戦後日本の教育制度には、それぞれの時代ごとに特有な問題や課題があった。1950年代末から70年代までは、「過度の受験競争=受験戦争」と学歴社会が大きな問題であった。そのため、1980年に改訂された学習指導要領は「ゆとりと充実」をスローガンに掲げ、学習内容と時間を削減する「ゆとり教育」がスタートした。
一方、70年代後半から80年代前半にかけて、校内暴力の多発=「荒れる学校」が問題化した。80年代半ばには、中曽根内閣の下で設置された臨時教育審議会(臨教審)が、新自由主義と国家主義に基づく「改革」案を答申として提出したが、これらが具体化するのは90年代以降のことである。
80年代後半になると、校内暴力は下火になったが、代わっていじめ問題と不登校問題がマスコミで騒がれるようになった。
92年改訂の学習指導要領では「自ら学ぶ意欲や思考力」を重視する「新学力観」を掲げ、月1回の学校五日制が始まり、95年から月2回、2002年から完全五日制に移行した。
90年代半ば以降、政財界や一部評論家の間で「教育の自由化」論が高まり、90年代末以降、学校教育法の改正や文部省通達等によって中高一貫校や学校選択制が次第に広まった。2000年代に入る頃から学力低下問題がマスコミ等で騒がれるようになり、2000年代前半には全国の小中学校で習熟度別(能力別)学習が爆発的に広まった。そして、小泉政権下で進められた構造改革による格差社会が教育における格差を一層拡大する結果となった。
2006年9月に国家主義と新自由主義のイデオロギーに凝り固まった安倍晋三内閣が発足すると、翌10月に教育再生会議を設置し、12月には「改正」教育基本法を強行採決によって成立させ、07年6月には教育関連三法(学校教育法、地方教育行政法、教育職員免許法)をこれまた強行採決によって「改正」させた。これにより、文科省の教育統制権が強化され、副校長・主幹教諭・指導教諭といった中間管理職が導入され、学校評価・情報提供の義務化・画一化が図られ、教員免許更新制が導入されるなど、管理主義的・国家主義的改悪が矢継ぎ早に行われた。
また東京都では1999年以降の石原都政下で、大阪では2008年以降の橋下府政(2011年11月以降、松井知事・橋本市長体制)下で、教育現場における日の丸・君が代の猛烈な強制が推し進められており、良心を持つ教員が居場所をなくすような事態にまで進展している。
このように戦後日本の教育制度・教育環境は、その時代時代の問題や課題を抱えていたのであるが、90年代後半から始まり、2000年代になってからは猛烈な勢いで推進されつつある政治主導の新自由主義的かつ国家主義的「教育改革」はそれ以前とはケタ違いの問題を生じさせており、それによって教育現場は窒息寸前の末期的状況に陥っている、というのが私の現状認識である。教育問題には門外漢の私が、教育問題に口を挟まざるを得ない心境に至ったのも、このような危機感ゆえである。そのため、このような危険で歪んだ「教育改革」を一刻も早くやめさせることが危急の課題であるとの切迫感を私は抱いているのであるが、もちろん、そのような「改革」を阻止しされさえすれば、すべての問題が解消し、万事めでたしめでたしとなる、などと能天気なことを考えているわけではない。このような新自由主義的・国家主義的「改革」が始める以前の日本の教育制度にも極めて重大な問題があった、と私は考えている。
しかし残念ながら、私にはその問題を指摘することはできるが、その処方箋を示すことはできない。問題が根深すぎて、明快な解決策を提示することができないのである。そのため私は、これまであえてその問題に触れないできたのだが、目下の新自由主義的かつ国家主義的「教育改革」以前の教育には何の問題もなかったと思っているのだろうとの誤解を払拭するため、ここであえて、日本(だけではないとは思うが)の教育における根本的な問題と私が考えている事柄を提起することにする。
日本の戦後教育、というより、実は明治時代以来一貫して日本の教育を貫いている根本的な問題とは点数競争主義=序列主義である。これこそが日本の子どもたちを不幸にし、本質的にバカなエリートを生み出し、日本社会を歪めている根本的な元凶である、と私は思う。序列主義とは、テストの点数や偏差値に代表される数値(これには例えば、東大合格者数や合格率といったものも含まれる)によって生徒や学校の優劣をつけて序列化しようとする思想のことであるが、この序列主義は学校だけでなく、日本社会のあらゆるところに浸透している。特に、序列主義の「勝者」である「エリート」層ほど序列主義的発想にとりつかれている。ある「エリート」大学の法学部生の多くは、自分の進路さえ序列主義的発想に基づいて決めようとする。すなわち、1番法曹(その中でも1番裁判官、2番検察官、3番弁護士となる)、2番国家公務員、3番(1番にも2番にもなれない者が仕方なく選ぶ選択肢)民間企業…といった愚かしくも滑稽な価値観に浸りきっているのである。
