書評 村上隆夫著『仮説法の倫理学』

 倫理学はその本来の役割を果たしてきたのだろうか。高度経済成長以降のこの数十年を見ても、沖縄をめぐる問題、ベトナム戦争との関わり、公害問題、社会格差と貧困、原発事故が代表事例である利便と安全との関係など、倫理学が発信すべき課題は実に多かった。だが倫理学はこれらの課題に有効に対応しえたのだろうか。加えて昨今の科学技術の急速な発展は、延命医療や生殖医学を飛躍的に進展させ、また情報技術の開発や情報機器の普及、他にもいわゆる金融工学によるマネーゲーム等々、多くの生活分野で従来の倫理学にとっての難問も加わり、いわゆる応用倫理学の必要性も不可欠な状況になった。環境倫理、生命倫理、情報倫理などである。

応用倫理に関する著作などを読むにつけ、私は常にある種の不満(すっきりしない後味)を必ずと言っていいほど感じたものである。それはどうやら現実の現象(たとえば脳死・臓器移植でも)に対しては、この応用倫理は科学技術の急速な進展を前にして、その倫理的課題についてはいわば適法性の域内に終始し、現状の容認・追認といった追随的傾向が目立つような気がするからである。そして現代を時代丸ごと解明して倫理的指針を指し示す独自の論理や思考が、いまだ未成立なのではとの印象を拭いえないのである。つまり応用倫理は固有の学問分野として確立したものとは言えないのではないか。

 それではなぜ倫理学が本来の役割を果たしえず、応用倫理学は固有の思考世界を構築できないのだろうか。こう思っているときに格好な著作に出会った。村上隆夫著『仮説法の倫理学』(春風社)である。飛散する瓦礫に謎めいた記号が記された不安感を禁じ得ない装丁と、「『悲劇の死』後の倫理学」、「『個体の死』を超えて」とのこれも謎めいた惹句、思わず手に取ってみた。

本書の前半は「芸術から科学への認識範型の移行」に見る西洋倫理学の変遷史であり、著者の広範な教養知識を駆使して、西洋の思考学問の変遷を緻密かつダイナミックに描き出す。古典古代において、真理とは直観によって理解された。この「明朗性」が論理思考の発展の過程で徐々についえ、人間の本質を芸術的に表現する悲劇も没落(「悲劇の死」)する閉塞的状況へと進んでいく。科学の認識範型への移行が完遂した画期は19世紀の中頃である。それは、イデアを感性的に表現しえなくなったとして、ヘーゲルが「芸術の終焉」を宣告した時代でもあった。このような状況下にあってニーチェは悲劇の精神の再興を試みる。20世紀に入ると、ルカーチやハイデッガーがやはり「芸術的な認識形態という範型に殉じようと」、それぞれ共産主義革命、ナチスの国民革命を選択し、「悲劇主義的」な闘いを展開することになる。この美学の政治への導入は失敗どころか、古代の英雄伝説同様に大災厄を伴う悲劇的帰結とならざるを得なかったと著者は解き明かしている。

いまだに美学と政治の混淆といえる悲劇主義が完全に清算しきれていない今日、現代倫理学が至った隘路とそこから抜け出す展望を、著者はプラグマティズムの祖パースに求める。本書後半はパースを俎上に挙げて、著者の独創的な考察が縦横に展開する。現代倫理学の課題は「共生と連帯のための倫理をつねに摸索していくこと」であるが、それには従来はあまり注目されなかったパースのアブダクション(仮説法)による思考法が、新たな倫理学の展開に強力な武器になるだろうと著者は考える。古代から演繹法的思考と帰納法的思考をベースに進めてきた西洋思想は、厳密性において優越してはいるものの、発展性に乏しい隘路へと陥らざるをえなかった。これに対してパースは仮説法を導入する。仮説法は「何らかの新しい考えを導入することのできる唯一の論理的手続きであって、直接に観察することの不可能な事柄もあえて推測する大胆さによって」、人間の思考に飛躍と発展をもたらす思考法である。著者はこれをポーがスタイルを確立した探偵小説(ここでは殺人という結果が、いかなる原因によって生じたかを遡及して仮説法的に思考する)と対比しながら解説していく。

またパースは、一見直観と思われるものも、実は過去の経験や蓄積を記号化して、仮説法を始め、演繹法や帰納法といった思考法を駆使した論理的な思考過程であるとして、直観を否定した。直観には「青空のような明朗性」があったが、この直観の否定が明朗性を消し去ると、その結果メランコリーに陥らざるをえない。そしてこのメランコリーこそ、科学の認識に基づく論理的思考を陰で支える通奏低音のように特色づけていると著者は主張する。パース自身はポーについて本格的に語ってはいないが、パースの愛読書であり同時代文学でもあるポーの恐怖小説に著者は着目する。迫りくる死の恐怖を前にして、「神の死」とともに芸術的慰めからも見放された(「悲劇の死」)絶望的な状況にもかかわらず、「冷静に冴えわたる思考」は保持されているメランコリーの気分を浮き彫りにしつつ著者は論を進めるが、見事というしかない。仮説法の美学的な側面にまで立ち入って光を当てたのは著者が初めてであろう。メランコリーは本書のキーワードでもあり、現代倫理学とその行方を考える際に、不可欠の概念になるに相違ない。

それでは現代のメランコリー状況に生きなければならない人間に必要な倫理学とは、どのようなものになるのだろうか。パースは倫理学それ自体の内容については詳論していない。パースの倫理学はいまだ「萌芽状態」の段階ではあるが、著者はパースを読み解くことで彼の倫理学に期待を寄せる。「仮説法にもとづく倫理学は、『科学の方法』にしたがって行われる倫理的な認識をその範型」とし、この「倫理的な認識こそはまさに本質的に『共同体』を前提し、『共同体』における討論と検証を通して」、「真理あるいは善に向うことを目指すような形態の認識に適したもの」だからである。これは「個体の死」を超えて、「各階層・各集団の共同作業としてのみ可能」になると著者は強調する。そこでは当然ながら「理性の方法」に依拠するので、「固執の方法」や「先天的方法」に特有の先入見や直観、結果を顧慮しない悲劇性は脱却することになる。つまり無意識的な習慣・慣習から意識的な思索や反省へと「パラダイム転換」がなされるからである。

孤立した個体ではなく、未来世代との共同体的かかわりを想起した時に、例えば世代間の倫理構築がなされれば倫理学の射程は大きく拡がるだろう。そして「個体の死」に直面せざるを得ない今日、今後の倫理学の進路にパースの倫理学の果たす役割は大きいだろう。著者はパースに倫理学再興の手掛りを発掘し当てたと言ってよいだろう。著者は本書において、「個体の死」を超えた今後の倫理学へのさらなる期待を、緻密かつ大きな説得力を持って力強く語りかける。私が倫理学に感じていた無力感や今日の応用倫理への不満に、一条の光明が差し込んだような気がする。

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