[映画紹介] 「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実」とインドネシア「9・30事件」を描いた「ルック・オブ・サイレンス」

 2015年4月29日、昭和天皇誕生日、日本時間では30日未明、ベトナム戦争終結から40年の日、安倍晋三首相は日本の首相としては初めて上下両院会議で演説をした。そこで、日米の一層の軍事協力をうたい、夏までには関連安保法制の成立を米議会に約束した。安保法制そのものの詳細はなお明らかにされておらず、国会で審議にさえかかっていないのに。日米安保強化は明らかに中国をターゲットにしたものである。中国が批判するように、なにやら戦後直後の冷戦期における共産主義封じ込め戦略を思い起こさせる。

 安倍演説は、彼が何度も練習を重ねたとしているように、気張ったものだった。しかし、アメリカではほとんど関心を呼ばなかった。かの地でのトップニュースは、東部ボルティモアの黒人暴動であった。演説そのものが日本軍「慰安婦」やアジア諸国などへの侵略に対する謝罪がなかったとする批判が中韓両政府からだされたことは当然だろう。

 なお、東部メリーランド州ボルティモアでの白人警官による黒人暴行死事件に抗議する暴動の余波は収まりそうにもない。昨年8月南部ミズーリ―州ファーガソンでの、丸腰の黒人少年を背後から白人警官が射殺した事件以来、全米で同様の白人警官による黒人の射殺事件や暴行死が相次いでいる。ボルティモアの事件は、警察に拘束された黒人青年が脊髄を損傷して死亡したというものである。青年の葬儀後、抗議行動は暴動に発展した。それは奴隷制の遺制がなお残る根の深い問題であり、アメリカという国の成り立ちに関わる深刻な課題である。あるボルティモア住民の証言。「大勢の警官は人種差別者だと思う。多くが白人至上主義者のクー・クックス・クランのメンバーだろう。警官になることで黒人を殺すライセンスを得たと思っているのだ」(ジャパン・タイムズ、15・4・30)。

 アメリカ人のこうした人種差別意識は、ベトナム戦争でもいかんなく発揮されている。ベトナム戦争を描いた「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争に真実(HEARTS & MINDS)」は1974年の記録映画、第47回(1975年)アカデミー賞最優秀長編記録映画賞をえている。監督・製作は、ピーター・ディヴィス。このほど、ベトナム戦争終結40年を記念して日本でも劇場公開されることとなった。日本もアメリカの後方支援と称して地球上どこにでも自衛隊が出かけていくようになった状況だからこそ、一見の価値はある。

 映画は様々な証言や取材映像、ニュースフィルム、戦意高揚映画の資料映像などを駆使して、「ベトナム戦争」の実像に迫ったものである。米国でも公開に当たっては様々な妨害もあったが、日本での劇場公開は当時見送られた。しかし、75年9月にNET(現テレビ朝日)がテレビ放映して大反響を呼んだ。そして、2010年ベトナム戦争関連の企画上映により東京都写真美術館ホールで初めて劇場公開された。

映画に登場するベトナム戦争に関係する米要人は以下。いずれも当時の肩書。故ジョン・F・ケネディ大統領、死後彼を継いだリンドン・ジョンソン大統領、リチャード・ニクソン大統領、クラーク・クリフォード国防長官、ウォルト・ロストウ国家安全保障担当補佐官、ジョン・フォスター・ダレス国務長官(アイゼンハワー政権)、J・ウィリアム・フルブライト上院外交委員長、ダニエル・エルズバーグ国防省アナリスト(秘密報告書「ペンタゴン・ペーパーズ」暴露)、ロバート・ケネディ司法長官(ケネディ政権、和平を訴え大統領選に立候補を表明するが暗殺)、ウィリアム・ウエストモーランド在ベトナム援助軍司令官、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム初代大統領、グエン・カーン南ベトナム将軍など。

なお、ベトナム戦争を指導したロバート・マクナマラ国防長官については、のちほど紹介する作品「ルック・オブ・サイレンス」の制作総指揮を務めたエロール・モリス監督による「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元国防長官の告白」(2003、アカデミー賞最優秀長編記録映画賞)がある。映画の中で、マクナマラはルメイ将軍とともに第二次戦争中の東京大空襲について得意げに話している。彼らは戦争に負ければ「戦争犯罪者」として告発されるだろうとも心情を吐露している。

