書評の書評―『ラカン的思考』に対する玉崎氏の書評への私見

 

アドルフ・ヴェルフリの絵の展覧会を見た後で、滝平二郎のきりえを見たときに抱く安心感という問題について考えてみて欲しい。ヴェルフリの作品だけではなくアール・ブリュットの展覧会に行くと、いつもとても疲れる。それだけではなく言い知れぬ不吉さも感じる。だが、眼差しの不安とでも形容できるこの感情を昇華させてくれる絵が存在する。それが滝平二郎の作成したきりえのような絵だ。滝平二郎のきりえでなくても、ピロスマニの絵でも同じであろう。しかしその順番が逆であったら?つまりは、滝平のきりえの展覧会の後にヴェルフリの絵を見たらどうだろうか。問題は眼差しに対して暴力的な絵がある一方で、眼差しを抱擁するような絵があり、この異なる二種類のジャンルの絵はわれわれの視覚にまったく異なる効果をもたらすということである。

私がここで書きたいことは「書評は誰のために書くものだろうか」という問題である。直接的にはもちろん玉崎氏によって書かれた宇波彰氏の『ラカン的思考』(2017年2月に作品社より発刊) への書評 (宇波彰現代哲学研究所ブログ2017年6月18日掲載) に対する反論、批判、抗議である。ヴェルフリと滝平の絵に関するメタファーはその内容の事前告知であるが、この書評へのコメントにおいては以下の三点について語っていきたいと思っている。一点目はエクリチュールの問題である。この問題においてはラカンのエクリチュールと『ラカン的思考』の著者である宇波氏のものと玉崎氏の書評で用いられたものを比較していく。二点目は玉崎氏の選択したテーマの問題である。『ラカン的思考』においてはさまざまな問題設定がなされているが、書評の中で検討されている問題はその一部分である。書評においてとくに中心的に語られている何点かの問題を取り上げ、それに対する玉崎氏の解釈の仕方について考察していく。三点目は最初の探究課題と二番目の探究課題とを総合化することによる論評である。総合化という作業を通して、このコメントの主要探究課題である書評の持つ対話性という問題について検討していく。

 

エクリチュールの問題

ラカンのテクストの内容は難解であるとよく言われるが、ラカンのエクリチュールは決して韜晦でも、常軌を逸したものでもなく、至ってシンプルなものであるという印象を私は持っている。ラカンのテクストの難解さは読み手に知識がなければ、ラカンが提示した問題を理解できないという点にあるように思われるのだ。脚注が欲しいところにまったく脚注がなく、提示された問題を一つ一つ調べ解読していかなければ、それが何を示しているのかが理解できない点が問題となっていると考えられるのだ。もちろん、サントーム (sinthome) のような新造語  (néologisme) や $ のようなマテーム (mathème) の多用が見られるが、そうした用語や記号は必ず何らかの概念説明があった後で語られている。それゆえエクリチュールのレベルにおいて、ラカンの書き方は晦渋でも煩雑でもなく、非常に簡潔したものである。また教育的な側面から見ても、他者との対話的関係を前提としたものとして展開されていると述べ得る。

『ラカン的思考』で用いられているエクリチュールも難解なものではない。ラカンの複雑に絡み合った問題設定の結び目を論証的に解きほぐし、われわれをラカンとの対話の方向へと真っすぐに導いてくれる (バフチンの考えに従えばこうした対話性こそが理解というものだが、この点に関しては後述する) 書き方である。宇波氏自身もラカンのテクストと対決し、ラカンを飲み込もうとするのではなく、ラカンとの対話を試みようとしていることを明言している。ラカンとだけではない。この本に登場するフロイト、パース、ベンヤミン、アルチュセール、デリダ、ジジェク、アガンベン、ディディ=ユベルマンといった思想家との対話を試みている。ベンヤミンであればそれを星座 (Konstellation) の構築と言うであろう。クリステヴァの用語を使えば間テクスト性 (intertextualité) の確立である。長年対話問題の研究を行っているフランスの言語学者フレデリック・フランソワはセミネールの中で、「対話展開の中で同じ言葉が繰り返されて話されても、二度目のものの意味は一度目のものの意味とは同じではない」と述べていた言葉は、「そして、「反復する」という作用はラカンの思考のなかでは、同一なるものの反復ではなく、オリジナルなるものを「現在から」否定しつつ反復することである」という言葉と重なっている。この二つの考え方にも橋が掛けられ、新たな星座が作られるであろう。対話関係の構築は止まることがない。宇波氏はそれをこの本の中で強調している。

