鎌田慧著『六ヶ所村の記録』上・下(岩波書店 1991)
この書物は、鎌田慧という類まれな異才ルポライターがおよそ20年の歳月を費やし、心血を注いで書きあげた貴重なルポルタージュである。今日の深刻な「福島原発事故」による大量被ばく問題発生と、それにもかかわらずまだ原発の稼働を継続したがっている政・官・財界人が多数いること。何故彼らが国民の意思を無視し、国土を焦土にしてまでこのように原発に固執するのか、この書はこの問題を鋭く暴きだし告発している。ぜひ大勢の方々に繙読していただきたいと願う。書評というつまみ食い程度ではとてもこの大作の概略をすら紹介することはできない。しかしこの書物へのイントロ位にはなりうるかもしれぬと考え、引用を多くすることで、あえて無謀な企てを実行することにした。
1.ことの発端は「新全総」計画にあった
青森県北部のむつ湾沿岸一帯(むつ小川原地区)が、国家的事業として大規模開発の候補地に挙げられるのは、1969年の「新全総」計画(新全国総合開発計画)によってである。時の内閣総理大臣は佐藤栄作であった。開発は、政・官・財の秘密裏の、しかもかなり綿密な計画の下、当初は様々なマヌーバー(幽霊)候補地による目くらましと、これまた計画内容の二転三転(その中には、アメリカ政府の意向を介しての転換もある)を繰り返しながら、進められた。土地の買収は、まだ計画の未発表段階から、三井不動産の系列会社などによる隠然たる(後には公然たる)土地の買い漁り、コロガシが行われ、また最初は非合法行為であったものが、後には「法改正」されて合法化され、そしてお決まりの脅しと暴力、札びら攻勢、挙句の果ては不正選挙による開発賛成派の長と議員の多数派確保、…によって締めくくられる。かつての「三井三池争議」で言われた「去るも地獄、残るも地獄」の修羅場がこの地で展開されているのである。先ずは「新全総」とはどんな計画だったのか?それに伴ってどういう政策が実施されたのか?を叙述した個所から見て行きたい。
「…新全総では、日本の工業生産水準を85年には5倍の規模になると推測し、鉄鋼が4倍、石油が5倍、石油化学が13倍と産出している。それが資本の自由化を迎え、国際競争力の強化を目指す日本資本主義の必須の課題であり、このために、大規模な港湾、広大な用地などの立地条件を満たした、比較的少数の地点に巨大なコンビナートを形成する、との方針が打ち出されている。遠隔地大規模立地である。…遠く離れたところに大規模な工場の建設。これを支えるのが、情報通信網、航空網、新幹線鉄道網、高速道路網など、新ネットワークの建設である。『中枢管理機能の集積と物的流通機構の体系化』。つまり、中央に集積された情報が地方のモノをコントロールする。新全総の思想とは、完ぺきな中枢管理主義である。そこでの『地方』とは、合理性、効率性によってのみ選別された『工場』と化す。」(上pp. 118-119)
かかる「新全総」計画(その後は様々に形を変えた「列島改造計画」に引き継がれることになる)に沿ってさまざまな政策が立案、実施される。そしてその都度、その土地の住民、長いことそこで生活の糧を得ている農民や漁民や林業従事者は、訳が分からないままに政・官・財のご都合主義に振り回され、文字通り彼らの生活そのものの破綻、生活の場所の喪失にまで追い込まれるのである。それは、かつての三里塚空港建設に絡む農民からの強引な土地収用問題、有明海の「ギロチン」建設に絡む問題、また今日の福島原発事故で現に起きている農民や漁民、牧畜業者などの悲劇、あるいは沖縄基地問題などともつながっている。