彼ら米政府要人よりも、侵略された側のベトナムの人びと、特に米軍に家を焼き打ちされて途方に暮れる人びと、爆撃から逃げ惑う人々、ナパーム弾でやけどを負った少女が裸のままで逃げる姿など有名な場面が胸を打つ。ウィリアム・ウエストモーランド司令官は、「東洋人は命をあまり大切にしないようだ」と米軍がベトナム人を殺しまくっていることをこのように表現したが、人種差別意識丸出しである。米国では、アフガニスタンやイラク戦争が終わらず、中東地域やアフリカ大陸そしてアラビア半島にまで戦火が広がっている状況からも本作がリバイバル上映されている。

イラク戦争の実在の米軍狙撃手を描いたクリント・イーストウッド監督のヒット作「アメリカン・スナイパー」などは、母親や子どもを射殺する主人公が彼女らを「野蛮人」とののしるのを見ると、先住民を虐殺して土地を奪い、黒人奴隷の労働で国と富を築いた白人の「野蛮さ」を思わざるをえない。世界最古の文明の地を、石油がほしいためか、「大量殺戮兵器」を開発しているといううその理由をつけて侵略し、フセイン体制を破壊し、国そのものを崩壊させたアメリカ人の野蛮さ、侵略の罪深さを思わざるを得ない。

そして日本である。ベトナム戦争中、日本ではベトナムに平和を市民連合(ベ平連)など反対運動が起きている。ベトナム戦争反対運動は、アメリカばかりではなくヨーロッパなど世界中に広がっていたが、それらは日本と同じように若者の反乱と連動していた。

しかし、ベトナム戦争中、沖縄の米軍基地が出撃基地になっていた。そして、いま問題になっている普天間基地の代替え基地として日米政府が建設を進めている辺野古基地は、じつはベトナム戦争中の1966年に周辺に大規模基地として構想されていたことが明らかになった(東京新聞、15・4・26)。ベトナム戦争が終わって用済みになったはずなのに、いままた辺野古基地構想とは? こんどは、対中国前線基地にするつもりなのだろうか。

ベトナム戦争には、前段として、インドシナ半島のフランス植民地の独立運動がある。第二次大戦後、インドシナ半島でも独立を求める第一次インドシナ戦争が起き、結局宗主国フランスが敗れ、1954年ジュネーヴ協定により、ベトナムは南北に分断された。その北緯17度の軍事境界線を、米国は冷戦のなか東西陣営の境界線ととらえ、西側の南ベトナムを確保しようとしたのである。同時期、朝鮮戦争にも北緯38度線に軍事境界線が敷かれ、休戦ラインとして朝鮮半島をいまだに南北に分断している。

インドシナ半島の南のインドネシアもまた、独立闘争を戦い、オランダから独立した。

1955年4月、インドネシアのバンドンで第一回のアジア・アフリカ会議が開かれた。第二次大戦後独立を果たした、インドのネルー首相、インドネシアのスカルノ大統領、中華人民共和国・周恩来首相、エジプトのナセル大統領が中心になって開催された。会議には、第二次大戦後、英・仏・米・オランダなどの欧米帝国主義諸国の植民地支配から独立した、アジア・アフリカの29カ国が参加した。

 会議は歴史上初めて、非白人国家による国際会議となり、大いに注目された。そこでは、反帝国主義・反植民地主義・民族自決の原則、アメリカ(西側)とソ連(東側)のいずれにも属しない第三の立場を表明(ここから第三世界という言葉が出てくる)、米ソの対立を緩和する立場、「世界平和と協力の推進に関する宣言」が採択された。

日本も会議に招待され、アメリカの顔色をうかがいながらも、高崎達之助・経済審議庁長官が出席した。戦後初の国際会議出席、日本の国際社会への復帰ということと第三世界という歴史の新たな潮流に日本中が興奮した。戦争中のアジア侵略を非難されることも覚悟したが、日本の戦争が欧米列強の植民地支配からの解放のきっかけになった面を評価された。戦後日本の国際デビューとなったバンドン会議ではさらに、新生中国との対話のきっかけをつかむことができた、重要な会議でもあった。高崎はその後、中国との民間交流に努め、国交回復への地道な活動を続けたのであった。

なお、バンドン会議50年の2005年には小泉純一郎首相(当時)が出席し、中国での反日運動のさなか、95年の村山談話を継承する声明を発表している。バンドン会議から60年を記念する2015年の首脳会議には、安倍晋三首相が出席し、「国際紛争は平和的手段で解決する」という60年前に採択された原則を守りぬくと演説した。

バンドン会議では平和5原則、それを拡大した平和10原則が発表されたが、アジア・アフリカ会議はその後、開かれることは久しくなかった。

その原因のひとつとして、1965年9月30日に起きたインドネシアの政変がある。カリスマ的な指導者スカルノ大統領が失脚したのである。

その「9・30事件」の現在を描いたのが、映画「ルック・オブ・サイレンス」である。監督はジョシュア・オッペンハイマー、アメリカ生まれで、現在デンマークのコペンハーゲンを拠点に活動している。製作総指揮に前述のエロール・モリスと「アギーレ/神の怒り(1972)の監督ヴェルナー・ヘルツォークなど。本作を紹介する前に、前作「アクト・オブ・キリング」(2012)に触れなければならない。本作と対になった作品だからである。

