍隊ではないにもかかわらず、この組織を事実上の軍隊として認知させ、改憲も9条は変えずに追加として自衛隊を明記するといった消極的な態度です。
この態度の根本は、軍隊に関して真面目に国民的議論をしたくないからです。すでに述べたように戦前の日本軍は、天皇の軍隊であり天皇と一体化した組織で、呼称も「皇軍」と定義されていました。これは、ソ連共産党の軍隊であった「赤軍」や中国共産党の軍隊であった「人民解放軍」とまったく同じ組織の軍隊であり、「国民の軍隊」ではありませんでした。その意味で、国民的議論となると軍隊の基本理念が問題となることは当然であり、この議論を避ける目的が自民党にはあります。
「核共有論」でも参考とされているドイツ連邦軍(Bundeswehr)についていえば、重要な点がいくつかあります。まず、ナチ時代の国防軍(Wehr-macht)の反省から、連邦軍創設の原点に軍部抵抗運動の象徴であった1944年11月21日、総統大本営「狼の巣」で起きた「ヒトラー爆殺未遂事件」を掲げており、ベルリンの国防省の中庭に実行者のシュタウフェンベルク大佐らを顕彰する記念碑があります。それを担保する意味で、上官の命令には従わなければならないといえども人間の尊厳を冒す命令や犯罪につながる命令には従ってはならないという「抗命権」「抗命義務」、および軍人が抗命義務を発動した場合の不利益処分(降格など懲戒)禁止が明文規定されています(軍法第11条)。
また兵士組合としての職場団体「軍人同盟」、反戦軍人の会「ダルムシュタット・シグナル」などが構成されています。そして何よりも重要なのは、ドイツ連邦軍の指揮権は、NATOにあるということです。
日本で「再軍備」が封印されているのは、日本軍の指揮権は、独立主権国家であれば、日本政府にあることになりますが、米軍としては自衛隊のような「あいまいな組織」であれば一体化が、可能ではあるのですが、公然と他国の軍隊を指揮下に置くことは国際法上問題になります。ここに「再軍備」を封じる最大の原因があります。その意味で石破首相の「アジア版NATO」の本当の狙いは、NATOのように米軍が参加すればドイツ連邦軍のように日本が再軍備しても指揮権を「アジア版NATO」に委ねれば日本軍が再建できると考えていると思われます。
このように考えていくと自民党の考えている本来の改憲再軍備は、結党当初の鳩山-重光路線(改憲、占領軍の撤退、再軍備、平和外交)であったのですがその勢力が一掃されて、昭和天皇に叱責された吉田茂とCIAの協力者といわれた岸信介や賀屋興宣らのA級戦犯組の親米一辺倒による路線が現在に引き継がれているとみるべきでしょう。
この路線の危険なことは、「面従腹背」をよりどころにしていることです。つまり、ネット右翼的に言えば、自衛隊が米軍と一体化して活動すれば、いずれは「皇軍再建」も「核武装」も可能になり、その時点で、米軍と対決することができると、そのために、靖国神社参拝や皇国史観や皇民教育の促進、そして原爆製造の基礎となる原発が必要だという誠に荒唐無稽で幼稚な「再軍備と核武装論」を以前何人かの友人から聞いたことがありますが、この論法のまったくの誤りは、戦前の絶対的天皇制の軍国主義精神を涵養しながら、ひたすら「対米一辺倒」路線で安全保障政策を突き進むということは、現実的には、米国の外交軍事政策に組み込まれていくことであり、いわば思考停止の状態で米軍に盲従するに等しいのです。
これは、保守主義者とか愛国者のとるべき態度ではまったくなく、世界の常識では「売国奴」という範疇ではないでしょうか。この点に自民党保守派といわれた安倍晋三(安倍派・高市早苗等)ら「マッカーサー・昭和天皇の路線」を引き継いだA級戦犯の末裔たちの恐ろしさがあります。
4.安保理の機能不全と憲法9条の精神
国連の安全保障の理念は、紛争の解決手段としての武力行使を禁止することをその第一条で規定しており(9)、もしも、武力紛争が発生した場合には、国連がその紛争に介入するまでの間に当事国は、51条の個別的あるいは集団的自衛権の行使を認める(10)、という建付けになっており、基本的には日本国憲法9条の平和主義とまったく同じ理念で構成されています。
その意味で、マッカーサーが9条に対する不安を述べた昭和天皇に説示したように、「日本が完全に軍備を持たぬこと自身が日本の為には最大の安全保障であってこれこそ日本の生きる唯一の道である」ということが国際的にも認知された国際標準であることはまぎれもない事実であることの証左であったと思います。アフガニスタンにおける人道支援途上で凶弾に斃れた医師の中村哲さんも、安保法制時の国会証人としてもこのことを訴え続けたのでした。
しかし、現実には国連が国連軍を組織して国際紛争に介入したのは、「朝鮮戦争」だけであり、その後の紛争は、安保理の常任理事国の拒否権により、限定的にしか認めてはいないはずの51条の個別的あるいは集団的自衛権の行使し放題という「国際的カオス状態」となっています。
まったくもって由々しい事態であり、かろうじて超大国(米国ロシア中国等)の核均衡状態が世界戦争を防止しているといっても過言でもありません。しかし、そういう世界情勢であり国連の実態であればこそ、日本国憲法9条の精神は、人類普遍の真理を世界に伝えるものであり、唯一の被爆国としての矜持でもあり、その精神は、むしろ国際社会の安全保障や紛争解決に多大な貢献を果たすことになるはずです。