「巨大開発には国の農政が色濃く投影されている。70年から始まった減反が農業の先行きに影を落としている。『新全総』のプログラムによっても、約500万人の農業人口を半分に減らし、総労働力人口の中で、20%から10%にする方針が明らかにされている。そして減反政策は生産調整にその狙いがあるのではなく、水田を他目的に転用するため3年間に30万ヘクタール買いあげることにある、と70年3月、福田赳夫蔵相が語っている。…71年1月、同友会首脳と田中角栄幹事長など自民党三役の会合では、『下北半島など新工業立地で理想的なニュータウンづくりを進めるため、特別立法などで土地所有権の一部を制限する必要がある』との意見の一致を見た。買い上げる先買権を強化し、更に『緊急宅地化区域を指定して強制収容できるようにする』との根本構想を打ち出して、憲法29条に保証されている『私権』をも制限し、強制収容した土地を民間ディベロッパーに払い下げることを明らかにした。」(上pp.132-133)
「…買収された山林原野は登記されたが、畑や水田などの農地の売買は、農民以外では「農地法」に違反する。だから仮登記して所有権を押さえる方法がとられている。平沼に5人はいる不動産屋の手代である世話役は、カネを支払うときに、空白の領収書をもらって捺印させる。金額は後で記入する。例えば30万で買収しても、業者には50万の領収書を渡して20万の差額を懐に入れ、他に10万の手数料を受け取る。そのカネが村議選の資金となって、1票1万円、300万円もかけて当選したものもいる。」(上pp.18-19)
2.「新全総」計画推進の立役者たち―政・官・財一体の利益構造
こうして否応なしの法整備、住民無視の上からの政策の強制、そして土地からの追出しが行われる。著者鎌田慧は、この土地で百姓を営む人々が、戦後の混乱期に入植させられ、全くの原野であったこの地方の開拓に駆り立てられたこと、これらの人々の多くが戦中には、満州開拓団(実際には軍隊の盾にすぎなかった)に駆り立てられた経験をもつこと、また1936年の2.26事件に大きな影を落とすことになった東北農村の凶作時の悲劇をこの地域の農民たちの中にも経験している人たちがいたこと、やっと最近になって農業をやって食っていけるほどになってきたということ、などを細かく調べて紹介している。
こうした血と汗と涙で開拓してきた土地を、突然上から降ってわいたような「国策」という脅し文句で脅迫され、二束三文のはした金でもってニベもなく追い出される。以下、少し長くなるが、この間の事情を赤裸々に物語っている個所を引用しておきたい。
「1971年2月25日の午前、衆議院予算委員会第3分科会で、埼玉県出身の公明党議員である小川新一郎が、小豆色の薄いパンフレットを片手に政府を追及していた。『私が聞いているのは、昭和44年5月30日に(新全総が)閣議決定された以前、44年3月に、もうこういう、「むつ湾小川原湖大規模工業開発調査報告書、44年3月、日本工業立地センター」、こういうものが財界の手に渡っております。噂によると、これを何10万円でもいいからくれといった業者もあったそうです。どうして44年3月に、閣議決定されない以前にこういうものが出来上がってしまうのですか』…小川議員は矛先を転じた。計画が漏れると土地の収用に困る、というが、日本工業立地センターの飯島貞一常務理事は、通産省の『大規模工業基地の考え方及び開発方式についての中間答申』のメンバーであり、通産大臣の諮問機関である産業構造審議会のメンバーであって、『計画はツーツー』、新全総決定の前にどんどん買い占めが行われている、と追及を続けた。『そこで具体的な例を一つ上げますと、地元民は今どれくらいの土地を登記がえしているかご存知ですか』岡部局長(総合開発局長の岡部保)が答えた。『詳細は存じません』。小川が続けた。『だから困るのです。私が、これは青森県で調べたところによると、昭和45年10月現在で約3000ヘクタールの登記がえがこの地点において行われている。ところがその買収者は不明であるという答弁が来ている。国及び県は用地の買収をおこなっておりません。昭和45年の10月現在、一坪も買っていないのです。その時点で3000ヘクタールの大規模のものを、これは私、名前をいわないけれども、東京のM不動産とか、何とか不動産という大会社が行ってどんどん買いまくっている。やったってそれもいいんですよ。