書評:中西正司・上野千鶴子『当事者主権』(岩波新書)

1.       はじめに 

 中西正司・上野千鶴子『当事者主権』(岩波新書)を読みながら、そこに記された障害者自立生活運動の思想と実践力に感嘆し、その主張の多くに共感しながらも、どこかにかすかな違和感と腑に落ちないものを感じていた。その違和感の正体と原因を見極めるべく、あえて本書を冷めた視点で読み直してみた。 

 本書は、ジェンダー論を専門とする社会学者の上野千鶴子氏と、障害者自身による障害者のための自立生活運動を一貫して展開してきた中西正司氏による共著である。本書の中心テーゼである当事者主権とは、「障害者や女性、高齢者、患者、性的少数者、不登校者など、これまで自己決定権を奪われてきた社会的弱者が、自分のことは自分で決めるという自己決定権を奪還する」という立場の宣言である。本書には、そのような当事者主権の思想を実践してきた各種運動体の具体的経験の紹介(各論)と、そのような各種当事者運動の経験と実践を包摂するような一般的・抽象的な当事者主権の思想と理論(総論)とが混ざり合っている。重点は圧倒的に前者にあり、その中でも、中西氏を中心として展開されてきた障害者の自立生活運動の歴史的経緯と成果に関する記述が大きなウェイトを占めている。中西氏と上野氏の執筆分担については明記されていないが、内容的に考えて、各論部分のうち、障害者自立生活運動の紹介については中西氏が、女性学やフェミニズムの経験については上野氏が中心的に記述したと見るのが自然だろう。総論については、各論部分で記述量の少なかった上野氏が中心になって書いたのではないかと推測される。そして、今回私が違和感を感じたのは、もっぱら総論で述べられた当事者主権の考え方である。 

 そもそも、「当事者主権」とはいかなる立場・思想なのか? 本書の中では色々な言い回しで言及されているが、例えば、「当事者主権とは、私が私の主権者である、私以外のだれも――国家も、家族も、専門家も――私がだれであるか、私のニーズが何であるかを代わって決めることを許さない、という立場の表明である」とか、「当事者主権とは、社会的弱者の自己定義権と自己決定権とを、第三者に決してゆだねない、という宣言である」とか、「だれかを代弁することも、だれかに代弁されることも拒否し、私のことは私が決める、という立場が当事者主権だ」などと説明されている。これらの説明だけを見ていると、当事者主権とは極めて個人主義的色彩の強い主義主張であるように思われる。ところが、本書の中で当事者主権の代表的運動体として紹介されている障害者の自立生活運動は、「それまでの近代個人主義的な「自立」の考え方――だれにも迷惑をかけずに、ひとりで生きていくこと――に、大きなパラダイム転換をもたらし」、「これまで非障害者を標準としてそれに合わせてふるまうことを強制されてきた障害者が、障害をもったままでよい、必要な支援は社会から得て、みずからの人生を非障害者が享受するのと同じように享受していける社会をめざそうと考えた」という。さらに、「当事者」とは誰か、という問題については、本書の中に、「私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる」という記述がある。つまり、当事者とは、単に現状を所与として受容してうえで、その中で自分個人のしたいことを「自己決定」する人のことではなく、現状を変革していこうとする構想力を持った人である。 

 以上のことから考えると、当事者主権とは、当事者個々人の自己決定権というよりも、現状を変革しようとする当事者団体の「自己」決定権を意味しているように思われる。つまり、「主権」という言葉がいみじくも示唆しているように、それは個人主義的な権利ではなく、集団的な「自己」決定権を意味しているように思われる。 

 ここにはいくつかの問題が伏在しているように思われるが、それらを集団内関係と集団外関係の2つに大きく分けてみることにしよう。集団内関係とは、当事者集団とその内部の個人の間の関係であり、集団外関係とは、当事者集団とその外部の個人や社会との関係のことである。 

2.       集団内関係 

 本書の中には、次のような一節が出てくる。 

 《重度障害者が、施設から出て地域で暮らそうと自己決定するとき、今後地域で起こる介助者の不足、経済的な困難、社会経験の不足から来る不安感などあらゆるリスクを引き受けて、生死をかけてもこのままの生活は続けたくないという決意が秘められている。こう決意した時、両親、兄弟姉妹などの家族、教師、医師、看護師、リハビリテーションの専門家など、周囲のすべての権威とパターナリズムからの反対を乗りこえる強固な意思が必要になる。》 

