23 致命的過失
ドイツへ向かったのは致命的過失だったと人は言う。私は法律が支配する民主主義国に行くんだと信じていた。ハーグ検事局が言うような犯罪を行っていたならば、わざわざ罠にはまりに行くものか。
ミュンヘンでの家族再会の喜びもつかの間であった。私の悪い噂がここにも届いていた。ボトコザリエ出身のムスリム人とクロアチア人の難民達が私を首謀者とする諸犯罪の話をテレビや印刷物で組織的に流していた。そんな嘘の焔に油をそそいだのは、残念なことに弟(or兄)メラディンだった。彼は私がムスリム人にとってある種の鬼であるとセルビア人達に自慢していた。全く無思慮なことに自分の店の壁にセルビア人軍の制服でカラシニコフ銃をもつ弟(or兄)リュボミルの大写真をかけていた。
弟の店で給仕として働いた。空手クラブでトレーニングをした。私への包囲は無情にちぢまった。毎日ドイツ警察が戸をたたき、手錠をはめにくるかとおびえていた。溺れる者藁をもつかむのたとえの如く、私がプリェドル脱出を助けてあげたムスリム人達のことを想い起した。一例をあげる(p.61)。彼等は私のことを覚えていてくれるだろうか。
エルヴィス・クリュチャニン、生後数か月の赤ちゃんと妻をつれた彼の弟(or兄)、彼等の母親と親族の女性を交通警察の制服を着た私はプリェドル鉄道駅まで送って行った。クリュチャニンの頼みだった。忘れられない瞬間だった。列車のところまで来て、「さあ、もうお別れだ。」エルヴィスは「お願いだ、ドゥシコ、私達と一緒に車内に入ってくれ、もっと安全になる。」車輪が回転しだしてから列車を降りた。彼等はボサンスキ・ノヴィの難民センターを経てドイツに向かった(p.62)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
24 ツィゴのグループ
1992年6月16日のコザラツにおける衝突の後、私はプリェドル警察部隊に動員された。しかしながら、ハーグ法廷の正式な訴状の第12パラグラフ、ヤスキチ村とシヴツィ村の諸事件にかかわる箇所では、次のように述べられている。「1992年6月14日頃、ドゥシコ・タディチを含む武装セルビア人はプリェドル・オプシティナのヤスキチ村とシヴツィ村に進入し、家から家をまわって住民を呼び集め、男と女子供を分離した。」
数年後上記犯罪に直接参加した人々の声明から以下の事を知った。ハーグ法廷が知り得なかったし、知りたくなかった事だ。「私ヴラディミル・マリチは真実は以下の通りであると声明し、確言する。」「3.私の到着後の6月中、ヤスキチ村とシヴツィ村のムスリム人住民は『諸収容所』までバスで輸送されていた。」(p.63)。「私の部隊以外にモムチロ・ツィゴ・ラダノヴィチとそのグループが憲兵の役割でムスリム人住民搬送当時しばしばこの地域にやって来ていた。4.私がこの地域に滞在していた時、ドゥシコ・タディチはヤスキチ村にもシヴツィ村にもいなかった事を確言する。当時タディチが両村にいたならば、必ず彼を見かけたであろう。諸統制点における厳格なコントロールの故にタディチであれ他の誰であれ両村に入る事は不可能であった。」(p.64)。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study455:120314〕