暇すぎるよりは

著者: 藤澤豊 ふじさわゆたか : ビジネス傭兵
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いつものように同僚と居酒屋で一杯やりながらたわいのない話。サラリーマンの情けなけなさ、話がどこにどう飛んだところで、いくらもしないうちに仕事がらみに戻ってしまう。そもそも仕事でなければ出会うこともなかった間柄、親しく話はしていても、私生活や社会意識には深入りしない。仕事を離れれば、これといった共通の関心などないから、仕事以外では記憶に残るような話も少ない。店を出て電車に乗れば、酔いが残っていたところで、さっきまで話していたことなど、ろくに覚えちゃいない。

仲間うちで代わり映えのしない話を繰り返して、何があるわけでもないのだが、考えるきっかけをみつけることもある。ある晩、暇過ぎるのと忙し過ぎるのとどっちがいいかという話になった。個人の志向や生き様の話しで、誰もはじめからどっちが正しいとか間違っているという話じゃないのは分かっている。それでも相手の気分をきにして、その場にいない同僚がどうのという話になる。名前を挙げては、あいつは不器用だから、なにもないのに忙しくしているだけだ。あいつは今トラブルにはまって、ばたばたしているけど、生まれながらの五時から男で、仕事で忙しい人生なんかまっぴらだと思っている……。

酒を飲みながらの世間話、何を話したところで、たいして意味のある結論なんかでてくるわけもない。話しに飽きたのも手伝って、どうでもいいところに落ち着いた。

「暇過ぎも忙し過ぎも、過労死やストレスによる自殺になるような、いき過ぎは勘弁して欲しい」

「過労死に至るような極端な状況を別とすれば、どのような状態を超えたら忙しい領域に入るのか、反対に暇な領域に入るのかという一線は劃せない。人それぞれの忙しすぎや暇すぎがあって、一律にどうのとはいえない」

「誰しもが勝ってに思っている丁度いい忙しさから、ちょっと暇な方に、あるいは忙しい方によってまでがいい」

何が結論かと思うが、そんな雑談からもいくつか面白いことを気づかされる。かなり暇な部類に属す人でも、自分自身を暇でしょうがないと思っている人、あるいはそれを認める人はいそういない。なかには、普通の人であれば暇な領域に入れてしかるべき業務内容と量なのに、故意にか、処理能力の故か、あるいはその両方のおかげで表面的には忙しい人の範疇に転がり込むのもいる。喩えて言えば、野球の守備でごくありふれたプレーででしかないものをファインプレーにしてしまうようなもので、これも努力と才能なのかもしれない。

次に、本人は忙しいと思っていて、業務で密接に関係する周囲の人からも確かに忙しいと認められていたとしても、業務で距離のある人たちからは必ずしもそうは思われないことが多い。距離のある人たちは、その人のお蔭でというのか、その人に世話になっている、よくしてもらっていれると思えば、その人が忙しく色々してくれているのだろうと勝ってに想像して、忙しい人なのだろうと思う。ところが、ここでちょっとした悲喜劇の可能性がある。業務に忙殺されて動いている人を忙しくしているのは業務で密接に関係している人たちで、そのなかでも机を並べているように物理的に近いとことにいる人たちであることが多い。物理的に近くにいるというだけで業務の優先順位が上がる。逆から見れば、業務上においても組織上でも、また物理的にも遠くに離れている人たちに関係する業務は後回しになりやすい。一国の独裁者でも、優先順位の決定に完全な自由裁量はない。ましてや普通の人にとって優先順位は自ら決めることではなく、業務上のあるいは個人的な何らかの影響というのか、しがらみによって決まるものでしかない。

ある組織内で近隣の業務遂行に忙殺されて、遠方の業務を後回しにすれば、遠方から見れば仕事をしない、暇なヤツとしか映らないこともある。遠方から見る人がそこそこの見識と能力を備えていれば、業務を後回しにした担当者の問題にすることはないのだが、公平に判断する必要最低限の見識と能力が備わっているはずと期待することは危険性にすぎる。

周囲の人たちは、その人がファインプレーをし続けて、ファインプレーに忙殺されるが故に普通のプレーをしそこなうのを見ている。普通それをその人の責任にしてはならないと考える良識ぐらいは持ち合わせている。ところが、多くの人たちは、普通であればファインプレーになってしまうのを楽々と普通のプレーにしてしまうプレーヤより、普通のプレーででしかないプレーをあたかもファインプレーにしてしまう(なってしまう)ヘタクソなプレーヤを高く評価しかねない。

他人の仕事を公平に評価できる人はいるようでなかなかいない。そこでは、暇なのに忙しく見せる術に長けたのが評価される。プロのプレーヤの仕事の評価はプロのプレーヤ、その経験か理解のある人にしかできない。ましてやプレーの経験もなければ知識もろくにない評論家のような立場の人たち(キャリア組み)にはできないし、してもらっちゃ迷惑だといいたいが、その程度の人が上司のことが多い。

こんなことを考えていくと、「士は己を知る者の為に死す」などという危ない思想に傾きかねない。そんなものは講談の世界までにしておいてくれと思う一方で、できるのものなら、一度は遭遇してみたいという気持ちもある。歯を食いしばってのファインプレーの連続は疲れるが、多くの人たちが程度の差はあれ、なんらかの「燃焼願望」を持っている。仕事に限らずなんらかのことで、暇すぎるよりは忙しいほうがいい。

身分保障という考えの薄いアメリカ系の会社では、忙しすぎて、もうこれ以上はというときですら、会社の都合でレイオフになることがある。ちょっと暇すぎないかと気がついたときはもう遅い。いくらもしないうちに、職探しで忙しくなる。

定型業務で日々が過ぎていく、ちょっとやそっとのことではレイオフにはならない日本の会社にいたら、見えることも違えば考えも違ってくるんだろうなと思う。

Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion8120:181030〕