 果たして、それまで施設の中で暮らしていた重度障害者が「施設から出て地域で暮らそう」という自己決定を、突然、一人で行えるものだろうか。しかも、そのためには、「今後地域で起こる介助者の不足、経済的な困難、社会経験の不足から来る不安感などあらゆるリスクを引き受け」る覚悟と、「両親、兄弟姉妹などの家族、教師、医師、看護師、リハビリテーションの専門家など、周囲のすべての権威とパターナリズムからの反対を乗りこえる強固な意思」が必要だとしたならば、そのような覚悟や「強固な意思」はどこから生まれるのだろうか。当然、そのためには、重度障害者であっても、必要な支援を受けつつ、地域の中で「自立」して生活していけるのだというロール・モデルが必要であり、まさにそれを提供しているのが自立生活センターのような当事者団体であろう。現に自立生活センターは、ピアカウンセリングや自立生活プログラムによって、同じ障害を持つ仲間が自分たちの自立生活の経験や知識を伝え、障害者の意識改革を図ることによって、障害者を家庭からも施設からも解放し、地域で介助を受けて自立生活ができるように支援活動を展開しているのである。つまり、「当事者主権」の出発点には、「自己」の再想像=再創造というテーマが伏在しており、そのためにも当事者団体の支援が不可欠なのである。自立生活運動は、「自立」という概念のパラダイム転換を行ったが、そこには同時に「自己」概念の革新も含まれているのである。 

 したがって、当事者主権論が主張する「自己」決定を行う「自己」とは、単に所与としてそこに存在している「自己」ではない。そこには、再想像=再創造されるべき、あるべき「自己」像というものが前提されているように思われる。障害者運動の当事者団体においては、「あるべき障害者」像というものが想定されているのである。先ほどの例を使えば、施設や家庭で暮らす障害者ではなく、「地域で(支援を受けつつ)自立生活を送る障害者」、あるいはそのような「自己決定」をする障害者こそ、「あるべき障害者」として想定されているように思われる。そうなると、下手をすると、施設や家庭で暮らす(ことを選択する)障害者は「意識の遅れた障害者」ということにされる恐れはないだろうか。 

 もちろん、障害者が暮らしやすい社会、障害者が必要なときに必要な支援を受けられる社会を実現することは、すべての人にとって重要なことであるし、そのためには非障害者はもちろん、障害者自身の意識改革も必要であろう。しかし、仮に、当事者(ここでは障害者)個々人が行う「自己」決定の内容に優劣の刻印が押されるようなことがあれば、当事者団体はその成員に対して抑圧性を持つことになるだろう。そもそも、「自己」決定とは、決して個々人の内部に閉塞しているわけではなく、その人が生きるなかで築いてきた様々な人間関係の中で行われるものである。その関係性の中に当事者団体が位置づけられることは、多くの場合、当事者個人にとっても望ましいであろうが、その個人が持つ様々な関係性の中で当事者団体がどのような位置と重要性を占めるかということは、その個人にしか決められないことであり、当事者団体が常に優位を占めなければならない、などということは決してないはずである。 

3.       集団外関係 

 そもそも、私にとって、当事者主権論を批判するような文章は、非常に書きづらいものであった。当事者主権論の想定する「当事者」とは、本書が例として取り上げている障害者、女性、高齢者、患者、不登校者、精神障害者、同性愛者、アルコール依存患者などのほか、在日外国人、先住民族、被差別部落民、犯罪被害者、ニート、ワーキングプアなど、一般に社会的弱者と呼ばれるマイノリティであろう。そのような立場の人々が、彼らを不利な立場に追いやっている現状を批判し、現状を変革するために声をあげることは、一般的に見て正当性があると考えられることであり、そのような当事者団体の主張を部外者が批判することなど、倫理的に許されないのではないか、と思われがちであるからだ。 

 しかし、そのような批判のしづらさこそが、当事者運動の陥りがちな陥穽なのではないだろうか。「絶対的権力が絶対的に腐敗する」(アクトン)のは、批判を受けないからである。だとすれば、当事者団体が、「自分たちのことは自分たちで決める。この権利は、誰にも譲ることができないし、誰からも侵されない」といって、外部からの批判を排除し続けるならば、独善性に陥ることは避けられないのではないか。「当事者のことは当事者にしかわからない」という主張は一見もっともらしく見えるが、実は一口に「当事者」といっても、その経験や考え方は個人個人で違っていようし、そこから一義的な主張をアプリオリに導き出すことはできないはずであり、したがって、当事者団体の決定だから無謬である、とは決していえないはずなのだ。

〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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