「アクト・オブ・キリング」は、インドネシアの「9・30」事件の加害者に殺害の様子を演じさせる、というユニークな方法で注目された。

「9・30」事件とは、1965年、ベトナム戦争にアメリカが本格的に介入した年、9月30日深夜、インドネシアの首都ジャカルタで、スカルノ大統領の親衛隊の一部が軍事行動を開始し、10月1日未明までに陸軍高級将校6人を殺害した。それに対し、戦略予備軍司令官スハルト少将が首都を制圧し、軍事行動に呼応した共産主義団体(なお、インドネシア共産党はアジア最初の合法政党であり、中国共産党に次いだ党員を誇っていたが事件後非合法化)などを排除し、混乱に終止符を打った。そして同年10月から1966年3月ごろまでに、インドネシア全域、スマトラ・ジャワ・バリなどで、クーデターを起こしたとされる軍関係者や事件に関与したとされる共産主義者約50万人、中国系集団40万人ほどが虐殺されたとされる。20世紀最大の虐殺事件とされ、犠牲者は100~200万人ともいわれるが、正確な数は分かっていない。そしてスカルノは1966年3月大統領権限をスハルトに委譲し、インドネシアの政変劇は終わった。それ以降、インドネシアは、バンドン精神の植民地・帝国主義打倒から経済開発・開発独裁へと大転換した(映画の中ではグッドイヤーなど西側大企業の大規模なプランテーションが映し出される。事件の背景をうかがわせる)。ということから、スハルトの「闇のクーデター」説あるいは米国中央情報局(CIA)などの関与が噂されるが、事件の真相は闇の中である。なお、日本は事件以降、インドネシアに経済進出し、戦後の経済成長にきっかけをつかんだことも記しておかねばならない。

CIAは、「9・30事件報告書」を出し、ジャカルタを「クーデターに理想的な都市」とした。8年後の1973年9月11日、チリのアウグスト・ピノチェトによるクーデターを「オペレーション・ジャカルタ」と呼んだ。

アメリカの映画作家ジョシュア・オッペンハイマーは、2000年ころから、人権団体の依頼を受けて虐殺の被害者を取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、対象を加害者に変更した。北スマトラ州の都メダンで加害者たちを取材中、彼らが嬉々として過去の行為を再現してみせたのをきっかけに、殺人を好きな形で再現し映画にすることを提案した。彼らはあたかも映画スターのように当時の殺人の様子を詳細に演じていく。

「アクト・オブ・キリング」は公開されると大きな反響を呼んだが、インドネシアでは当初公開はできなかった。インターネットでは公開されたが。最終的には公開されたが。映画のインドネシア人スタッフは報復を恐れて匿名である。

日本での試写を観たスカルノの第3夫人であったデヴィ夫人は、「スカルノは共産主義だったわけでなく、当時のアメリカとロシアの勢力に対抗するべく、アメリカの基地を拒否し、アジア・アフリカなどの中立国家と第3の勢力を作ろうとしただけ。そのため、ホワイトハウスやペンタゴンに憎まれ、5回ほど暗殺をしかけられた。けれど神の加護か助かった。大虐殺に国連が全く動かなかったのは、国連がアメリカの影響下にあったことを裏付ける証拠」と訴えた(2014年3月25日)。

「アクト・オブ・キリング」は公開以来、世界で大きな反響を呼んだが、加害者が大手を振って権力中枢に食い込んでいる現状に対して、被害者は事件から半世紀、恐怖と沈黙を強いられている。彼ら・彼女らは半世紀、どのような思いで生きていたのか。監督のもう一つの課題であった。

2004年1月、殺人部隊の元リーダー2人が、北スマトラのヘビ川の川辺に監督を案内した。そこで彼らはいかにして、たった1か所の川辺で1万500人を殺害するのを助けたかを、嬉々として語った。カメラはその様子を撮り、記念撮影までした。彼らの犠牲者の中に、ラムリという青年がいた。ラムリは虐殺のシンボルであった。というのも彼の虐殺は多くの人びとにより目撃されていたから。ラムリの遺族たちは「政治的に清潔ではない」(つまり共産主義者)という烙印を押され、社会生活から排除され、事件後何十年も、軍当局から監視を受け、ゆすられ、貧困に追いやられただけでなく、虐殺のトラウマに苦しんでいる。