玉崎氏のエクリチュールはどうであろうか。以下の文を引用しよう。「今回、この書評という形で、評者自身が、このラカン/宇波(他者/主体)的思考の書物を少しばかり反復/模倣/変奏し、「思考の星座化(コンスタラチオン [※ママ] Konstellation)」布置形成(ベンヤミン)という宇波先生がよく出される思想の方向性に添って、なんらかの形が「あとから」生っているならと願うところです。もっとも「ベンヤミンと精神分析は、やはりすれ違うのである」(三原弟平「ベンヤミンと精神分析」水声社、2009)と言われたり、後記予定の道籏氏も、ベンヤミンが立ち向かったタナトスへのフロイトの「怯え」等々、ベンヤミンとフロイトの一致点は、すぐに破壊される類いではありそうですが、上手く行ったなら「形=かたち(シニフィアン)が意味(シニフィエ)を作る(本書第3章・題名)」事後性効果が創出されるかもしれません。」読者はこの引用個所を理解できるだろうか。ここに対話性はあるだろうか。宇波氏のエクリチュールはラカンの方程式の一つの解き方を丁寧に説明している (もちろん方程式の解き方は一つではないが) 。だが、玉崎氏のエクリチュールには宇波氏のエクリチュールへの模倣や反復はまったく存在していない。読者はラカンと宇波氏との対話関係がまったく見えない状態に突き落とされる。

如何なるエクリチュールを取るかは、作者の論理構築上の戦略と直結する大問題であるが、書評というジャンルのテクストにおいては、書評される本の作者との対話関係に基づくエクリチュールはとくに重要なものとなるのではないだろうか。玉崎氏のエクリチュールはどうだろうか。「(…) 「書評」という「形」を放棄し「意味」が生まれる可能性を剥ぎ取り、自我=私の読書経験の押し付け (転移読みの強制) にこの書評がなってしまい」と書かれているが、確かに読者は困惑し、『ラカン的思考』という本が謎に包まれた著作である印象を持ってしまうのではないだろうか。その理由は玉崎氏の非常に読み辛いエクリチュールのためであるが、読者がそこに玉崎氏の対話拒否的姿勢を読み込んでしまう可能性は限りなく強いのではないだろうか。

 

選ばれたテーマ

この書評の中で語られているすべてのテーマについて一つ一つ厳密に分析していくことはできないが、ここでは、とくに、ラカン理論においても基盤的な役割を担っている以下の三つの大きなテーマに対する考察についての検討を行っていきたい。それは、「他者」、「シニフィアンとシニフィエ (以下SAとSEと略す) の関係性」、「事後性」である。

『ラカン的思考』においては、主体というものが実体として最初から存在するのではなく、他者との関係によって一個の主体となる過程が丹念な論証によって示されているが、玉崎氏の説明は『ラカン的思考』の中で展開されている論証をいたずらに混乱させている。一例を挙げよう。ラカンの関係論的な主体の現前という問題のベースとなっているものは『一般言語学講義』の中で示されているソシュールの言語恣意性 (arbitraire linguistique) の考え方である。ソシュールによれば言語恣意性のレベルは、(1) «言語記号と現実との関係:ex) 日本語で犬を「イヌ」という語で述べなければならない客観的な理由も物理的な理由も存在しないというもの»、(2) «各言語による現実の切り取り方の問題:ex) 英語には mutton と sheep という区分があるのに、フランス語ではどちらの語も mouton と言うことしかできない»、(3) «あるラングの体系内での言語記号の価値はその体系内の他の記号との関係性によってしか決定されない» という三つのレベルがあるが、ここで問題となるのは三番目のレベルである。ある言語記号はそれ自身が実体的に存在するのではなく他の言語記号との関係性により形相的に存在しているという問題である。ある記号は体系内の他の記号によって否定的に規定されて初めて価値を持つとソシュールは述べているが、それはまさにラカンが語っている主体の問題の論証と同じ方法である。『ラカン的思考』における論述はこうしたソシュール理論に対しても射程を有しているように思われるが、そうした相互連関性を玉崎氏の書評から理解することは極めて困難である。

