「死に赴かんとする者(モリトゥリ)」――本書の冒頭に掲げられたこの「モリトゥリ」は、これを現代経済学の一部になお根強い〈ホモ・エコノミクス〉仮説に擬えれば、差し詰めホモ・モルタリスということになるだろうか。本書にはことほど左様に「死」のイメージが溢れている。
2008年のリーマン・ショックの前後(本書Capitalisme et pulsion de mortの出版は2009
年)から、金融の投機、信用の膨張、異常な資本蓄積、社会的格差の偏在と拡大、〈自然〉破壊さらに〈絶対的貧困〉の深刻な蔓延など、ある種の“分岐”を深めつつある現代資本主義は、みづから抱え込む〈ホモ・モルタリス〉の〈生への意欲〉あるいは無意識の層に沈澱する〈死への衝動〉をいかにして制御しているのだろうか。制御しうるとすれば、グローバルに展開する資本主義はいかなる次元の統合メカニズムによってそれら〈生と死〉の「欲動」をシステム内在的に動員し配分しながら相対的な〈安定と危機〉を産みだしているのか。
本書はこの主題を、主としてフロイトの「死の欲動」論とケインズの「貨幣愛」モデルによって読み解こうとする。その際、この統合メカニズムが作動する社会的場面を貨幣のダイナミズムと資本蓄積の構造に定位する。本書によれば、「人類のあらゆる苦悩と欲動」を抱え込んだ貨幣によって、フロイトの言う「死の欲動を成長へと誘導し転移させること」に資本主義的蓄積の企てがあるからである。そのゆえにフロイトもケインズも、サディスティックな欲動の「代替物」としての貨幣欲望と幻想、「呪うべき黄金慾」(ミダス王神話)に示されるような神話的儀礼、象徴的供儀、宗教的観念、信仰教義などの文化形象に深く浸潤された、いわば“近代の宿痾”に向き合った人物だというのである。本書はその消息を、現代資本主義に孕まれる根源的な病理に即して解明しようと試みたものであるが、著者たちの姿勢の背後には危機の意識と焦燥とが疲労とともに色濃く滲み出ているといってよい。
かつて高須賀義博は「貨幣をどう捉えるかによって経済学の性格が左右される」とい
う趣旨のことを語ったことがある。この至言というべき顰みに倣えば、アダム・スミス以来このかたほとんどすべての経済学は、方法的にも論理構成においても、〈貨幣のプロブレマティック〉をめぐって展開してきたといってよい。フロイトにおける「エロスとタナトス」(N.ブラウン)の欲動論(「生と死の弁証法」)もケインズにおける「貨幣愛」と流動性選好=利子論(レント社会に巣くう「金利生活者の安楽死」論)も、両者が共有する貨幣―糞便図式、模倣欲望論、「群衆―市場」論などにおいて、資本主義体制それ自体の存続にとって要件たる〈貨幣幻想〉の形成と根拠をめぐって展開されているという意味で、本書もまた〈資本主義の道徳的社会病理〉に“棲息”する「社会の精神」と〈貨幣のプロブレマティック〉に対する一種の応答になっているといえる。
とはいえ、本書はそれを、新古典派や新自由主義にみられるようなホモ・エコノミクスの力学的選択行動を基軸に据えた競争的市場論(いわゆるグローバリズムはこの市場仮説の派生形態とみなしうる)に対応する伝統的な方法に即して論じるのではない。本書にとってホモ・モルタリスが織りなす、際限なきグローバリズムの致富衝動に狂奔する現代資本主義の魔術的な病理学的構造こそ、問われるべき問題なのである。フロイトの「無意識」に沈む「死の欲動」概念と暴力論が資本主義分析に援用されるのはそのためであろう。
だが、フロイトの精神分析における「死の欲動」(Todestrieb)はやっかいな論点である。「死の欲動」概念がフロイトの精神分析に一種の方法概念として導入された経緯については専門家の間でも必ずしも安定したものではない。が、ここでは、精神分析を専攻する立木康介氏によるフロイトの「死の欲動」概念にかんする一文を参照したいーー。
「死の欲動は外部に向けられると他者への攻撃性として顕れ、それを抑制しようとすると内部に引き戻されて超自我によって取り込まれ、超自我が自我を道徳的に締めつけるエネルギーになると、されます。そのとき、自我が超自我を前に感じる緊張あるいは決まりの悪さが『罪責感』です。自我が攻撃性を抑制すると、そのぶんのエネルギーを超自我が吸い取り、自我をますます締めつける。したがって、自我の罪責感もますます強くなる。フロイトは宗教がこの罪責感を利用して人々を支配することに憤っていました。」
(〈座談会〉「無意識の生成とゆくえ(2)-20世紀の『無意識』をめぐって」『思想』2013
年4月号)