この序列主義を早い時期から批判していたのが、数学者の遠山啓氏である。氏が1976年に出版された『競争原理を超えて――ひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社)を読むと、非常に共感する点が多い。遠山氏は明治以来、日本の教育を支配してきた原理は国家主義と序列主義であるが、より根本的なのは序列主義である、と指摘しているが、私も全くその通りだと思う。人間というものは元来、きわめて個性的なものであるから、本来、比較不能な存在である。ニュートンとシェークスピアのどちらが偉いかなどと問うのはナンセンスである。ところが、この二人に同じ試験を受けさせて、(例えば)「ニュートンの方が8点エライ」などとやっているのが、今の序列主義教育なのである。
しかも序列主義教育においては、国語・数学・英語など異なる科目の合計点で争われることになっているが、このような異なる科目の合計点にどのような意味があるのだろうか。足し算は同種のものでしか行えない、というのは算数の常識である。財布1つと150円とリンゴ3個があります。全部でいくらでしょう? 1+150+3=154などという「答え」に何の意味もないことは小学生でもわかるだろう。牛1頭と犬3匹と蟻20匹なら、皆生き物だから足し算してもいい、などとは言えないだろう。ところが、異なる科目の総得点で争われるテストでいい成績を収めるためには、どれもそつなくこなすタイプが「優秀」とされることになる。そのため、ひとつの問題を徹底的に考えたり、既成の枠組みに捉われないような独創的な生徒は、決して「優等生」にはなれず、むしろ劣等生とされる可能性が高い。
さらに、序列主義=テスト点数主義教育においては、「正解」はあらかじめ決まっていることになっているから、その「正解」に早く到達したものが勝者となる。それゆえ、「正解」を疑ったり、他にも答えがあるのではないかと考えたり、自分の頭で徹底的に考え抜くことはすべて点取り競争においては不利になるので、権威主義的で他律的な人間ほど競争に勝ち残ってエリートになる確率が高い。自律的・個性的・批判的思考はすべて序列主義においてはマイナス要因となるのである。
官僚や財界人など日本のエリートに本質的なバカが多いのは、こうした序列主義教育の産物なのである。序列主義教育の勝者は損得勘定が得意で、他人を犠牲にしてでも自分の得になることはするが、損をするようなことは決してしない、というタイプが多い。また、「エリート村」の村人は、自律的・批判的思考は苦手なので、物事を判断する基準は「村人の多数派が支持すること」という「村の論理」である。しかも彼らはエリート意識を持っているので、たとえ彼らの意見が国民の中の少数派であっても、「バカな大衆の言うことなど聞く必要なない」と思っている傲慢無知な連中である。そのような連中が今、原発再稼働へと遮二無二突っ走っているのである。やすい・ゆたかさんは、日本の学力問題を解決しなければグローバル化時代に対応できず、日本経済は衰退すると心配されている。確かにそのような問題もあるかもしれないが、私には、日本のエリートたちが今現在、日本を破滅させようとしていることの方がはるかに心配である。
さて、遠山氏の『競争原理を超えて』を読むと、序列主義批判というその基本的主張に私は大賛成であるし、「子どもの多くは勉強が好きで好きで仕方がないというものではない」という私の意見は、あくまで現在の教育制度を前提にした偏見にすぎないのではないかと反省させられる。ただ、遠山氏の示される処方箋を見ると、必ずしもすべてに賛同できるわけではない。特に、詰め込み教育の弊害を是正するため、教育の量を減らして質を高める、という提言は、無惨な失敗に終わった「新しい学力観」に基づく「ゆとり教育」の思想と相通じるものがあるように思う。もちろん、実際に導入された「ゆとり教育」は、遠山氏の考えるものとは大いに違っていた可能性もあるし、「ゆとり教育」の失敗の原因は必ずしも「新しい学力観」自体の間違いにあるとは言えないかもしれない。ただ、いずれにしても、序列主義教育を克服するための処方箋を示すのは困難だと痛感する。
私は、年齢主義(履修主義)に基づく義務教育制度は絶対に維持すべきだと考える点で、やすいさんとは意見を異にするが、人は生涯いつでも好きなときに学習できるような社会システムを構築すべきであるというやすいさんのご意見には共感するところが多い。ただ、そのためには学校を変えるだけではダメで、企業のあり方そのものを変えていかなければならないのが難しいところである。大学のあるべき姿に限って言えば、やすいさんの提言は非常に参考になる。単元単位制では細かすぎると思うので、私は科目単位制でよいと思うが、入学試験も卒業制度も廃止して大学を社会に完全に開放し、受講したい人は全国どこの大学でも好きな科目を受講できるようにし、修了試験に合格すれば単位を取得できるようにし、一定の科目と単位を取得した人に学士号を授与するようにすればいいのではないだろうか。ただ、これも具体的に考え出すといろいろ細かな問題点は出てくるのだが。
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