映画『アイダよ、何処へ?』を観る(下)/スレブレニツァはアウシュヴィッツか?

著者: 岩田昌征 いわたまさゆき : 千葉大学名誉教授
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 この文脈において、わたしの個人的体験を想い起こす。以下にわたしの著書『ユーゴスラヴィア 多民族戦争の情報像 学者の冒険』(御茶の水書房、一九九九年)から関連箇所を引用紹介しよう。
︱︱八月十三日(日)の午後、……、戦争前は銀行員だったというインテリの焼き肉屋の御主人が「日本人も広島や長崎で虐殺された。しかし、現在、ムスリム人がヤスシ‐アカシに虐殺されている。日本に帰ったら、日本の人びとに『ヒロシマ、ナガサキ、ヤスシ‐アカシだ』と伝えてくれ」と興奮して、わたしに訴えた。︱︱四〇ページ
 一九九五年夏、スレブレニツァ虐殺事件の一か月後、わたし=岩田はスレブレニツァから六〇キロメートル、ボスニア・ムスリム人軍の本拠地トゥズラにいった。そこでの会話だ。
︱︱八月下旬にベオグラードに行って、そこで討論したムスリム知識人もまた、「ヤスシ‐アカシは戦争犯罪人だ」とさえ断言して、私を唖然とさせた。このように明石康特別代表を弾劾するムスリム人たちの言い分はこうである。「ヤスシ‐アカシは、話し合いとか交渉とか、そんなことばかり言って、NATOの空爆に対していつも消極的だった。それが結果的に侵略者セルビア人を利しているのだ。そして、とうとう七月中旬に東ボスニアの国連安全地帯スレブレニツァとジェパを陥落させ、三万人の一般市民たちをトゥズラへ追放し、数千人の成人男子を連行した。いまだに、これら数千人の男たちの行方は、不明だ。虐殺されたのだ。ヤスシ‐アカシがNATOの空爆を要請し、セルビア人勢力に打撃を与えておれば、スレブレニツァもジェパも陥落せず、ムスリム人も大量虐殺されなくてすんだはずだ。」︱︱四四ページ
 正直言って、上述の文章を書いた時点で、わたしはボスニア・セルビア人軍がかかる大量殺害を犯していたとは全く想像できなかった。死者の数が百単位を越えて千単位に飛躍すると、まさかと思ってしまったのである。

スレブレニツァ虐殺とは何か

 今日、セルビア共和国でもスルプスカ(=セルビア人)共和国でも、スレブレニツァ虐殺事件を「南京虐殺のまぼろし」流に否定することはない。認めている。ムスリム人の主張を完全に受け止めている人びとも多数いるが、事件の事実性を認めつつも、その歴史的・社会的・思想的意味付けと事件の規模に関して、異論を唱える人びともまた多数いる。
①ナチス・ドイツによるアウシュヴィッツのイメージを喚起させるジェノサイドGenocideとみるか。②犠牲者の数とされている八〇〇〇人をそのまま承認するか否か。そしてまた③同じスレブレニツァ地方のセルビア人地域の犠牲者をどう見るか。
 北米西欧の主導する「国際社会」の立場は明確である。①ジェノサイドである。②八〇〇〇人である。③無視する。
 ボスニア・ムスリム人の立場は、「国際社会」に等しい。
 セルビア共和国首都ベオグラードのセルビア・ヘルシンキ人権委員会は、完全に前二者と同じであり、たとえば、『スレブレニツァ 否認から承認へ』なる八〇〇余ページの資料を出版して、啓蒙に努力している。
 わたしの見解は、単純明快である。わたし=岩田は、スレブレニツァ虐殺と同規模のクラグイェヴァツ虐殺という戦争犯罪を知っている。クラグイェヴァツは、セルビアのシュマディア地方の中心都市、一九四一年十月二十一日に、ナチス・ドイツ軍は、セルビア人パルチザンとチェトニクの対独抵抗によるドイツ軍兵士犠牲に対するみせしめ報復として、クラグイェヴァツ市内のギムナジウムで授業中の生徒をはじめとして、一六歳から六〇歳の成年男子を狩り集め、大量射殺を実行した。犠牲者数は、七〇〇〇人から八〇〇〇人、奇しくもスレブレニツァと同じ八〇〇〇人と長く語られてきた。最近は、二七七八人、二七九四人となるべく確認された実数を使うようである。
 被害者の社会主義ユーゴスラヴィアも現在のセルビア共和国も、クラグイェヴァツ虐殺をジェノサイドGenocideと見なしたことはない。そして、スレブレニツァ虐殺をジェノサイドだと見たがる現代ドイツ人でさえ、クラグイェヴァツ虐殺をジェノサイド・カテゴリーに入れて、自分の祖父祖母たちが犯した最凶最悪最魔最禍犯罪の数を増やそうとはしないだろう。
 一九四八年にジェノサイド条約が締結されたとき、ジェノサイドと見なされていたのは、アウシュヴィッツ等のユダヤ人問題の悪魔的最終解決様式としてのジェノサイドであって、決してクラグイェヴァツ虐殺類似の、したがって、スレブレニツァ虐殺類似の戦争犯罪ではなかった。
 犠牲者の数が同じであっても、その社会的・歴史的意味は全く異なる。
 クラグイェヴァツは侵略軍と被占領地住民間の事件である。スレブレニツァは、同じ地域に長年共に生活してきた兄弟民族間の悲劇である。
 ただし、事件の計画性という点では、クラグイェヴァツ事件のほうがスレブレニツァ事件よりも勝る。ナチス・ドイツ司令官は、ドイツ兵一人の死に対し、セルビア人住民を五〇人、ないし一〇〇人殺すとパルチザンやチェトニク、そしてセルビア人社会に予告していたのであるから。それに対して、セルビア人軍がスレブレニツァへ侵行する作戦目的のなかに、事前にあのような大量殺害計画はなかった。「証拠が示すところによれば、スレブレニツァを陥落させることを主目的としたVRS(ボスニア・セルビア人軍:岩田)によるクリヴァヤ九五作戦の立案計画中、すべてのボシュニャク男性を殺害することは予定されていなかった。兵役年齢に達したすべてのボシュニャク男性を殺害するという決定は、この作戦実行の途中でなされたものである可能性が高い」(藤原広人「ICTYによる国際刑事捜査とスレブレニツァ」長有紀枝編著『スレブレニツァ・ジェノサイド 二五年目の教訓と課題』第二部五章、一四四ページ)。

