これは文庫本で上、下の二冊よりなる長編小説である。バルザックの長編小説の特徴は、最初に、当該小説の主人公にまつわるかなり長ったらしい状況説明(住んでいる家屋敷の造りや家具、あるいはその人物の経歴や趣味など)がくどくどと述べられる。こういう説明が数ページ、場合によって数十ページにわたって続くと、大概うんざりしてきて、一体いつになれば本筋に入るのだろうか、と訝しい気分にさせられる。
しかし、本筋に入るや、たちまちその荒唐無稽ともいえるような語り口に圧倒されて、そのストーリー展開に魅入られてしまう。まさしく天性のエンターテイナーである。
かのカール・マルクスが、『資本論』を書きあげた後、余裕があれば、バルザック論を書きたいと言ったという有名な逸話が残っているほどだ。
この小説の主人公のポンスは、頼れる身内縁者さえもない、さえない(というよりは醜い)容貌の60がらみの男で、音楽家(作曲家)を生業としている。その本業では、かつては一応名も知られていたが、今は誰からもほとんど顧みられなくなっている。しかし、この男は、そういうことには一切頓着せず、仕事に対する情熱そっちのけで、趣味の骨董品集めと美食家(しかも他家で夕飯をごちそうになりたい、つまり「食客」でいたいという異常な欲望)に執着しているのである。
この種の「偏執狂」(上p.221)は、ベルザックの小説の中において多様な人物像として描かれる、特徴的な性格である。すぐ思い当たるのは、『忘れられた傑作』に出てくる画家のティツィアーノ(チチアン)である。ダ・ビンチの「モナ・リザ」のように、理想の女性像を描き始めたのはよいが、いくらキャンバスに向かって絵筆を走らせても満足できないまま結局その絵は火事で焼失してしまう。その直前まで描かれたその絵は、当初思い描いていた実像の模写図とは全く似ても似つかない抽象画になっていた、というストーリーだった。
あるいは有名な金貸しのゴプセックも、異常な金の亡者として、ある種のパラノイア的性格者(こちらも『資本論』の中で、「資本退蔵」の例として紹介されている)に数えられると思う。
この本の中にも、ゴプセックの友人であり、同じユダヤ人の、エリー・マギュスという骨董商売の75歳の老人が出てくる。これがまた、絵画蒐集にかけては、その眼識力も一流のものを持つのであるが、それ以上に蒐集癖(独り占めしたいという欲望)の面では、まさに「パラノイア」である。
このマギュスがポンスがどの程度の美術品を蒐集しているかを、アパートの管理人のおかみさんの手引きで、ひそかに盗み見るシーンは非常に興味深い。互いに自分が所有している美術品を、自分一人でひそかに楽しみ、世間には内緒にして秘匿しておきたいという美術蒐集パラノイア独特の性癖の持ち主である。それゆえに、なおさら相手のものへの興味も掻き立てられるのである。
因みに彼らが所持していたという絵画は、どの程度の代物であったのか。バルザックは次のようにリアルに描いてみせる。
例えばマギュスが所蔵しているものに、「ラファエロの二枚の絵」がある。これは、「ラファエロ狂の連中が根気よく捜しまわっている」ものでもある。また『ジョルジョーネの愛人』の原画やティツィアーノの『キリスト埋葬の図』なども彼が所蔵している。
また、ポンスの方といえばこれまた驚くべき逸物の所持者である。
「第一の絵はセバスチアノ・デル・ピオンボ、第二はフラ・バルトロメオ・デルラ・ポルタ、第三はホペマの風景、最後がアルブレヒト・デューラーの女の肖像で、まさに四個のダイアモンドだった!セバスチアノ・デル・ピオンボは絵画の術において、三つの流派がそれぞれ優れた特性を持ち寄るために会合を開いた、まあいってみるならば輝かしい地点に位置を占めている。ヴェネチアの画家として彼はミケランジェロの指導の下に、ラファエロの様式を学ぶためローマへやってきた。ミケランジェロは彼の代理者の一人なるデル・ピオンボを表面に立てて、ラファエロという芸術の最高位にある大司祭と戦わしめ、これと対抗させようと欲したのであった。そんなわけでこのいたって怠け者だった天才は、不承不承に描いた、それも伝説によるとミケランジェロに下絵を描かせたのだそうであるが、…」(上p.252)
まさにルーヴル美術館クラスの絵画を所蔵しているというべきであろう。
さて物語はこれらの背景を下図として、金銭欲に蝕まれ、「貪獣」と化したブルジョア社会の一般庶民によってハイエナが獲物に食いつき、めちゃくちゃに食い荒らすがごとき地獄絵を現出させながら進行するのであるが、この情けないほどのエゲツナサ、金と栄達と将来の安定した生活、という餌を目の前にしたときに、ありきたりの小市民の心に起こる「悪心」、ここにこそバルザックの小説のリアリズム、真骨頂があるといえる。