ラムリの死後生まれた弟のアディは、オッペンハイマー監督と出会い、彼から兄を殺害した加害者のインタビュー映像をみせてもらった。そして彼らが兄の殺害の様子を得意げに語る様子に大きな衝撃を受けた。母は、ラムリが命からがら家に逃げてきたのに、追手につかまり帰ってこなかったこと。そして、母は事件後生まれたアディをラムリの生まれ代わりと生きる支えにしてきたのだった。父はラムリの死にショックを受けたためか、重い認知症にかかり、母が介護している。しかも住んでいる村は加害者たちが支配している。ラムリの葬儀さえままならず、遺体が捨てられたという場所の近くに墓をひそかに建て、人目を忍んで墓参りをしている。

殺害の様子を語る映像を何度も何度も繰り返し見詰めるアディ。彼は監督に提案する。兄を殺した加害者に直接会って、その罪を認めさせたい。アディの提案に最初は反対していたオッペンハイマー監督も、アディの熱意に押され一緒に加害者たちを訪れる。

眼鏡技師として働くアディは、無料の視力検査をするという口実で加害者を訪れる。

視力をはかり、世間話をしながらだんだん話の核心に近づいていくアディ。殺人部隊「コマンド・アクシ」の一員でラムリを直接殺したイノン・シアはイスラム教徒である。彼は言う。イスラム教では人殺しは許されないが、自分の敵なら殺してもよい」とうそぶく。「共産主義者には信仰心がない」と虐殺が正当化されている。

アディには小学生の息子がいるが、学校では事件のことについて共産主義者が残酷で「悪」であると教えられている。

故人になってしまったが、イノン・シアとともにラムリに手をかけた「コマンド・アクシ」のリーダー、アミール・ハシンは行為が「正義」であったと、自分の殺害の様子をイラスト入りの本にまとめた。アミール・ハサンの遺族を彼の本を持って訪れると、母は殺人を知らなかった、とアディらの訪問に不快感を示す。しかし、監督の撮った映像には殺人の様子を語るハサンの傍らでほほ笑む姿が残されていた。殺人部隊の司令官、アミール・シアハーンは、「上官の命令に従っただけだ」とうそぶき、毎晩送られてくる「共産主義者」のリストにサインして間接的に600人ほどの虐殺を指示。「国際的な問題を解決した」、ほうびをもらいたいくらいだ、と。殺人部隊の書記長、M.Y.バスランは、その後政治家に転身し、今では犠牲者家族が多く住む地方議会の議長になっている。多数の共産主義者を虐殺したサムシルは、殺した中国人の生首を中国人に投げつけた、と語る。犠牲者の血を飲むと「イカれてしまわない」と信じている。母の弟、アディのおじは、65年共産主義者収容所で看守として働いていた。ラムリもそこに収容されていたが、結局見殺しにした。

映画はアディと加害者との息詰まる対決の場面が続くが、印象深いのは、繰り返し出てくる、ラムリ殺害のインタビュー映像を食い入るように見つめるアディの表情。それは悲しみに満ち、怒り、苦しみなどさまざまな葛藤をかかえたたとえようもない、まなざし。

「あなたはなぜ、兄を殺したのですか――」、その目は問いかける。

「ルック・オブ・サイレンス」は、ヴェネツィア国際映画祭で5部門を受賞するなど世界の映画祭で数多くの賞をえている。しかし特筆すべきはインドネシアでの反響である。インドネシアでのプレミア上映は、2014年11月に、国家人権委員会とジャカルタ芸術振興会の共催により国内最大の映画館で行われた。アディも質疑応答に登場し大きな拍手をえた。12月10日、国際人権デーに全国公開され、何万ものインドネシア人が数100か所の上映会に足を運んだ。メディアも大きく報じた。スハルトが民主化デモの中で失脚し、彼が死んで、民主化の流れが映画の上映を押した。このような好意的な反響に対して、上映の妨害や脅迫も行われ、上映中止に追い込まれたところもあった。

「アクト・オブ・キリング」は、インドネシアの民主化の流れの中で最終的には国内で上映されたが、映画の後味は悪い。加害者が町のチンピラや小悪人と言った風情で、しかも得々として殺害の様子を語るさまは観ていて感じのよいものではない。しかし、「ルック・オブ・サイレンス」は、映画の主人公ともいえるアディの何とも言えない悲しみをたたえたまなざしが、観る者の胸を揺さぶる。アディだけでなく100万とも200万ともいわれる虐殺の犠牲者の遺族の悲しみはいまだ癒されることはないだろう。映画は、6月末に日本公開が決まっている。「アクト・オブ・キリング」と合わせてみることを勧めたい。(終わり)

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