スレブレニツァ虐殺についての調査状況

 二〇二一年八月二十四日にベオグラード・プレス・センターで「一九九二年から一九九五年の期間、スレブレニツァ地方のすべての民族の犠牲に関する独立国際調査委員会」の記者会見が開かれた。バニャルカのセルビア人共和国政府によって議会決議に基づいて任命された委員会である。二年余りの調査がイスラエル、ドイツ、イタリア、アメリカ、オーストリア、ナイジェリア、日本、そしてセルビアからの委員一〇名によってなされた。議長は、イスラエルのジェノサイド・ホロコースト専門研究者のギデオン‐グライフ教授。副議長は、日本人の立教大学教授長有紀枝であり、スレブレニツァ研究で東京大学より博士号を授与されている。調査結果は、一〇〇〇ページ余の報告書にまとめられたようである。
 結論は、①に関して、おぞましい犯罪が行なわれ、その責任者は、それによって法の裁きに服さねばならないが、犯罪自体は決してジェノサイドの性格を有していない。局所的ジェノサイドでもなく、総体的ジェノサイドでもない。②に関して八〇〇〇人のムスリム人が殺害されたとする根拠なし。一五〇〇人から三〇〇〇人のムスリム人兵士がさまざまの場所で捕虜となり殺害されたと見積もられる。ここでわたしなりに注をつける。クラグイェヴァツ犠牲者が純粋に一般市民であったのに対し、スレブレニツァ犠牲者の多くは兵士の捕虜であった。③に関しては独立国際委員会の名称に「スレブレニツァ地方のすべての民族の犠牲」とあるから、当然セルビア人側の犠牲者に関しても調査が行なわれたであろう。六月十一日にセルビア人共和国首都バニャルカで調査報告書が委任者に手交された。新聞報道によれば、一九九二‐一九九五年期にスレブレニツァ地方でボスニア・ムスリム人の犠牲者は最大限三五〇〇人、ボスニア・セルビア人のそれは二〇〇〇人余りと見積もられたと言う。そして、国際法廷は、前件の責任者セルビア人のラトコ‐ムラディッチ将軍にジェノサイド罪で終身刑を宣告した。後件の責任者ムスリム人のナセル‐オリチ将軍を証拠不十分で無罪放免としたのである。網吉的不公平。

希釈化されるアウシュヴィッツ

 イスラエル人議長は「ジェノサイドGenocide」、すなわちthe crime of crimes 最大最凶最悪最魔最禍の国際犯罪が国際的・国内的諸紛争の情報戦・宣伝戦の道具として乱用されて、その真実の深み重さ濃さが希釈されつつあることを心配している。ユダヤ人の目から見れば、アウシュヴィッツの歴史的意味を希釈拡散する手の込んだ歴史修正主義であろう。
 北米西欧の「国際社会」の方は、セルビア人側への攻勢を緩めていない。二〇二一年六月に、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに駐在する「国際社会」の代表、いわゆる上級代表ヴァレンティン‐インツコは、辞任の直前に「ジェノサイド否認と戦争犯罪讃美の禁止」法を自己権限で制定した。すなわち、北米西欧が誇る自由・人権・民主の名前で、スレブレニツァ・ジェノサイドに疑問をいだく言論を弾圧する法的根拠を提供したのである。

初出:新聞『思想運動』2022年1月1日号より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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