日本カトリック正義と平和協議会ニュースレター『JP通信』236号(2022年10月号)からの転載の許可をいただき、拙文をここに掲載いたします。「日本カトリック正義と平和協議会」については、公式サイトhttps://www.jccjp.org/をご覧ください。
(ネットに転載にあたり、出典や参考にした資料の中からハイパーリンクを本文中につけています。教皇カナダ訪問についてはリンク先に加え、これらの資料やソーシャルメディアを参考にしました。)
表紙写真 2021年6月、カムループス寄宿学校跡で母親が作ったジングルドレス(フリンジ風のジングル=音の鳴るものがついているダンス装束)を着て、約215人の子どもたちを追悼するケヒウィン・クリー族のアイヤナ・ウォッチメーカーさん(写真提供は母親のシャノン・ハンブリーさん)。 |
先住民族に対する「ジェノサイド」と、教皇の「謝罪」
乗松聡子(ピース・フィロソフィー・センター代表)
植民地支配を認めた教皇教書
カナダに住んで通算25年になる。多くの人はこの国を、「多様性を重んじる自然豊かな国」と見ている。私もそうであった。しかしこれは植民者の見方であって、この地にもともといた先住民族にとっては、北米大陸の国境は自分たちが引いたものではない。大陸の形が亀に似ていることから「タートル・アイランド」と呼ばれ、命と土地の源泉の物語として口承されてきた。欧州の入植者たちにより米国やカナダが作られる遥か前から先住民族はいた。この大陸に人が住み着いたのは1万5千年ほど前だと言われる。2017年にカナダが建国150周年を記念し全国的に祝賀行事が開催されたときも「ゼロの数が2つ足りない」と抗議する声もあった。欧州人の入植が始まった15世紀末に北米には200万から1千万ぐらいの人口があり、62語族、400言語以上の言葉が使われていたという。もともと「多様性」を誇る大陸だったのだ。カナダや米国を「若い国」と言う人がいるが、それは、欧州人入植以前の人間と文明の存在をなかったことにしている植民地主義的視点である。
この姿勢にまさしくお墨付きを与えたのが、大航海時代、キリスト教世界では国家に勝る権威を有していたローマ教皇が発布した「発見の法理」であった。教皇ニコラオ五世による1455年の教書 (Romanus Pontifex) は、ポルトガルに対し「キリストの敵」である異教徒の土地の征服と、永遠の奴隷化を認めている。クリストファー・コロンブスが北米(当時はインドと認識していた)を「発見」した1492年には、コロンブスを派遣したスペインと、ポルトガルの勢力争いが起こっていた。同年に、教皇アレクサンドロ六世が就任する。教皇は1493年の教書 (Inter Caetera) によって大西洋に「教皇子午線」を引き、西側(南北アメリカ)はスペイン、東側(アフリカ)はポルトガルに権限を割譲した。先住民族のキリスト教への改宗を名目としながらも、征服と支配がその本当の目的であった。キリスト教でない地は野蛮人の地であり「無主の地」と見なされ、「発見」した者が支配してよいという「植民・殖民による植民地主義」はここから我も我もと広がり、現在のカナダや米国の起源となるフランスやイギリスの北米への侵略も展開する。
「発見の法理」問題はさきのフランシスコ教皇カナダ訪問(7月24-29日)の焦点の一つであった。5世紀以上前の教皇教書がなぜ現代に注目を浴びるのか。1823年米国で、二人の人物が同じ土地の所有権をめぐって法廷で争った「ジョンソン対マッキントッシュ」事件があった。一人は「先住民族から取得した」、もう一人は「米国連邦政府から取得した」と主張したこの裁判で米国最高裁は、連邦政府から取得した側に所有権を認める判決をした。その根拠として、上記の「発見の法理」教皇教書が使われたのである。欧州人が「発見」し、征服したことにより先住民族の土地の所有権は消失したと見なされた。この判決は「今日に至るまでのすべての先住民法と先住民政策の基盤」となったと言われるほど大きな影響力を持ち、カナダでもその後の先住民族の土地所有権をめぐる裁判で準拠され続けた。
先住民族にとって15世紀末の教皇教書を現在の教皇が撤回することを望む声は高い。後述する寄宿学校制度に対するカナダ政府の補償の一環であった「真実と和解委員会」最終報告書(2015年)における「94の行動要求」にも、宗教各派が「発見の法理(Doctrine of Discovery)や無主の地(terra nullius)のような、先住民族の土地と人々に対するヨーロッパの主権を正当化するために使われた概念を否定するよう」という項目がある(49項目)。
寄宿学校制度の残虐
