まず、「ダイアローグ」という行動原理から見ていこう。
寺山修司の読者ならば、評論やエッセイで一度はお目にかかったことがあるであろう「ダイアローグ」という語は、常にモノローグ批判の文脈で肯定的に、あるいは示唆的に使われていたが、堀江氏は、それが、作品の主題とはまた異なった、「創作の際に懐中につねに抱き続けた理念」であり、多ジャンル性を必然的に導いたものであるとしている。
では、この理念を寺山はいつ手中にしたのであろうか。
堀江氏によれば、それがはじめて表明されたのはなんと、ごく初期の時代、1956年(20歳頃か)『短歌研究』において、俳句の本質を「滑稽と挨拶」にみた山本健吉の俳句観を引用した文章においてであるという。
ここで寺山は、「口に吸う指の生傷萌ゆる岸」という佐藤鬼房の俳句について、これが共産主義思想に与する労働者たちの紐帯としての俳句であるという視点に反論し、むしろ「政治的均一性を越えた作家性の表われ」だとみなしていったん評価し、そのうえで、それは「自己完結したモノローグにすぎない」と批判し、「挨拶と滑稽」を本質とする俳句、すなわち「ダイアローグ俳句」こそが目指すべき俳句の途」だとしている。
つまり、政治や集団に対する不信の念を投げかけ、それらに埋没しない「個」を救い出すも、それが「モノローグ」にとどまっているだけではだめで、「他者への呼びかけ」のあるダイアローグの句をよしとしているのである。
弱冠二十歳にして後年の寺山の批評スタイルがすでに出ていることに驚かされるが、堀江氏によれば、これは、1952年発表の山本健吉論文「ディアローグの芸術」と関わりがあるという。端的に言えば、寺山がこれを「読んでいた」と「確信」するというのである。今上掲の1956年の文章で山本健吉が触れられていることを見たが、この1952年の山本論文では、まさしく「ディアローグ」という言葉が使われていて、寺山がここでこそこのコンセプトと言葉そのものを手中にしたと考えられるというわけである。
山本論文の骨子は以下のようなものである。芭蕉の俳諧を想起してみればわかるように、かつての俳諧の座は、発句を契機に次々に脇句をつけていき、そこを「談笑の場」へと変貌させていくディアローグの性格をもつものであった。ところが、(近代になって)連俳から発句が独立するにつれて、「発句が語りかけ笑み交わす対者の存在を意識しなくなって」、モノローグへと移る傾向を示してきた。山本は言う。「いったん断定の形で提出されたものの次に、かならず”isn’t it?” といった風の相手への問いかけを忘れないのが、本来的な俳句の在り方なのだ。…判断が判断を喚び起す。会得の微笑がそこには存在するはずだ」と。
堀江氏によれば、山本の論にこうした「問いかけ微笑む開かれた姿勢」を読み込んだ寺山は、以降、この言葉とコンセプトを自らのものにするも、一方「批判的に」もとらえていったのだという。批判的にというのは、山本が問いかけ微笑んだディアローグの場は、寺山にすれば、「黙契を交わした人々の集団」である俳人だけの「閉じた世界」に見えたと考えられるからである。実際、寺山はこの年、俳句が「俳人以外の大衆には話しかけず、モノローグ的な、マスターベーション的なジャンルにすぎない」と書いて俳句との別れを宣言するに至っている。
寺山はその後、「短歌誌や散文詩誌に活躍の場を移して行く」ことになるが、短歌のジャンルでもこのダイアローグの精神は発揮され、自己告白を戒め、生活のトリビアルな要素を詠むメモリアリストの短歌を批判するだけでなく、結社の閉鎖性を批判し、「質問としての短歌」という独自の作風と、結社に属さず短歌の総合誌にのみ投稿するという作歌態度を創出していくことになったことはよく知られている。そして1970年、「「質問」としての短歌も自己規定から生まれたもの」と書いて、「歌の別れ」を行い、演劇へと活動の重心をシフトしていくにいたるが、これも、このダイアローグの精神のなせるわざであった、と言うことができるだろう。
モノローグとしての作品を批判するだけではない、語りかける対象も「閉じた世界」であってはならない、こうした理念をもつ以上、寺山が一つのジャンルに長くとどまらず、またジャンルに高低を設けず、さまざまなジャンルを横断してゆくことは必然的だったのである。そうしたありようの起源に山本健吉の芸術論の批判的受容があったとする筆者の見解は私にとって「発見」であった。
次に、活動理念とは区別された、作品の主題、<私>論の方を見てみよう。寺山作品にはいたるところ、<私>とは何かという問いかけが見られる。いったい、いつからそうした傾向が見られるか、というと、それは公的なデビューを遂げた1954年(18歳)においてである。
寺山の公的デビュー作は、『短歌研究』が主催した、今でいう「短歌研究新人賞」(当時は「五十首応募作品特選」)に選ばれた、「チェホフ祭」である。「受賞後すぐに、他の作者からの模倣や自身の俳句の引き伸ばしがあるということが問題化し、それに対して寺山が弁明するなどの展開があった」ことが知られている。
この模倣問題については、堀江氏は、議論を丁寧に追いながら、寺山に肯定的なものとして、塚本邦雄の「本歌取り」という見解のほか、佐々木幸綱における「短歌作品における「引用」「コピー」「コラージュ」という、当時としてはまだ熟していなかった方法の正当性を主張したもの」だとする見解、さらには、谷川俊太郎の「近代的な「個」が定着する以前の「芸術の状態」を再び甦らすもの」とする見解を紹介し、「あらゆる表現は模倣であり」、「個人による独創とは社会生活を営むための方便」であるとし、寺山の「チェホフ祭」が提起する問題は、「そもそもオリジナルとは何か、個性とは何か、…<私>とは何かという問いへと逢着する」としている。