それに対して泥を塗るような「核共有」を石破首相が持論として展開していたので、被団協の代表者は、「怒り心頭」といったのです。そもそも「核共有」というのはNATOでの核運用として出されたものであって、しかも、ドイツの場合は、自国が分断され領土の双方に大量の核兵器が配備されていたという実態があってのことであり、原則的には、「非核三原則」の日本とは前提条件がまったく異なります。しかも、アメリカの核を非核国である日本とシェアーするということは、核拡散防止条約に抵触する可能性があります。
そして、より根本的には、原爆を日本へ2度も投下した米国がその反省もないままに、抑止力として「核兵器」を正当化することが、「核廃絶の最大の障害」になっていることの自覚がまったくないことが問題であり、この点は、石破首相も同様に無自覚なのです。石破がとるべき安全保障の方針は、憲法9条の精神の堅持と「核兵器禁止条約」に入ることであり、少なくともオブザーバー参加は必須です。
おわりに
本論考における昭和天皇の戦後における対応の骨子は、豊下樽彦元関学大教授の長年の研究による論証を参考にさせていただいています。そこで明らかになったことは、戦後日本の憲法9条を含めた安全保障の基礎をつくったのは、マッカ―サーと昭和天皇であったのであり、特に昭和天皇の「天皇外交」ともいうべき行為が、安保条約や今にその禍根を残した沖縄問題においてなされ、明らかに憲法違反であるにもかかわらず日米双方が黙認し利用したことは、昭和天皇はアメリカに取り込まれていた証拠でしょう。しかし、国民主権の憲法下で国民の意思とは関係なしに行われた「天皇外交」が、果たして日本国民の利益になったのかと言うと、はなはだ疑問です。とりわけ安全保障に関して言えば、事実上米軍占領下の日本で首都圏制空権も米軍に奪われ、指揮権も米軍との一体化によって独自性がない自衛隊が防衛力整備予算として43兆円もの軍事予算が必要とされるのは、明らかに米国の軍需産業(ロッキードマーティン社等)からのいわゆる「爆買い」による、米国への「多額の利益供与」なのです。しかも、屈辱的なのはそれだけの金額を米国に貢いでも属国的な日米地位協定を改定すらせずに相変わらず沖縄での性犯罪は続いているのです。
結論からいえば、日本の安全保障は議論に値しない課題だと思います。強いていえば憲法9条の精神を伝えることが最大の安全保障であって、それは理想ではなく現実的なのです。
つまり、米軍が日本全土に展開し沖縄は全島基地化している現状で、仮に「敵基地攻撃能力」を備えたとしても米軍の統合的監督下では日本の防衛力など幼稚なものです。自衛隊は、その設立当初から米軍の補完部隊でしかないからです。それでも、最小限の防衛力としては、全国民が避難出来る核シェルターの建設と、イスラエル並みの「アイアンドーム」(対空ミサイル)の構築が必要です。これにしても今になって石破首相がいうような有様で、歴代の自民党首相は敵の空襲やミサイルに対するシェルターなど言及すらしていなかったのです。本気で国土防衛など考えていない証拠です。つまり自民党の「国を守る」「国民を守る」は、「米国を護る」に言い換えたほうがいいようです。
【注】
(1)豊下樽彦 古関彰一 「集団的自衛権と安全保障」岩波新書 116頁
(2)豊下樽彦 「昭和天皇の戦後日本」岩波書店30頁以下
(3)豊下樽彦 前掲書 87頁以下
(4)豊下樽彦 前掲書 102頁
(5)サンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)
第三条
日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。
(6)豊下樽彦 「昭和天皇・マッカーサー会見」岩波現代文庫 52頁
(7)豊下樽彦 前掲書 112頁
(8)日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約
第五条
各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
第六条
日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。
前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正を含む。)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。
(9)国連憲章
第1条
国際連合の目的は、次のとおりである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を破壊するに至る虞のある国際的の紛争又は事態の調整又は解決を平和的手段によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3.経済的、社会的、文化的又は人道的性質を有する国際問題を解決することについて、並びに人種、性、言語又は宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4.これらの共通の目的の達成に当って諸国の行動を調和するための中心となること。
(10)国連憲章
第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
2024年10月21日
初出:「原発通信」2521号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔eye5810:241106〕