去る2017年11月10日に,私は王兵監督の香港-フランス合作映画「苦い銭」(2016)を試写で見た。中国南部の雲南省の若い人たちが、2200キロ離れた中国東部の浙江省湖州市へ出稼ぎに行く話である。試写の会場でもらったパンフレットによると、湖州市には、18000の縫製工場があり、各地方から来た30万人以上の労働者がそこで働いているという。労働者の数に対して「工場」の数が極度に多いのは、それが通常の工場ではなく、それらの「工場」のほとんどが、個人経営の小さな仕事場に過ぎないことを示している。出稼ぎ労働者は湖州市の人口の80%を占めているというから、この都市のもともとの人口は10万に満たなかったということになる。
実際、この映画で写されている「縫製工場」も,工場というより「作業所」といった感じであって、雑然とした室内に数台のミシンが並べられているにすぎない。出来高払いらしく、一日の労賃は手際のいい人は170元(3000円弱)だが、70元しか賃金がもらえない若い男は、能率が悪いといって解雇されてしまう。それも、たいへんな長時間労働のように見える。彼らが住んでいるアパートは、狭くて汚れている。もちろんエレベーターはない。中国の衣料産業が、地方出身の労働者たちの低賃金労働によって支えられていることが少しはわかる。われわれがユニクロなどの中国製衣料を安く入手できる理由の一端が見えてくる。
「苦い銭」は、2016年のヴェネチア映画祭で「脚本賞」を受賞したという。しかし、この映画は俳優に「演技」させて作った映画ではない。実在する人物の行動をそのまま撮った映画である。若い夫婦が派手に喧嘩する場面も「やらせ」ではなく、あったままを撮ったらしい。見ている側は、あの夫婦はあのあとどうなるのかと心配しないわけにはいかなくなる。そうした意味で、この映画はきわめて特別な作り方になっている。映画のなかの人物が、カメラマンに向かって声をかける場面さえある。
最近,私は映画のなかで写されている情景に特に関心を持つようになった。パキスタン映画「娘よ」では、パキスタン東北部の広大な大自然の姿をたっぷりと見ることができた。イタリア映画「はじまりの街」では、ポー河が流れる北イタリアのトリノの街がよく写されていた。カリウスマキの「希望のかなた」はヘルシンキが舞台で、わずかばかりではあるが,ヘルシンキの街を見せてくれた。「苦い銭」は、湖州市という、私がまったく知らない現代中国の都市の一角を写している。労働者たちが暮す汚いアパートの階段から見下ろすと、湖州市の雑然とした、ゴミが溢れている街の一角が見える。交通事故があって,救急車、パトカーがやってくる。非常に印象に残る湖州市の夜景である。
(2017年11月12日)
初出:「宇波彰現代哲学研究所」2017.11.12より許可を得て転載
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