SAとSEとの関係性についての玉崎氏の説明も十分なものではない。確かにラカンはSEよりもSAの優位を語っているが、それが如何なるレベルにおける問題であるかを語ることなしにSAの優位ということだけを提示すれば大きな誤解を招くことになる。ソシュールにとってのSAとSEとの関係はあくまでもラングのシステム内の問題であるゆえに、SAとSEとはコインの裏表の関係、つまりは、SAのないSEもなければ、SEのないSAもないという連関性を表している。だが、ラカンの語っているSAの優位はパロールにおける無意識の表出と関連する問題である。コジェーヴの『ヘーゲル解読入門』の冒頭部分には「意識して考えることは、パロールによって考えることである」というような事柄が書かれているが、もちろん、パロールは無意識の問題だけではなく意識の問題とも係る。だが、意識下のパロールの使用はラングの法則を完全に無視することはないが、無意識下のパロールの使用はラングの法則を無視する。それゆえに、SAはラング内でのSEと結びついた鎖を断ち切って新たなSEと結びつくことが可能となる。しかしながら、あるSAがSEとの結合から分離して如何なるSEへと向かうのかはア・プリオリに予想できるものではない。それが事後性という問題に連結していく。

事後性の問題について宇波氏は「要するに、「事後性」はラカンのいう「シニフィアンの優位」を構成する作用のことである。シニフィアン・かたちが最初にあり、それにあとから意味を与えるというプロセスが存在する。これは夢の解釈の方法そのものである。この事後性の概念を導入することにより、夢の解釈というフロイトの基本的な作業の再検討ができるだろう。つまり、「シニフィアンの優位」と「事後性」はつながっている」と述べている。先ほど言及したように、SAとSEの関係をラングのレベルで考えるかパロールのレベルで考えるか、意識のレベルで考えるか無意識のレベルで考えるかによって、その関係性は大きく異なる。ラカンや宇波氏が問題としているものはパロールと無意識のレベルでの関係性である。それゆえに事前に決定されているラング内の規約は乗り越えられ、あるSAは新たな意味に向かって飛翔する。他者の言葉による束縛の体系であるラングを超え出た以上、そのSAが対応するSEが何であるのかは容易に発見できるものではない。それが何かが判断できるようになるのは、ディスクールの動きの中での他のSAとの関係によって、つまりは、事後的にしか了解できない。SAとSEとの新たな対応関係を見出すためには、玉崎氏が指摘しているように同一SAの反復過程を観察しなければならないが、その観察を行う場はさまざまな対話空間内であることを忘れてはならない。宇波氏の論説にはこの問題が暗黙裡に提示されている。

このように見ていくと玉崎氏が分析装置として選んだテーマに対する考察はいずれも不十分である印象を持たざるを得ない。もちろんすべての書評に学術的な正確さや深度が求められているわけではないが、対象となった本の作者の探求姿勢は尊重すべきなのではないだろうか。宇波氏のラカン理論へのアプローチはラカンのロジックに呪縛されることではなく、ラカン的世界と他の思想的世界とを自由に横断しようとするものである。さまざまテクストと対話しながらも、そこにはカオスはない。しかし、玉崎氏の書評を読んでいると、簡潔にまとめられた構図がごちゃごちゃとしたタッチに乱され、何度も塗り重ねられた絵の具によって仕舞には真っ黒になってしまった絵を思い出さないだろうか。私の印象が杞憂であればよいのだが。

 

書評という対話

前述したように書評というジャンルのテクストにおいても対話関係は存在している。だが、一般の対話を分析する場合以上に、ベルギーの哲学者シャイム・ペレルマンが『レトリック』の中で述べている以下の主張に注目する必要があるように思われる。それは、「誰が誰に話すのか?」という点や「誰がどのような語り方で話すのか?」という点だけではなく、「誰が誰のために話すのか?」という点も対話問題を考える場合に重要な分析視点となり得るという主張である。この「誰に」と「誰のために」という視点は現前する他者との対話においてはしばしば一致するが、書評というジャンルのテクストにおいては一致しない。多くの場合「誰に」は読者であり、「誰のために」は対象となっているテクストの作者である。大きく分けて、そこには少なくとも二つの対話関係が存在しているが、書評の書き手が言及するテクストの作者と書評の読者とを繋ぐ媒介項としての役割も担っていることにはファンダメンタルな意味がある。

書評の読者が対象となっているテクストを読んでいない場合は少なくない。そうしたことを前提として書評は書かれるべきであると私は思っている。読者が話題となっているものを知らないと仮定するならば、そのテクストの内容を、それを未だ読んでいない読み手にも如何に簡潔に、如何に理解しやすく説明するのかは書評の書き手の責任の一つであると私は考えている。もちろん、二つ前のセクションで引用した玉崎氏の言葉のように、ジャンルを破壊すること、あるいは、超えることも可能である。それをメタテクスト的問題と語ることもできるが、トドロフが『ミハイル・バフチン対話の原理』の中で語っている、「(…) メタテクストは実際には一つの間テクストである。他の言表を記述する言表によって対話関係が構築されるのである」という言葉に注目しよう。メタレベルを導入すれば、あるジャンルの境界線は容易に越えることができるが、一般的には、それによって新たな対話関係が構築されていく。だが、玉崎氏のジャンルの越境には新たな対話の萌芽がまったく見えないのは何故であろうか。

