(2023年1月18日)
来週の月曜日、1月23日に開会が迫った通常国会。その論議の最大のテーマは、安保改定3文書に表れた安全保障戦略の大転換である。これを許すのか否かが、日本の命運に関わる。そして、これに関連する学術会議法改正案にも注目せざるをえない。
安倍・菅や、それを支える右翼陣営が、日本学術会議を攻撃する真の理由は、同会議が《日本の「軍事・防衛研究」に反対してきた》という点にある。政府は、学術会議の独立性を剥奪して政府の方針を注入し、科学技術の軍事転用を図りたいのだ。さらに本音を言えば、大学の自治も、メディアの自由も、日弁連の在野性も認めたくはない。すべてを政府・与党の方針が貫く日本にしたい。そうすれば、大軍拡も防衛産業の育成も思うがまま。日本の大国化が実現できる。北朝鮮や中国が、羨ましくてしょうがない。だから、安全保障戦略の大転換と関わりが出てくるのだ。
日本学術会議の会員は250人。3年ごとに半数が改選されるが、菅政権発足以前その人選に政府が介入することはなかった。「学問の自由」(憲法23条)は、「学術団体の自治・独立の保障」をも意味するものと理解され、政府の任命が形式なものであることは当然と理解されていた。「政府は、金は出すがけっして口は出さない」というお約束なのだ。
これを乱暴に蹂躙したのが、安倍晋三亜流・菅義偉前首相の初仕事だった。長年の慣行を破って、政府が快しとしない研究者6名の任命を拒否したのだ。後世の歴史書には、学問の自由に対する悪辣な弾圧者としてだけ、菅義偉の名が遺ることになるだろう。
政府は、この任命拒否に続いて、学術会議の独立性を剥奪しようと追い打ちの算段を重ねて、大きな世論の反撃を受けることとなった。3年間のせめぎ合いを続けた末の改正法案は、新規会員の選考過程をチェックする第三者委員会新設を盛り込む内容となっている。
日本学術会議はこれを深刻に受けとめ、昨年暮れ12月21日の総会で、法改正を目指す政府方針に「学術会議の独立性に照らして疑義があり、存在意義の根幹に関わる」として再考を求める声明を出している。
今、この問題での担当大臣は、後藤茂之(経済再生担当相)。この人が、1月13日閣議後の記者会見で、下記のように発言して、科学技術の軍事転用を視野に入れた改正案ではないことを強調した。
「(改正法案は)学術会議の独立性はこれまで同様に保つ。会員選考には基本的に現行方式が続く」「会員以外の有識者からなる第三者委員会を学術会議に設置するが、第三者委員会の委員は一定の手続きを経て会長が任命するものと考えている」「会員などの候補者を最終的に決定するというのも学術会議であることを今検討している法案で想定している」「基本的に現行方式が続き、その手続きを第三者委が透明化して国民に示すということだ」「学術会議の活動に政府が口を出すことは全く想定していない」「軍事研究にシフトするために、第三者委員会で学術会議の独立性に手を入れるという趣旨は全くない」
これに、今度は右翼が噛みついた。産経新聞社が発行する「夕刊フジ」の公式サイトが「zakzak」。その昨日の記事が、「第三者委メンバーを会議が任命!? 日本学術会議〝大甘〟改革案 岸田政権が提出検討 虫のいい話『お手盛り調査になるのは明白』島田洋一氏」というタイトル。記事を読まなくても、内容はあらかた分かる。島田洋一(福井県立大学教授)とは、こういうときに引っ張り出される、常連の右翼。櫻井よしこらとのお友達。
zakzakの記事中の「学術会議に対しては、年間約10億円もの血税が投入されながら…」という一節にあらためて驚く。何ということだ。日本の学問の殿堂に、「年間わずか10億円」という情けなさ、恥ずかしさ。あの、天下の愚策・アベノマスクの予算措置が466億円だった。違憲の疑い濃い政党助成金が年間315億円。日本がアメリカから売り付けられた戦闘機F35Aの価格は、1機100億円をはるかに超えている。
同記事は、おしまいに島田洋一のコメントを引用する。
「『税金はよこせ、人事は自分たちにやらせろ』という虫のいい話は社会では通用しない。自分たち独自で政府から離れて独立性を確保すればいい」
この俗論、俗耳に入り易いのだろう、繰り返されている。名古屋市長・河村たかしが、あいちトリエンナーレに粗暴な介入をしたときにも同様のことを言っていた。「税金を使って、天皇陛下の肖像画をバーナーで燃やして足で踏みつけるという展示をやっていいのか」。
同種の理屈はいくつも展開されている。「国立大学は国家の税金で運用されているのだから、国旗を掲揚し国歌を斉唱するのが当然」「教育公務員は税金を支給されているいるのだから、教育の理想を求めるなどと言ってはならない。教育行政の命じるとおりの教育方針に従え」。
これを放置しておくと、こんなことまで言いかねない。
「裁判官は国から支給される税金で喰っているのだから、国が当事者となる訴訟では、国を敗訴させてはいけない」
公費の支給は、近視眼的な国家の利益のためにのみなされるものではない。国益を越えた、学問・科学・文化・芸術のために支出されてよいのだ。そのことによって、国民の精神生活や社会性が多様で豊かになるからだ。むしろ、学問や学術会議を時の政権の都合で縛ってはならない。
民主主義社会では、政府が自らの政策を批判する団体にも、公費を支出する寛容さが求められる。『金は出す、口は出さない』は、「虫のいい話」ではなく、そのことを通じて政府は自らの姿勢の検証を可能としているのだ。
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2023.1.18より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=20642
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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