そういう利にさとい企業家が、あの下北半島の荒れ地を坪40円で買っているじゃないですか』…『今勝手に買い占めをやっている大企業の不動産会社の社長が、むつ小川原開発KKの中に設立発起人になって入っているじゃありませんか。入っていませんか』岡部総合開発局長が答弁に立った。『どうもそういう会社のあれか存じませんが、確かに発起人の中に大手の不動産業の社長が入っておられることは事実でございます』…『むつ小川原開発株式会社』が経団連で設立総会を開いたのは、それから一カ月後である。『新株式発行目論見書』によれば、会社の目的は『土地の取得、造成、分譲』などである。…発起人には、日本企業の代表とも言える55名が名を連ねている。発起人総代は、植村甲午郎経団連会長であり、蘆原義重関経連会長、木川田一隆経済同友会会長、永野重雄日本商工会議所会頭をはじめとして、財界団体のトップが網羅されている。(評者注:ここでは省略したが、発起人に江戸英雄:不動産協会理事長・三井不動産社長が名を連ねている)
…初代社長には佐藤栄作首相と旧五高時代の友人である安藤豊禄小野田セメント相談役(経団連国土開発委員長)が決まった。副社長に阿部陽一麻生セメント取締役(東京支店長)、専務に中尾博之元大蔵省理財局長が就任…。」(上pp.25-31)
「…石油公団が、「むつ小川原開発」から買収した価格は、240ヘクタールで340億円だった。これは坪当たり4万6800円で、不動産屋が住民から買収した価格の30倍以上に相当する。先ず、ダミーが儲け、その本家の不動産屋が儲け、そして開発会社が儲ける、公然たる地上げの図式である。」(下p.27)
3.中央の利益は地方と住民の犠牲の上に成り立つ―「開発難民」「原発難民」の排出
上に引用したことからわかるように、地域住民(農・漁民たち)はもとより、野党議員も(?)、それから肝心の当該地域の行政担当者たち(県や市や町、村の行政担当者たち)も何も相談されず、何一つ知らされないまま、一切が既定の路線として進められている。まさに福島第一原発事故後にとられた対応(被災当事者たちには何一つ正確な情報は知らせないまま、国家や東電などによって事故の犠牲に供される)と同じである。一部のある程度まとまった金を握った旧住民、また、新たに他から移り住んだ新住民たちのためには、反対意見を懐柔するためか、この辺りには全く不釣り合いなほどの巨大な施設が開発会社や国家の援助によって次々に建てられ、あたかも「危険手当」のように供与される。しかし、その一方で、わずかな金で土地を追い出された農民たちの生活はいかようなものであろうか。
「…確かに、低生産性と低所得は、そのまま離農・離村の条件を形成しやすいのも事実だが、その一方では、現在の土地と住居があるからこそ、ようやく生活が成立しえているという関係にある。例えば、地代も、家賃も無料で、狭い土地で耕作したものを食料にして自活している人が、その狭隘な土地を売り払ったとしても、手にする金額はわずかなものでしかないし、周辺の地価が日ごとに高騰している今、その零細な補償金で新たな土地と家屋を購入するのは難しい。さほどの転業資金にもなりえない。六ヶ所村2400戸のうち、農業人口は53%で、残りの人たちはたいして土地を所有していない。彼らが土地から追い出された後、どこで今までの最低生活が保証されるか。それが寺下村長の開発批判の根底にある。…中高年層はむしろ労働力としては相対的に過剰で、彼らは低賃金構造の底辺に落ち込むだけにすぎない。新鋭オートメ工場は中高年を雇用する必要はないし、都市の勤労者の生活もまた、喧伝されるようには豊かなものでないと誰も教えない。」(上pp.161-162)
最近『原発難民』という言葉が良く使われている。この「むつ小川原開発」こそが、「開発難民」「六ヶ所村原発(核廃棄施設)難民」を大量に排出することになった元祖とも言える。以上にざっと見てきた事柄を踏まえながら、今度は「反対運動」との関連からこの問題の深部に迫って行きたいと思う。「反対運動」はいかにして切り崩されてきたのか?当初、反対運動の先頭に立っていた人たちが無残にも切り崩されていく姿に、この問題が抱える悲惨さが最も鮮明に映し出されているのであるが、ここでは一々を追うのではなく、彼らがどういう状況下に立たされて行ったかに焦点を当ててみてみたいと思う。