ここにおいて、「死の欲動」概念と「他者への攻撃性」との関連をどのように理解すればよいのか――問題はこの点にあると思われる。フロイトは欲動を、生命体に内属する「衝動」であり、以前の状態を「回復」しようとする一種の有機的な弾性ないし慣性と規定する。この欲動が「退行」現象(たとえば「胎内回帰願望」)をひとつの契機として、生命なき無機物へと回帰するという〈死への回帰〉願望において内生化される。生を死に導こうと望む死の欲動とたえず生の更新へと向かい生を吹き込もうとする性・生の欲動との拮抗こそ、人間存在に内属する本源的な“アンビヴァレントな欲動”であり、この両価的な欲動の〈愛と憎〉をめぐる相剋において「対象の喪失」(たとえば「母の愛」の喪失)という苦悩と憎しみから、無機物の死へと回帰する死の欲動がサディズムの「破壊欲動」として“産み出される”。
本書によれば、自己の内部における「原初の無機的状態」へと回帰する死の欲動が自己の外部に向かうとき、他者や自然に対する「攻撃的行動」となるが、死の欲動は生の欲動の裡に棲み生の欲動とともに膨張する。だが、この死の欲動を制御する生の欲動の運動を本書は、他者への攻撃性としての死の欲動を先送りさせ迂回させるプロセスとして捉えようとする。そうしてこの生の欲動と死の欲動との相補的な拮抗を調整し回路づけるものがとりわけ近代の文化形式であり、この文化形式が一方では生の欲動を社会の秩序の形成に組み込み、他方では逆に死の攻撃的欲動を抑圧し排除する、あるいは先送りの回路のうちに吸収する。資本主義はそれ自体、破壊と暴力を内蔵し〈時間の搾取〉をこととする病理学的構造を有しているというわけである。
だが、フロイトのSpekulationに基づく精神分析における生―死の欲動理論を、制度化された現代資本主義の“客観的な”構造分析へと転轍する場面とはなんだろうか――貨幣が、それである。「資本主義は死を処理する社会形態ではない」という本書の立場に立てば、資本形式による蓄積はそれに見合う貨幣についての独自の文化形式を、つまりは「社会形態」を形成しなくてはならない。そしてこの〈貨幣的なもの〉をめぐる文化形象が、西欧精神史とキリスト教文化に汎通的な意識=観念とみられる〈贈与〉と「生の負債」―〈原罪〉(「罪責感」)であって、この形象が資本主義の精神を支えている。
現代資本主義を批判的に相対化しこれを再審に付すにあたって、ケインズの貨幣愛―利子の概念系がフロイトの死の欲動―暴力論と結合するのは、そのような資本主義の形態的構造においてであろう。この形態的構造は〈生活世界〉の根柢に根づく「呪うべき黄金慾」(Auri sacra fames)に象徴される、宗教意識や道徳観念の心的装置(dispositif)を契機とする共同主観的な幻想を自己の必然的な駆動力としているからである。そしてこの形態的構造の中心に、貨幣という形象が いわゆる第三項排除効果によって“経済的”主権として君臨する。
貨幣という主権的形象を、〈生の負債〉あるいはなにものかから贈られた〈生〉の贈与―負い目の表出として捉える思考は、ミダス王の「呪われた黄金慾」神話にも通底する死の欲動と肛門性愛―糞便図式に類似並行的なものである。フロイトが指摘しているように、幼児の糞便を愛する者への最初の「贈り物」とみなす心性は、贈与としての生に対する負債の観念と類比的な事態であり、しかもこの「負い目」=「罪」(Shuld)の観念はニーチェによれば、債権―債務関係に由来する「負債」(Shulden)であって、この「契約関係」はまた売買、交換、交易などの「根本形式」なのである。道徳的な負い目が負債という物質的な概念に媒介されて、苦しみや罪責感として生起する。債権―債務関係のあいだに生まれる「利子」(intérêt)は決済の有無に応じて報復―快楽図式に繋がっている。
だが、生の負債を贈与とするかぎり、この負い目=負債は死の欲動、つまり死への回帰を実際に果たす以外に完済されることはない。というよりも生の負債は定義上無際限なのであるから、未払いの罪責感として永劫に存続する。キリスト教、とりわけM.ルターが「生における死の支配」を主唱するとき、プロテスタンティズムはさらにこの本源的な罪責感を宗教意識として培養しこれを永続化させる。利子(懲利)を生む貨幣とこの貨幣を糞便=汚物とみなす心的装置が成立し、貨幣-利子図式が神学的な教義として忌避の対象とされる。本書も多くを負っているN.ブラウンの『エロスとタナトス』(Life gainst death,1959)はこの消息を細部に亙って伝えている。
