明治維新・明治国家研究の新地平に向けて ―自著『明治国家論』の要点―

著者: 大藪龍介 おおやぶりゅうすけ : 元富山大学、福岡大学教員
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昨秋『明治国家論』(社会評論社、A5版、320頁)を上梓しました。

近・現代日本政治体制の原構造をなす明治国家について理論的に考察した書です。国際的な比較政治史的研究を踏まえ、既存の諸論の批判に立って、明治国家の歴史的・構造的特質を立憲国家、国民国家、天皇制国家などの諸側面から分析的に解明することを追求しました。どういう点で従来の明治国家論を乗り越えて新地平を拓こうと試みたか、要点を記します。

第1篇(4章構成)では、イギリス、フランス、ドイツにおける初期ブルジョア国家の存在諸形態について、具体的な分析的研究をおこない、①、公的イデオロギーにおける主権の所在、②、国家元首と政府首長の関係、③、国家権力機構における中枢機関、④、統治を担う主勢力という4つの視座から相互比較して、イギリス名誉革命体制を議会主義的君主政、フランス第1帝政をボナパルティズム、フランス復古王政を君主主義的立憲政、ドイツ・ビスマルク帝国を立憲政府政と、それぞれに規定しました。

日本の社会科学的研究が比較対象である近代ヨーロッパの理念的な美化に陥ってきたことへの批判と反省がなされてからすでに久しいのですが、上記の初期ブルジョア国家の諸形態の実像につて分析を深めると、依然として誤解が少なくないことが判明します。

当篇での最も大きな論点は、ボナパルティズムをめぐるものです。エンゲルス以来の「階級均衡」や「例外国家」の定説に対する批判を繰り返してきましたが、本書で更に論歩を進め、ボナパルティズム研究の今日的到達を代表するH-U・ヴェーラーと西川長夫のそれぞれの所論の批判的摂取をつうじて、ボナパルティズムの古典型であるフランス第1帝政―通念のように第2帝政ではなく―に即し、「カリスマ的指導者による、軍事的・官僚的国民国家を構築し、資本主義社会の発展を上から推進する、国民投票的支持に立脚した独裁的政治」と再定義しました。

更にビスマルク帝国について、マルクス、エンゲルス以来有力であるボナパルティズム説を吟味して、ボナパルティズム国家としての諸特徴の多くを欠いていることを明らかにしました。そのうえで、フランス第2帝政の移植としてよりもドイツ伝来の官僚絶対主義の近代的転換として捉える方が当を得ているという見地から、その国家体制の実体を適切に表現する新たな概念の開発を試みて、これを立憲政府政と規定しました。

フランスの復古王政を重要な比較対象として扱ったのも、前例がほとんどないことでしょう。

第2篇(2章構成)では、明治国家に関するこれまでの諸論を批判的に検討しました。

戦後歴史学において圧倒的に支配的であった講座派とその系統の絶対主義論は、およそ1970年代末には総崩れ状況をむかえ、1991年のソ連の体制瓦解の衝撃とともに最後的に崩壊したと言えるでしょう。しかし、かつての通説、天皇制絶対主義論に対する根底的な反省と批判は明確にされていませんし、その影響は随所に残っています。

本書では、講座派天皇制絶対主義論護持の最後の論作、中村政則「近代天皇制国家論」(1975年)を取り上げ、コミンテルンのいわゆる「32年テーゼ」ヘの盲従や立脚する国家論の錯誤について、全面的な批判をおこないました。また、明治時代以来の明治維新・明治国家研究の歴史のうえで、講座派天皇制絶対主義論は、日本のマルクス主義的左翼が「マルクス=レーニン主義」を称するスターリン主義の虜になっていた、およそ1930~70年代の所産物として位置づけられることを摘示しました。

明治国家に関する少数異説であった服部之総や上山春平のボナパルティズム説についても検討し、その不適切性を批判しました。

補論として、明治維新史研究の現況と近年流行の国民国家形成論について批評した小論を収めています。

第3篇(5章構成)は、明治国家について分析した本論です。

最初の章で、分析の方法に関して、複合的発展、自由(主義)化と民主(主義)化の区別、政治(体制)・国家(体制)・憲法(体制)の相関関係という三つの視座を設定しました。

複合的発展は、後進国日本の近代化が、国際的環境の圧力を受けて、一方では国内外の諸力(欧米先進諸国の到達成果と自生的な伝来の国力)、他方では歴史の諸段階(絶対主義と近代初期)とを独特に合成して進行する特質を指しており、戦後歴史学に浸透した単系的・単型的歴史観を克服して、各国は特有の道を通って多系的・多型的に近代化するという見地に立つことを含意します。

政治的な自由主義化と民主主義の区別に移ると、明治維新においては、立憲政体の樹立とともに欧米列強の外圧に抗する国家的な独立をも目標とせざるをえなかったことから、欧米的な自由主義とは逆に、国家権力を強化すべく個人の自由を制限するのが定則となり、自由主義は国家主義的に歪められた矮小な形姿でしか存立できませんでした。自由民権運動に代表される民権的な自由主義が、それに対抗しました。ところが、講座派理論では、コミンテルンの「ブルジョア革命=民主主義革命」の公式にそって、一方で維新政府の国権主義的自由主義を絶対主義と曲解するとともに、他方では自由民権運動を民主主義革命運動と誤認して、天皇制絶対主義対ブルジョア民主主義革命の構図を拵え、絶対主義か民主主義かの二項対立で明治維新・明治国家の史実を切り盛りすることになりましたし、自由主義を民主主義に解消し、自由主義の固有の存在位置を見失う結果に陥りました。そうした通説を克服すべく、明治維新・明治国家において直面した歴史的課題は、民主主義革命・民主主義化でなく自由主義革命・自由主義化であったことを具体的に明らかにし、日本の自由主義の固有の位相や特徴の解明を図りました。

明治国家の特質を表すのに、「明治憲法体制」の題辞が多くの研究者によって用いられています。しかし、憲法(規範)と国家(運営)との間には、建前と実態とも呼べる乖離が多かれ少なかれ存在するし、国家(運営)は諸々の政党、政治団体、新聞・雑誌などのメディア、学校等々が活動を繰り広げる政治社会を基盤として成っています。この政治、国家、憲法の多層的で一体的な区別・連関関係を掌握するには、憲法中心的アプローチよりずっと広角的で多角的なアプローチが必要です。そこで、政治(体制)⇔国家(体制)⇔憲法(体制)の循環過程を総体的に把握する方法的見地から、明治時代におけるそれの具体的な存在態様の解明に心掛けました。

続く3つの章において、明治国家が立憲国家、国民国家、君主政国家しての性格をどのように備えているか、その史的展開と内的構造を分析し考察して、日本型初期ブルジョア国家としての独自性の解明を図りました。目次は次の通りです。

「第2章 立憲国家の建設

(Ⅰ)帝国憲法の制定過程と国家機構の改編拡充

(2)政党の誕生と政治社会の形成

(3)帝国憲法の構造と特徴

(4)初期議会における藩閥政府と民党の攻防

第3章 国民国家の造型

(Ⅰ)日清戦争

(2)藩閥と政党の協調へ

(3)産業資本主義の形成

(4)日本型国民国家の造出

第4章 天皇制国家の相貌

(Ⅰ)新国家的統合のシンボル

(2)天皇制の定立

(3)天皇の実際政治への関与

(4)ナショナル・シンボルへ          」

多くの論点のなかから、特に論争的テーマである明治天皇制に絞って扱います。

黒船来航以来の幕末における内外の重大な危局を突破せんと維新革命を推進した討幕派・維新政府は、「幼沖の天子」睦仁を新政体の旗幟として押し立てました。徳川将軍(家)に代わる政治的求心力をもちうる存在は、天皇(家)以外になかったのです。

維新革命の進行途上で、大久保利通は建白書において、天皇のあり方につき「国内同心合体一天ノ主」となるべしと提言し、伊藤博文は帝国憲法草案審議の場で、日本では仏教も神道も欧米でキリスト教が果しているような人心を帰向させる力がない、「機軸とすべきは独り皇室あるのみ」と明言しました。民間にあっては福沢諭吉が『帝室論』で、天皇・皇室を現実政治の局外において「民心収攬」の中心に据えることを唱えました。天皇(家)に何よりも求められたのは、欧米諸国に伍しうるような新国家建設に不可欠の国民的統合のシンボルたることでした。この基本線で、明治天皇制は創出され確立してゆきました。

明治初期の天皇制形成に関しては、天皇(家)の正統性根拠を神話的な万世一系の皇統支配に置いたことに連関し、伝統的な宗教や新手の公式儀礼、国家祭祀を媒体として、民衆の内面的世界に入り込み天皇の支配を受け入れさせるように図ったたことを重視しました。具体例を二つだけ挙げると、伊勢信仰や祖先崇拝などの伝来の民間信仰の天皇崇拝への誘導、全国各地への天皇巡幸です。

帝国憲法制定・帝国議会開設によって新国家創建が達成され、天皇制も確立します。その過程については、国家権力機構が改編、拡充され、その一環として、新華族制や枢密院の設置によって天皇制が機構的に強化される一方、内閣制の創設とともに宮中(天皇・朝廷)と府中(内閣・政府)の分離が制度化され、内閣=政府が国家権力の中枢機関としての地位を名実ともに確立し、天皇は責任大臣の輔弼なしには国務に携われなくなったことに、特に注目しました。

この天皇と内閣=政府の関係の再確定を先行の事実として、帝国憲法では、「万世一系」の天皇が「国ノ元首」として「統治権ヲ総攬」し広大な大権を掌握することが謳われ、この天皇至高主義が近代に普遍的な立憲主義と統一されていました。そこには、憲法上天皇の超越的な地位と権力を謳い、もって国民統合の機軸たらしめるとともに、実際政治では藩閥政治家・官僚の内閣=政府が天皇の名において権力を揮うという、維新革命で定着してきた統治様式を確保し永続させる意向がつらぬかれていました。

帝国憲法での「天皇主権」について言えば、すでにフランス復古王政の憲章において、国民主権や人民主権への対抗概念として君主主権が蘇えらせられていました。しかし、その主権概念は近代的に転回して、分立する国家諸権力(機関)のなかでの最高権力(機関)を表し、君主主権は、議会主義に対抗する君主主義を意味するものに変容していました。「天皇主権」もその系譜に属することが、『憲法義解』から読み取れます。

以降、明治中期には、国民教育の制度が整ってきたなかで、学校に下付された教育勅語、御真影を介して、道徳面からも天皇崇敬が社会的に浸透してゆきました。

宗教面では、当初の神道国教主義の失敗から政教分離主義の方向に転換した政府は、公認宗教制を採用するにいたりました。その線で、帝国憲法では信教の自由が認められる一方、祭祀儀礼としての神社神道を回路として天皇尊崇が促されました。

そして、日清戦争とその勝利を境に、日本は国際的地位を一挙に高め、明治国家も大きく変化を遂げます。挙国一致の戦争遂行体制が築かれて政党、ジャーナリズムが戦争熱を鼓吹し、好戦的愛国のナショナリズムが高揚、下層民衆も加わった戦争支持の国民運動が展開されました。そのなかで、天皇についても、連戦連勝の帝国陸海軍を率いる大元帥という新たな像が生まれ国民のなかに浸透しました。戦勝によって、天皇の政治的権威は道徳面や宗教面での権威とも相まって飛躍的に高まり、天皇・皇室は大日本帝国の国民統合の凝集核となり不動のナショナル・シンボルとなりました。

他面で、天皇の実際政治への関与がどうであったかについても、帝国憲法で明示されたなかでも枢要な官吏任免、軍の統帥ならびに軍事編成、法律裁可の大権について、その跡を辿りました。これに関しても、首相の任免では、元老たちの談合=元老会議によって実質的に首相が選任され、それを受けて天皇が大命を下す方式が政治的慣習として定着したこと、大臣の任免では、天皇はしばしば人事に容喙したが最終的には首相の決定を尊重したこと、軍隊の指揮・統率については、日清戦争にあっても日露戦争にあっても、御前会議において政略主導の政略・軍略一致の最高方針が決定され、元老とそれにバックアップされた内閣=政府の主導下で統帥がおこなわれたことだけを簡単に記します。全般に、天皇は元老会議、内閣=政府とは別の独自の政治的意志決定をおこなうことなく、輔弼と協賛、上奏などに応じて親裁し、調停や裁定で実際政治に関与するにとどまりました。

終りの章では、明治国家は君主主義的立憲政か、立憲政府政かについて検討しました。実は、これまで黙殺されてきたのですが、明治国家を君主主義的立憲制として捉えた望田幸男の優れた研究が存在していました。その望田の所論を手掛かりにして、フランス復古王政、ビスマルク帝国、明治国家をあらためて比較考察して、結論として明治国家について立憲政府政と総括的に規定しました。あわせて、同じ立憲政府政としても、ビスマルク帝国と異なる明治国家の固有性を摘示しました。

前著『明治維新の新考察』では、明治維新について、「政府が国家権力を手段として推進する保守的革命」である「上からのブルジョア革命」の一つとして論じました。本書と繋ぐと、上からのブルジョア革命→立憲政府政という一体的な連動性において、明治維新・明治国家を捉えることになります。そこに、近・現代日本の伝統的体質として現在まで受け継がれている国家主導・政府優越の原型を見ることができます。

近年は、旧套の通説を乗り越える実証的な研究諸成果が提出されています。だが、それらが集成されてかつての天皇制絶対主義論に取って代わる明治国家論として総合されていません。明治維新・明治国家論の新たな地平に向かって、本書が一つの問題提起になればと思います。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  http://www.chikyuza.net/
〔study385:110309〕