「インディアン・レジデンシャル・スクール」と呼ばれた先住民寄宿学校制度は、政府が出資し、教会が運営した、先住民族の子どもたちをキリスト教に改宗させ伝統的な信仰や文化を奪う強制同化施設であった。最初の学校は1831年にできて、ピーク時の1930年には全国に80校存在し、最後の閉校は1996年だった。通算で139校の学校に、合計約15万人の先住民族の子どもたちが送られた。寄宿学校の約60%はカトリック教会、約25%は英国国教会、他は長老派教会、カナダ合同教会などによって運営された。1867年に連邦化したカナダ初の首相ジョン・A・マクドナルドは、「インディアン問題」を解決するために連邦政府として全国に寄宿学校を拡大させる制度を1883年に導入した。マクドナルドは当時議会で、学校が先住民居留区にあると「野蛮人である両親と暮らし、野蛮人に囲まれ」、その子どもは「単に読み書きのできる野蛮人にすぎない」から、「白人の習慣や思考様式を身につけられるような集中的な職業訓練学校に入れる」必要性を語っている。
寄宿学校生活は孤独と恐怖の日々であった。家に警察が来て、行くことを拒むと両親を投獄すると脅された。親は心配でも子どもに良かれと願って服を新調し送り出したが、学校に着くとまず、身ぐるみ剥がされシャワーを浴びせられた。伝統的な長い髪を切られた。名前ではなく番号で呼ばれる。母語は禁止され、母語を話したら舌に針を刺されたことも。身体拘束や殴打などの体罰は横行した。電気椅子を使った学校もあった。兄弟姉妹同士が交流もできない。友だちを作ることも許されない。家にほとんど帰れない。脱走して捕まると全員の前でパンツを降ろされ鞭打ちされた。成功しても家にたどり着けず溺死、凍死する例も。いつもお腹が空いていた。聖体拝礼用のウェファーを盗んで殴り殺された子も。狭いところに押し込められているので結核やインフルエンザなどの病気が発生したらたちまち広まる。いつのまにかいなくなって戻ってこなかった子たち。「学校」とは名ばかりで、男子は農場や大工仕事、女子は掃除、炊事、洗濯、針仕事などの労働をさせられた。何よりもの屈辱が性暴力であった。消灯時間の後近づいてくる足音が怖い。誰かが連れ去られる。次は自分の番だろうか。加害者は神父や修道女であった。男女問わずターゲットにされた。神父に妊娠させられ、生まれた赤ちゃんは焼却場で焼かれたという話も。暴力の中で生きることを強いられた子どもたちはお互いに対しても暴力を振るうようになり、指導者たちは止めるどころか扇動した。
以上が、私が聞いたり読んだりしてきた体験談の一端である。これらの体験を読むときの内臓が掻き出されるような嫌悪感は、大日本帝国による強制動員や「731部隊」のような戦争犯罪の証言を読むときと似ている。人間が同じ人間に対して、ましてや神の名の下に、どうしてこのようなことができたのだろうか。
寄宿学校生活が終わっても心身の傷は生涯残る。悪夢を見たり、夜中に叫んで起きたり、苦しみをアルコールや薬物で紛らわせ、依存症となる。世代間トラウマとして子や孫の代まで影響する。自分たちが劣った存在だと教え込まれた経験から、自尊心を持ちにくい。愛や優しさを知らずに大人になった体験者は自らの子どもの愛し方、親密な人間関係の作り方がわからない。大事な人に暴力を振るってしまう。自らの命を絶つ。先住民族の子どもは未成年者人口全体の約7%であるが、児童養護制度にいる子どもの半数以上を占める。先住民族の子どもの約4割は貧困状態にある(非先住民は8%)。先住民族の女性で凶悪犯罪の被害者になる率は非先住民女性の3倍である。服役中の女性の42%、男性の28%が先住民である。先住民族の放送局を聞いていると失踪・殺害事件や、警察などの権力組織による差別や暴力のニュースが流れない日はない。カナダの植民地主義は過去の話ではなく現在進行形なのである。
償いの歩み
寄宿学校体験者にとって奪われた人生は戻ってこない。この罪をどうやって償うのか。カナダ社会は重い歩みを続けている。1990年代から、被害者、家族、先住民族社会が政府と教会に責任を問う運動が高まり、政府も「先住民族に関する王立委員会」報告書(1996)で寄宿学校の被害を明らかにした。政府を相手どってカナダ史上最大の集団訴訟が起こされた結果、2006年に政府からの総計19億ドル(約1900億円)の「先住民族寄宿学校和解協定」が成立した。2008年には当時のスティーブン・ハーパー首相(保守党)が国会で先住民族の代表者たちを前に謝罪した。協定の一環として、2010 年から全国7 箇所で「真実と和解委員会」(Truth and Reconciliation Commission)が開催され、約7千人の体験者に聞き取りを行い、全てのカナダ人がこの歴史を学ぶことができるような催しが持たれた(写真1)。