1920年代に古代貨幣を研究した経緯をもつケインズの「貨幣愛」概念は、死にまつわるあらゆるエネルギーを吸収する「ミダスの精神」を体現する「金利生活者」の投機を駆動させるものであって、西欧キリスト教文化圏に見合った近代の貨幣幻想をめぐる心的装置の表現とみなしうる。それは近代における〈死〉をめぐる「公共精神の喪失」を代理的に担保する利子幻想に支えられているといってもよい。
周知のようにケインズの流動性選好―利子(率)の概念は、金融市場の当事者に対して将来への不安の意識を鎮静化させる保険プレミアムとされるが、本書によれば、ケインズの利子率は死を将来へと先送りする死の欲動の経済的指標にほかならない。金融―株式市場に向き合うホモ・モルタリスの愛好する貨幣愛には、苦悩と根源的な不確実性が無意識として沈澱している。株式市場はケインズの巧みな「美人投票」モデルが示すように、噂の狂気に反応する群衆としての「感染的な人間」が模倣欲望を通じて織りなす社会的装置であり、この装置は“個人的な”死の欲動がその都度常に「集団的で破壊的な欲動として凝集」する一種の「化学的化合物」にほかならない。だが、この社会的装置が死の欲動を、R.ジラールのいう他者の欲望を欲望する模倣欲望の排除効果によって吸収して成り立つとすれば、排除された第三項がなんであれ、それは死の欲動の「凝集」点にほかならない。〈権力〉はその意味で、本源的な死の欲動に深く浸潤された「社会的権力」(soziale Macht)とみなしうる余地もあるだろう。その貨幣概念を問わないとすれば、繰り返しゲームの理論における「世代重複」モデルも「リカードゥの中立性」命題も、また最近の「世襲資本主義」論も好意的にみれば、世俗化された時間の反復において生起する〈生と死〉のダイナミズムの事実的な一面を即自的に伝えているといえるかもしれない。だが、時間の概念はもとより「三位一体」(Trinité)の神学的図式の背後に隠された神の時間であった……。
現代世界を覆う市場の普遍化とグローバリゼーションは、ほとんどすべてを移転可能なモノとして処理する「絶対的な世俗のシステム」であり、このシステムにおいては抑圧されたリビドーと自他の殺害願望が浸潤し苦悩と罪責感が強迫観念とともにモノとして流通する。それは死の欲動と背中合わせの「快楽なき労働」がなにものかに向かって蠢く〈鬱型社会〉というべきものだろう――これが、本書のメッセージのひとつかと思われる。
しかし、本書の立論には重大な前提が施されている――現代貨幣つまり信用貨幣へと乗り移った「生の負債」-〈原罪〉仮説がそれである。この前提を一般化すれば、「際限なき蓄積と限りなき自然破壊」に基づく資本主義はいわば“虚構”の〈信用の体系〉という性格をもつことになる。反復の強制が支配する〈生活世界〉において「感染的な人間」は、みづからを貨幣幻想へと駆り立てることによって〈死〉を未来に先送りそれを現在の〈生〉である≪かのように≫、この〈信用の体系〉を生きる以外に為す術はない。本書によれば、「記憶」を欠く資本主義には、完済不能の「生の負債」―罪責感情の累積に基づく自己言及的な〈信用の体系〉を克服すべき手だては当面、見当たらない。1929年の歴史的経験のように貨幣が「あるがままのもの」として「暴力と死のヴェール」を剥きだしにする時を俟つか、どうかだ。だが、人間の原欲動(Urtrieb)に憑依された〈われわれ〉の貨幣=金融システムは、たとえば「グラス・スティーガル」法(1933年)の撤廃(1999年)によってさらに拍車をかけられて“強靭”である。本書のように“はじめに苦悩があり、エコノミーはこの苦悩とともに始まる”とすれば、ことは簡単ではない。〈信の構造〉として凝集する欲動そのものを脱構築させうべき「別様のものを思考すること」(de penser autre chose)――これを永続して企てる以外にないだろう。そしてそのための途はないわけではない。イレニズムを相対化したかにみえるコンドルセ、ケインズ、フロイトに期待を寄せる本書とは別に、資本主義の完成形態を資本―利子/土地-地代/労働―賃金の「三位一体」範式の成立に観たK.マルクスのFetischをめぐる思考は、なお参照すべきものと思われる。
初出;大坂産業大学経済論集 第20巻第1号(抜刷)2018.10より著者の許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
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