書評 笠原英彦『歴代天皇総覧』(中公新書2001年初版、2018年1月29版)
札幌の書店で『歴代天皇総覧』(中公新書2001年初版、2018年1月29版)という本を見かけた。普通なら手に取りもしない類の本だが、29版というその発行部数に驚き、またその書店の同じ本棚に『歴代天皇事典』(PHP選書)なるものもあったので、俄然興味が湧いてきたのである。「なぜこの類の本が今こんなに売れているのか」と。
もちろん、昨今の「天皇退位・譲位」問題の影響が大きいのだろう。どこの書店でも天皇関係の本が溢れんばかりである。だが、それにしても「歴代天皇」とは・・・。
ということで、あらためてこの『歴代天皇総覧』を購入し著者紹介の欄を見て驚いた。著者の笠原英彦氏の専門は「日本政治史」なのである。つまり、同書は、ただ「天皇」という語句だけが共通の、多数の分野(歴史学、国文学、神話学、政治学など)にまたがる内容にもかかわらず、「日本政治史」という特定分野の専門家が書いたものなのである。
当然、私のみならず誰しも「特定の分野の専門家がこんな広範囲の内容のものが書けるのか」と思うに違いない。これが同書に対する私の第1の疑問になった。
しかも、同書では『記・紀』の所謂「欠史8代」(その事績については何も記述されていない8人の神話的天皇)も取り上げている。当然「このような神話的天皇に関する記述は学問的意味を持つのか」という疑問が湧いてくるだろう。これが私の第2の疑問になった。
では、同書のオリジナリティはどうだろうか。個性の強い天皇、すなわち著者のオリジナリナルな観点が打ち出しやすい天皇である「後鳥羽」と「後醍醐」の一節を見てみよう。結論から先に言うとオリジナリナルな観点は「ほとんどない」。「承久の乱」と「倒幕―建武新政」の事実経過だけが書かれているにすぎないのである。また、「南北朝」についても、南朝を正式な系統として、北朝は「北朝第〇代」というように別枠で記述しているのである。オリジナリナルな観点どころか、戦前の「吉野朝廷」という表現に近いところまで後退しているとさえ言える。「同書にオリジナリティはあるのか」―これが私の第3の疑問である。
まとめて言えば、同書は、「①著者の専門をはるかに超える広範すぎる内容、②学問的な意味のないとことさえ取り上げている、③オリジナリティがない」という類の本だということになる。別の角度から見ると誰でもコピペで書ける内容の本だとも言える。
だが、私は、以上の欠陥は著者個人だけにその責を負わせるべきではないと思う。中央公論社の当初の企画にこそ問題があったのだと思うのである。
つまり、ある程度知的水準の高い読者を想定している中公新書の性格を前提として、「専門性はどこまで必要なのか」、「著者は一人に任せるのか」、「オリジナリティはどの程度必要なのか」などを検討せず、天皇関係の書物がブームであるという理由だけで安易にこの企画にゴーサインを出したところに問題があったのではないだろうか。
さらに言うならば、中央公論社自身は否定するだろうが、「欠史8代」という意味のない題材や「北朝第○代」という表現のように、戦前の皇国史観に無意識のうちに後退している編集姿勢は自戒すべきところであろう。
29版という数値を見ると結構売れているのだろう。ビジネスとしては成功したわけである。しかし、出版業とは「売れれば勝ち」という業界ではあるまい。
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