先述した2015年の最終報告書には、カナダが先住民族に行ったことは「土地の接収、精神的指導者の迫害、言語の禁止、文化的慣習の違法化、移動の制限、家族の崩壊によって政治・社会制度を破壊し、文化的価値を次世代に受け継がせないことを目的」とした、「文化的ジェノサイド」であったと結論づけた。その後ジャスティン・トルドー政権下では、1980年以来1200件の発生を警察が認めていた(4千件という推計もある)「先住民族女性および性的少数者の失踪・殺害事件」について2千人に聞き取りをした全国調査が行われ、2019年に出た最終報告書では、先住民女性が白人女性に比べ失踪したり殺害されたりする率が16倍にも及ぶことを指摘、先住民族が構造的暴力に晒され続ける有様を「ジェノサイド」と断定した。「ジェノサイド」という用語についてはメディアで議論が沸騰したが、当事者からは「やっとその通りの名前がついた」との声が上がった。
写真1 「真実と和解委員会」の席上で、 キリスト教関係者がサバイバーに謝罪する (2013年9月、バンクーバー) |
私は2013年9月、上記「真実と和解委員会」のバンクーバー大会に参加し、体験者たちの経験を生で聞く機会があった。中でも一番印象に残ったのは、キリスト教会関係者が寄宿学校体験者と一緒に円になって座り、謝罪を伝える会合が繰り返し持たれたことだった。そこでは、体験者から「許すという気持ちにはなれない」、「神もカトリック教会も憎い!」という声もあった。その時知ったことは、寄宿学校を運営した各教会の中で、カトリック教会のみがまだ謝罪をしていないということだった。それもあって、2015年の「真実と和解委員会」行動要求の58項目として、ローマ教皇への謝罪の要求が掲げられた。「私たちは、ローマ教皇に対し、ファースト・ネーションズ、イヌイット、メイティーの子どもたちがカトリック教会の運営する寄宿学校で精神的、文化的、感情的、身体的、性的虐待を受けたことについて、生存者とその家族、コミュニティに対して謝罪を表明するよう要請します。その謝罪は、(中略)この報告書の発行から1年以内に行われ、カナダの地でローマ教皇によって行われることを要求するものです。」この謝罪の求めに対しカトリック教会の反応は非常に鈍いものであったが、今年教皇カナダ訪問がようやく実現した。
写真2 表紙写真(2021年、カムループス寄宿学校前に立つアイヤナ・ ウォッチメーカーさん)のジングルドレスの柄のクローズアップ |
その背景には昨年5月の「墓標なき墓」発見の衝撃がある。西部ブリティッシュコロンビア州のカムループスという場所の寄宿学校跡地に、地中レーダー技術によって、おおよそ215人の埋葬跡が確認されたとの発表は、カナダ全体を揺るがす大事件となった(写真2)。その後も全国で次々と百人単位での発見が続き、現在、通算2千人以上(推定)の「墓標なき墓」が確認されている。先述の和解協定締結時には約8万人の寄宿学校体験者が生存していたと言われているが、これによって、声を上げることもできず死んでいった子どもたちの存在が脚光を浴びることになる。「真実と和解委員会」は4100人以上という死亡数を把握していたが、委員会を率いた一人であるマレー・シンクレア元判事は、政府の真相究明努力の不十分さを指摘し、実際には1万5千人かそれ以上ではないかという推測をしている。もしそうであれば寄宿学校に行った子たちの10人に1人は殺されたということになる。入ったら生きて帰れないかもしれない場所は「学校」とは言えない。ナチスの「ホロコースト」を彷彿とさせる「ジェノサイド」の現場であったのだ。
教皇フランシスコ「懺悔の巡礼」が残した課題
今春、約200人の先住民族の派遣団がバチカンを訪れ、フランシスコ教皇に面会して体験を直接話し、4月1日に教皇は派遣団の前で、「多くのカトリック信者、特に教育的責任のある人々」による虐待について「恥と悲しみ」を感じ、「これらカトリック教会の構成員たちの嘆かわしい行為」に対して「神の赦しを求め」、「心の底から、申し訳なく思います。」と述べた。教皇自らの口から謝罪の言葉があったことを評価する声も多かった一方、教会の「構成員」の責任に触れつつ、教会自体の組織的責任を認める謝罪ではなかったことについては不満の声があった。それだけに、夏の教皇カナダ訪問では、より踏み込んだ謝罪に対する期待が高まった。
7月24日、教皇の言葉による「懺悔の巡礼」が始まった。高齢で健康問題も抱える教皇は、このカナダの旅だけは実現させたいとの強い意思があったと言われている。アルバータ州のエドモントン空港では、トルドー首相と女王代理のメアリー・サイモン総督(カナダ初の先住民族の総督)が出迎えた。翌日、マスクワシスというクリー族の地で、地元の寄宿学校跡を訪れ、祈りを捧げた後、駆けつけた何百人もの寄宿学校の被害者たちを前に謝罪文を読み上げた。会場は、教皇が本当にカナダに来たことに対する興奮と感謝に満ちていたが、実際の謝罪の内容はバチカンで行ったものと大差なかった。「文化の破壊と強制された同化」政策に「教会の構成員と宗教団体が加担した」こと、「これだけ多くのキリスト教徒が先住民の人々に対して犯した嘆かわしい悪事」に対する謝罪はあったが、教会自体の責任には触れなかった。「発見の法理」への言及もなかった。何より、多くの体験者にとっては被害の核心であった「性的虐待」に触れなかったことについては失望の声があった。