4.「出稼ぎの解消は農民の悲願」―農政の貧困、社・共の無力化、そして農民の悲劇
「反対運動」を組織することの困難さにはいくつかの要因が挙げられる。その一つは、「出稼ぎ労働の解消」ということであろう。農閑期に入った農家の若い男衆が、家族と離れて都会の季節労働者として、あるいは北海道のにしん、カニ漁の手伝いとして出払ってしまう。このような出稼ぎ労働を何とか解消したいというのが、農家の長年の懸案である。これは明らかに国家の農業政策の遅れ、貧弱さを表わしているのであるが、開発計画はそこに付け込んでくる。大規模な工業コンビナートの建設によって、出稼ぎは解消し、地元で家族と共に暮らしながら、コンビナートで働くことができるではないか、というまことしやかな甘い誘惑が当人にも家族にも囁かれる。「だから土地を売って協力しろ」と。「『開発』の利益にあやかりたいのは、有力者の村議ばかりでなく、一般村民もまた同じであ」る(上p.253)。甘い囁きが通じない者に対しては、「国策」なのだから、いくら抵抗しても最後は強制的に立ち退かされることになるぞという恫喝がなされる。
更に土地買い占めの不動産会社は、若い働き盛りの男衆、一家の大黒柱がいない頃を狙ってやってくる。何も知らない年寄りや嫁が狙われる。ハンコをもってこさせて盲判をつかせるのである。こういう卑劣なやり方が繰り返される。しかも「開発」という大義名分の前に社、共は完全に無力化されている。
「…3か月前の4月16日、青森放送が主催した各党代表者(県会議員クラス)のテレビ討論会で、社会党を代表した関晴正書記長は、県教育庁が土地買収会社である『むつ小川原開発会社』の役員として派遣され、県も既に六億円の資金を投入しているのを『県庁が不動産会社になっている』と批判しながらも、『住民本位の開発を』と主張し、開発自体には反対しなかった。また公明党の浅利稔議員は、『地元民のことを真剣に考えた。住民のための開発』を主張し、共産党の大塚英五郎議員は、当初、知事が議会で表明したような、土地を提供した農民に会社の株をもたせたりして、利益を地元に還元させるという案は国から否定されてしまったではないか、と批判したものの、『共産党は竹内知事の尻を押して、資本にわがままをさせないよう援助する』と発言した。社会党は開発を進める知事を『監視する』と表現し、共産党は『援助する』と語っただけだった。どちらも不安と不満で動揺している農民や漁民の中に入って、大衆的な反対運動を組織する姿勢を欠いている点では全く同じだった。『開発』は農業県から工業先進県へ脱皮する一大チャンスであり、家族と離れて暮らす出稼ぎの解消は農家の悲願というべきものである。だから、革新も開発幻想から脱却することはできなかった。」(上pp.134-135)
その結果はどうだったのか、農家の悲願であった「出稼ぎ労働」は最終的に解消されたのであろうか?残念ながら否である。それどころかもっとひどい状態におかれることになっている。先ごろのテレビで、福島の農家の人が、放射能被害で農作業もできず、また収穫した農作物も販売できずに、ついに自分たちの田畑を放置したままで元の家にとどまる模様を放映していた。彼らは今度はそこで、家族離散の運命に追い込まれることになる。若い嫁は幼子を連れて遠い親せきを頼りに出て行く、息子はなんとか農作業を続けるための職場を探すと言い、老父は都会に出稼ぎに出ると言い、老母も遠距離の町に通って働き場所を探すと言う。このままでは食っていけないからである。それでも目指す仕事が見つかればまだよいであろうが、…。『今更ながら原発を恨めしく思う』と。以下にその先駆的な経験を読むことができる。