ヴィトゲンシュタインの言語ゲームという概念には特筆すべき以下の側面がある。「言語ゲームはいわば予測不可能な何ものかであることを、あなたは心に留めておく必要がある。それはそこに根拠がないという意味である。それは道理に適ったものではないのだ (また、道理に適っていないものでもないのだ)」(『確実性について』) という指摘の中に端的に示されている側面である。この予測不可能性と道理に適っているわけでもなく適っていないわけでもないという事実は、言語ゲームがゲームの進行以前にすでに何かが決まっているものではなく、すなわち、ラングの規則内でのみ作動するものではなく、パロールによるディスクール展開が開始されてから後に、そのゲーム自身の特性や法則性が決定されるということである。それはまさに事後性の問題に直結するが、たとえば夢というものと言語ゲームはどちらも事後性を基盤として意味づけられるが、両者は以下のような共通点もあることが了解できるのではないだろうか。夢の進行中にも言語ゲームの進行中にもどちらもそれが何を示しているのかは謎のままであるが、それはある方向性を持ち、あるテーマを形作っていく。

この問題はラカンの唯一なる特徴 (trait unaire) に密接に係る。フロイトのドラ症例の中でドラが父の咳の模倣を繰り返し行うことの意味をラカンは強調し、それを唯一なる特徴の典型的な例として挙げている。このことは『ラカン的思考』においても強調されているが、この反復される形は言語ゲームが進展していく対話空間内で形成される (事後的に現出する) バフチンが主張しているテーマという概念と交差しているように私には思われる。反復されるものは、ディスクールの中で、あるいは、何らかの対話空間内で中心的な役割が意味化、すなわち、テーマ化されることによって、ラングの意味の問題からパロールの意味の問題へとパラダイムチェンジしていく。こうした論理展開はフロイトからラカンへの理論的な継承という側面だけではなく、ヴィトゲンシュタインやバフチンとの理論的な対話関係をも浮かび上がらせるものではないだろうか。宇波氏はそのことをよく理解しており、そこにベンヤミンの概念である星座を見ようとしている。

玉崎氏は書評というジャンルを壊すだけでなく、こうした対話関係をも見えないものにしている。そこには書評する本の作者と真摯に向き合い、語り合おうとする姿勢の欠如が感じられると共に、書く行為の快楽に一人浸っているような姿が見られる。書評の書き手はもちろん自らの快楽のために書くという行為を行ってもいるのだが、書評する本の作者のためにも書いている。どれだけ作者を批判しても構わないが、作者との対話関係を構築しようという努力を払わなければ、書評の読者は意味不明の言葉の羅列の海の中を彷徨し、遂には溺れ死んでしまう。書き手である私が快楽のみに溺れたとき、他者は死ぬ。

 

私はラカン研究家でも、哲学者でもない。言語学と記号学を少し齧っただけの私が、ラカンやラカンに関連した本について語ることは越権行為なのかもしれない。だが、バフチン的な対話という概念の下では、あるテクストと別のあるテクストを接合させることによって間テクスト性を構築していくことも可能である。それゆえ、この視点に立って、私はこのテクストを書いた。独りよがりの思い込みであるかもしれないが、こうした学的考察姿勢を宇波氏も共有しているように私には思われるのだ。なぜなら、『ラカン的思考』を読むと、バフチンの「言表というものの全体はもはやラングの単位ではなく (「言葉の動き」や「話されたものの連鎖」の単位でもなく)、それは辞書的意味ではない意味 (真や美といった価値と係る、応答としての理解を伴い、価値判断を含む包括的な意味) がもたらされる言語交流の単位なのである。十全な言葉への応答としての理解というものは常に対話的なものである」(『テクストの問題』) という言葉が私の耳元には響いてくるからである。だが、玉崎氏にはこの言葉が聞こえていないように思われる。

(引用文はすべて原文 [フランス語] または仏訳本からの著者の拙訳である)

 

初出:宇波彰現代哲学研究所から許可を得て転載

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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座  https://chikyuza.net/

〔study868:170627〕