先述の、「真実と和解委員会」を率いたマレー・シンクレア氏は教皇の言葉を「歴史的な謝罪」と認めつつも、「大きな穴があった」と批判した。委員会は教皇に対し、2010年に当時のベネディクト教皇が、アイルランドで長年聖職者から性暴力を受けていた子どもたちに対し「教会の名の下に」謝罪したような、教会の責任を認める謝罪を求めていた。カトリック教会はカナダ政府の同化政策に単に「加担」していたのではない。シンクレア氏は、「教会がカナダ政府に対して、先住民族の文化や伝統的な慣習、信仰を破壊するために、より積極的かつ大胆に活動するよう求めた明確な例」がいくつもあると指摘し、「キリスト教至上主義の名の下に、子供たちを家族や文化から引き離そうとする組織的な取り組みだった」との声明を発表した。
教皇は残りの日程の中で、これらの批判に応答するような発言を行った。ケベックでは寄宿学校における性暴力を糾弾したり、虐待における「地元のカトリック教会」の役割を非難したりした。帰りの飛行機の中では報道陣の質問に答え、カナダ滞在中には口にしなかった「発見の法理」についても「このような植民地主義的考え方は清算しなければいけない」といった趣旨の発言をした。先住民のジャーナリストから「ジェノサイド」について聞かれ、「私が表現した内容はジェノサイドである」と認める発言もしている。
教皇訪問中、被害者を24時間体制でサポートする「寄宿学校クライシスホットライン」には普段の2倍以上の電話があったという。「懺悔」のための旅であったとはいえ、当事者には辛い体験のフラッシュバックが起こるのだ。私の知人には怒りと悲しみで寝込んでしまっていた人もいた。一方、当事者の中には、これを機会に自分の中で、過去に区切りをつけたいと感じた人もいたようだ。さまざまな反応があった中、多くの人が共有していたのは、「言葉は一つの出発点に過ぎず、これからの行動を注視する」という思いである。バチカンはカナダの寄宿学校についての未公開文書を大量に保管していると見られており、率直な公開が求められている。「和解協定」時にカナダのカトリック教会は2500万ドル(約25億円)を寄宿学校被害者に支払う約束をしたのに結局400万ドルほどしか資金を作ることができていない。バチカンの博物館に多数ある先住民族の収蔵品の返還問題もある。象徴的には意義深かったフランシスコ教皇カナダ訪問であるが、逆に未解決の課題を浮き彫りにした。
最後に、7月25日の教皇謝罪スピーチの直後に、シピコさんという民族服をまとった女性が躍り出て、クリー語で涙ながらに抗議した言葉を引用したい。この予定外の行動はSNSで大拡散、主要メディアでも取り上げられ、「自分の気持ちを代弁してくれた」との声が次々にあがった。女性不在だったことでも批判されたこの「謝罪」の儀式に一石を投じた場面であった。
「あなたはここに話し言葉の法を与えられます。私たち、大いなるスピリットの娘たち、そして部族の主権者たちは、大いなる法ではない、いかなる法律、いかなる条約にも強制されることはない。我々は我々の領土で首長を任命した。それに従って統治するのだ・・・あなたは部下の男たちとともに帰りなさい!そして過去の過ちを正しなさい。この土地は植民者と教会が来るまでは清純で純粋だった。“発見の法理”を撤回しなさい!」
(転載以上)
以下、カナダ公共放送局CBCのYouTube より。教皇に訴えるシピコさんの様子や、事後にCBCがシピコさんに行ったインタビュー、先住民族の人々のリアクション等が見られる。
Cree singer reveals message behind powerful Pope performance/CBC
過去の参考記事
カナダ先住民の癒しと、和解を求めて-9月「真実と和解委員会」バンクーバーで 開催
『琉球新報』 カナダのジェノサイド 先住民埋葬地発見の衝撃<乗松聡子の眼>
初出:「ピースフィロソフィー」2022.12.18より許可を得て転載
http://peacephilosophy.blogspot.com/2022/12/jpreprinted-from-japan-catholic-council.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion12654:221219〕