「『昔は男たちが出稼ぎに行っても、女たちは家に残って畑に出たりして留守を守っていたんですな。ところが今は、男たちの出稼ぎの期間は長くなってしまって、女も八戸までも働きに出たりしてます。この新住区の家は見かけは立派でも、生活保護をもらっているうちもあるし、家を手放して出て行った人もあるんです』寺下さんは憮然としていた。開発が進めば三十万都市ができる。工場で働いたり、自分の店をもったりして生活できる、などと宣伝されたが、結局工場は来なかった。それでも、新しい家は電化され、トイレも浄化槽式の水洗になって光熱費がかさむ。確かに都会並の生活様式となったが、かつてのようには家族一緒に生活できなくなった、それが寺下さんの批判である。『ウソ、ゴマかしのむつ小川原巨大開発反対』寺下さんの自宅の前に大きな看板が立っている…」(下pp.126-127)
「貧乏から脱出して都会並の生活へと浮足立った村民の夢」(上p.253)は、ある瞬間から絶望へと反転したのである。
5.中央の陽動作戦に引っ掛かる地元の日和見
「反対運動」がなかなか根付かない別の原因と思われるものを鎌田は次のように指摘し、批判する。
「私はこれまで、至る所で、『プランがはっきりしていないから、対応のしようがない』という意見を数多く聞いた。『はっきりしないものには反対のしようがない』というのであるが、この一見もっともらしい意見は、反対運動を決定的にたち遅らせている。…『県民のための開発』を知事が唱えている以上、その計画内容を地元に明らかにして、住民の納得を得るのが当然である。自治体としての六ヶ所村に今なお何の説明もないのは、中央の密室で作成されたこの開発の本質を物語っている。計画が明らかにされないのを理由に、『計画発表を待ってから態度を決める』とするのは日和見というものであって、開発のまな板に載せられてなお無抵抗なのと同じである。発表された時には、事態は半ば終わっていよう。」(上pp.162-163)
ここでは政・官・財の撹乱策が一定の成功を収めたともいえよう。ところが、79年2月に衆院本会議で原子力等規制法の改正案が通過した後、民間初の核燃料再処理会社が設立され、「九州に工場有力」と「朝日新聞」がその年の暮れに報道した途端に徳之島の反対運動が再組織されることになった(それまでも、徳之島はダミー候補としてたびたびその名前をあげられていた)。「徳之島では小学校の体育館に1500人(総人口3万6000人)を集めて総決起集会が開かれ、署名運動が始まり、町議会、県議会ともに建設反対を決議した。」こういう別の事例も現に在ったからである。
6.荒れる地元―地元社会の崩壊
東日本大震災の現地をボランティアで駆け回っている友人によれば、現地の子供たちが荒れていると言う。ある意味で当然のことであろう。戦後に、いわゆる「戦災孤児」などが浮浪児化して大荒れに荒れた時代があったが、それと同じである(「震災孤児」)。子供たちは自分たちがおかれた立場を敏感に感じ取る。大人の社会が汚物まみれになっていること、卑劣な行為が日常茶飯事になっていること、法と秩序を守るべき立場のものが、率先して違法行為に走り、無法に力を貸していること、これらのことが子供の世界に反映しているのである。
「『学校のガラスは入れ替えれば直るけど、村が壊れたのは治るわけねえ』坂井さんは腹立たしそうに言った。再処理工場に反対のものは、村の土木仕事や農協の野菜選別の仕事などには雇われない。進出してきた縫製工場にも採用されない。役場の職員で遠くの部落に配転された人もいる。暮れの村長選挙では、古川村長が四選されたが、反対派は票を伸ばした。泊部落は、反対運動の拠点である。部落を二分する対立と憎悪、そして『買収』のうわさなどが、子供の教育にいいはずはない。まして、坂井さんの言うように、村長と村議が率先して村と子供の未来を破壊しているのだから。」(下p.174)
7.「開発計画」のご都合主義的変更と「核廃棄物リサイクル工場」の建設に到るまで