バルザック自身は、思想的には「王党派」に近い保守的な立場の人だったといわれる。しかし彼の描き出すものは、決して「懐旧談」的なぬるま湯物語ではない(『谷間の百合』には多少そういう側面があるかもしれないが)。フランス大革命以後に起きた目まぐるしい政変、その中で時代に翻弄されながらも、したたかに生き残ろうともがく小市民、あるいは没落貴族層、そして成り上がりの新興貴族や官僚、台頭してきたブルジョア階級、これらの諸層、諸人氏が入り乱れて演ずる乱痴気騒ぎこそが彼の主要テーマ(「人間喜劇」)なのである。そこで描出されるのは、私利私欲にまみれた赤裸々なプチブル根性であり、そういう俗物を大量に排出する勃興期の資本主義社会模様である。フローベールの『感情教育』やサッカレーの『虚栄の市』に通ずるものではあるが、バルザックの世界はもっとドロドロして生々しい人間の「欲望図」である。そのためにこそ彼一流の「パラノイア的人間」像が創作されたと考えられる。
平凡で篤実な一市民が、予想もしえなかった大金にありつけそうだという「夢のチャンス」到来の場面で、いかにしてマクベス夫人のごとき「悪魔への身売り」をするか、そしてその挙句、すべてを失って没落していくことになるか、これがこの小説の哀れにも物悲しい筋書きである。
実はこの小説は「貧しき縁者」という総タイトルの下で書かれた二編の長編小説の第二話にあたる。第一話は『従妹ベット』である。これら二つの小説に直接のつながりはない。ただ、通底する思想として、貧しい者が富裕な親戚縁者によって、いかなる扱いを受けるかということにある。
この『従兄ポンス』のもう一つの舞台装置であり、この物語を進行させる役割を果たすのが、彼(ポンス)を取り巻く様々な階層の人物である。そこには当然ながら彼の富裕な親戚縁者(遠縁にあたる)が登場する。その名をカミュゾと言い、今は製造業者評議会の評議員や下院議員などを務めていて、後妻とその間に生まれた娘とともに暮らしている。成り上がりの彼らは身分や名誉欲と、出世欲のみを生きがいとする無教養な人たちである。
ポンスの病的な「食客欲」が原因で、カミュゾ家に取り入るために娘の婿候補を紹介したまではよかったが、結局破談になった挙句、全責任を押し付けられて出入り禁止に至るのである。
ここからポンスの絶望的な不幸が始まる。彼は死の病の床に就くのである。
アパートの同じ部屋に同居している親友で、ひたすら親身になってポンスの世話をするシュムケというドイツ人の同年輩の音楽家がいる。この純情な男もポンスがなくなった後、絶望して死んでいく。
また、アパートの管理人をしながら地道に小金をためているシボ夫婦がいる。特にそのおかみさん、彼女は元々は親切な世話好きの主婦で、平凡な、ありきたりの幸せを求める40代のおかみさんだったが、ある日、ポンスの骨董の値打ちが莫大な富に匹敵するということを吹き込まれ、何とか遺言状に自分の名前を書き込んでもらいたい、いやあわよくば、死んだ後の骨董品の相続人になりたい、という貪婪な欲望を持つようになる。
彼女に蛇のささやきをするのが、近くに住む鉄屑商人レモナンクであり、またその上前を撥ね、絵画を独り占めしようと狙うユダヤ商人エリー・マギュスである。
そして、フォンテーヌ夫人といういかにもバルザック好みの不気味な老女の占い師も登場する。彼女はとっておきの「奥芸」でシボのおかみさんの心の内を占う。そしてこう告げる。「事は成就する。…お前さんはずいぶん悪いことをするよ。…お前さんの悪事を助けてくれる、身分の高い人がいる。…ずっと後になって、お前さんは後悔するよ。死に際の苦しいときにさ。なぜってお前さんは、二人の牢破りに殺されて死ぬ。…」
このぞくぞくする予言が的中するかどうか、それは皆様方の後の楽しみのために触れないでおく。
この激動の時代、さすがに多くの興味深い作品が世に出ているものだと感心する。それぞれの作家の生涯の時期は多少違ってはいるが、その活躍した時期をたどると同時代人として重なった時期があることに気づく。先にみた二人の作者(サッカレー。フローベール)に、例えばスタンダールの『パルムの僧院』やプーシキンの『オネーギン』、それにドストエフスキーなどをも加えて、この時代の文学史を研究すれば面白いだろうと思う。
2023.4.26記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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