この地域の「開発計画」が二転三転していることは既にふれた。実際に「新全総」が打ち出されて以来、最初は、石油コンビナートや石油化学など石油大量消費の工業開発が唱えられた。その後「一転してオイルショックとなって大規模開発の思想が崩壊すると、知らぬ顔の半兵衛を決め込んで8年間も無策のままに放り出していた。そして、挙句の果てに、戦争に備えての備蓄基地、石油時代の悪夢のツケが、この村に押し付けられたのである。」石油備蓄基地構想(「むつ小川原石油備蓄株式会社」)である。そして、3度目は…全く地元民が予想もしなかった「核燃料廃棄物」の押し付けであった。
「電気事業連合会(電事連)が、青森県に対して、核燃料サイクル基地の立地を正式に要請したのは、84年4月20日だった。青森駅から車で10分ほどの古いホテルにやってきたのは、平岩外四会長、大垣忠雄副会長、玉川敏雄東北電力社長などで、使用済み核燃料の再処理工場、ウラン濃縮、低レベル放射性廃棄物の貯蔵施設など、『三点セット』を立地したい、と北村知事に申し入れた。それは二日前に行われた、九電力社長会の決定事項であった。」(下p. 72)
8.「国家的欺罔」=核廃棄物再処理工場と「反対運動」の昂揚
鷹架沼の漁業権をめぐる六ヶ所村海水漁協への高額の補償金とその配分の不明朗性など、もはやそれらの一々の事例をこの書評の中で紹介することもないであろう。詳細はぜひ本書に直接あたっていただきたい。著者鎌田慧は、本書の結びとして次の点を指摘し、将来に向けて強く警告している。
「『むつ小川原開発』は、財界主流の経団連ばかりか、他ならぬ政府機関が介在した『国家的事業』だったから、開発から核廃棄物への突然の『計画変更』は、『国家的欺罔』とも呼べる。」(下p.284)
「核廃棄物再処理工場、ウラン濃縮工場、核廃棄物貯蔵施設は、尾駮沼(おぶちぬま)をはさんだ形で計画されている。この地盤の軟弱な地帯に活断層が走っていて、深層地下水が汚染され、生活用水が打撃を受ける、と地質学者の生越忠和光大学教授などから指摘されている。それでも強引に工事が進められている。素人目に見ても、沼沢地に重量があって海水に弱いコンクリート構造物をつくり、その中に危険物を封じ込める愚かさが判る。
89年4月9日、尾駮浜で、寒風をついて開かれた『反核燃全国集会』は、全国の市民団体や労働者など参加者は1万人を超え、青森県では未曾有の大集会となった。チェルノブイリ大事故以来の原発の恐怖が、ようやく最も危険な核廃棄物再処理工場に向かうようになったのである。この日は、集会の後、核燃施設の予定地までデモ行進し、フェンスを取り囲む『人間の鎖』がつくられた。『むつ小川原開発』から20年にして、ようやく六ヶ所村が全国的な課題になったことに私の感慨があった。開発反対闘争が敗北した後に『核燃』が押し込まれ、それから5年目にして、ようやく全国的に反対の世論が沸き起こってきたのである。」(下pp.272-273)
今、この指摘が現実なものとなり「福島原発事故」となって現れている。我々は今度こそ、我々の実存をかけた問い(それは文字通り「生きるか死ぬか」であり、将来にわたってこの民族の子孫に禍根を残すか否かを問うものである)を真剣に自己に向けて問いかける必要があるだろう。そしてこの問いは、同時に自己を現在させている社会に向けた問いでなければならないし、世界の中での日本のあり方の問い返しでなければならない。決して「日本の破滅、世界の迷惑」になってはならないからである。マルクスがどこかで書いているが、ラディカルとは物事を根源的に問うことに由来する。今我々に突き付けられている課題は、「福島原発事故」の対症療法ではなく、自分たちの利益追求のためには大勢の国民の生命や生活の犠牲すら厭わない者たちで構成されているこの社会の構造を根底から(ラディカルに)変革することではないだろうか。このことをこの書は怒りを込めて強く主張しているのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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