また、アカハタを売ったこともないのに詠んだことで、模倣疑惑以上に批判されもした歌「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ」をめぐる応酬にもふれている。堀江氏は、寺山がこうした批判に応えた「ロミイの代弁」という文章において、「寺山修司の操り糸のみによってうごくロマネスク」、「寺山の中にいる別人格「ロミイ」」という作中人物を登場させたことを紹介し、「ロマネスクの町で生活するロミイは、ロマネスクの世界で『赤旗』を売ったこともあるのだろう」とし、歌を詠む「われ」と作者が同一であるという暗黙の了解が支配する当時の歌壇にあって、作中人物であるロミイとわれを切り離し、「詩想を現実のみから抽出しようとする歌壇を批判」したのだと書いている。
この問題については、拙著『ラカンで読む寺山修司の世界』第二章も参考にされたい。ここで私は、投稿原稿(原題は「父還せ」)に戻って、このアカハタの歌が、作者と区別された「われ」(=ロミイ)の歌であり、近代短歌に特徴的な作者の心境詠ととらえるべきものではなく、「連作」によって他の歌との関係で意味をもち、心境詠とは別のリアリティ、すなわち戦没者遺児に等しく訪れる戦後九年目の叙事的世界を、抒情詩としての短歌において現出させる新しい試みであるという考えを示している。これは、堀江氏の言葉を一部借りるなら、「詩想を現実のみから抽出し」なかったことによって、否、虚構において展開したからこそ、豊かな思想性をもった世界、現実とは別の「真実」を現出させることができたという考えである。
もっとも、フィクションとしての短歌を寺山が無条件でよしとしたわけではない。1963年(27歳)、「短歌における「私」の問題」において、フィクションとしての短歌に見られる危険、つまり「拡散していく<私>」に言及し、「それらを統合する人格」が必要だとし、それを、作者と重なりながらそれを越えていく「メタフィジックな「私」」と呼び、「ロミイ」にさらにより豊かな意味を与えているようである。
「詩の中にさまざまに拡散されてゆく私の要素を、内的に統一する形而上学なしには、私自身の思想は成り立ち得ない。私文学の出発は、そうした大いなる「私」の全体像と、現実にいま存在している私の肉体との相克であって、短歌もまた、そのための一つの証言にすぎないのである」という寺山の引用は、寺山の<私>文学としての虚構の短歌のイメージがよく表れているといってよいだろう。
これは、私には、第二歌集『血と麦』(1962年)のあとがきに出てくる「大きい私」の概念の説明、「私個人が不在であることによって大きな「私」が感じられるというのではなしに、私の体験があって尚私を超えるもの、個人体験を超える一つの力が望ましいのだ」という一文を想起させるものであり、その意味で、これは第二歌集を上梓し終えたからこそ理論化しえたものだという印象をもつが、やはり公的デビュー作から継続して問われてこその理論化の完結でもあったことは間違いないことだと思う。
以上、模倣問題について、そしてロミイ=第三人物の設計による虚構の<私>という問題について、両者ともども、寺山は、批判を浴びることで鍛えられ、それらを<私>を問う独自の「方法」とし、理論武装し、確信犯的なものとしていったことを見た。
そういえば、後年の作品に「わが捨てし言葉はだれか見出ださむ浮巣の日ざし流さるる川」という歌があるが、これなど、模倣問題を超えて、「言語そのものが共有物である」と認識を示したもので、堂々と他者のイメージや言葉を引用するにいたった時期の自信をうかがわせるものであろう。また、後年、評論やエッセイなどで、実体験に基づかないエピソードを<私>の体験として語ることで、事実とは区別された「真実」を述べようとするスタイルを確立したことも、ロミイ問題の一つの帰結だといえようか。「処女作にはすべてがある」という有名な言葉を持ち出すまでもなく、公的デビュー作の豊饒さとその決定的性質を改めて確認する次第である。
さて、堀江氏に従って、その活動理念はダイアローグ、作品の主題は<私>論、と整理し、さらにごく初期の活動についての議論に注目することで、寺山の膨大な仕事をある程度一貫した視点から俯瞰できることを見た。
そこで今度は、堀江氏が提起している1960年代から70年代への見取り図を確認しておきたい。
堀江氏によれば、1960年代は端的に「評論の時代」であるという。私はこのあっさりと断定する規定の仕方に驚いた。私が寺山論を書いた時、60年代はどうにも捉えがたい時代として映っていたのである。歌人、詩人ではあった。しかしラジオドラマ、テレビドラマや映画のシナリオを旺盛に執筆し、評論、エッセイも書いていた。私はこの混沌を整理するすべが思いつかず、おもに歌人として扱った。演劇に至る前段階として。しかし、堀江氏は、明快に「評論の時代」だと規定し、その特徴を「野球、ボクシング等のスポーツや同時代大衆文化について広汎に論じ、実社会の、特に若者に対して語りかけた」ことであるとし、評論の言葉によって「少数の知識階級で「思想」を独占するのではなく、大衆とともに思想を構築していくこと」を目指した時代だというのである。
それに対して、70年代はといえば、67年、「天井桟敷」の旗揚げと『全評論』の出版を契機に次のステージへ向かった寺山が、「書物による語りかけから、直接の対話へ」と向かい、「書を捨てよ」という言葉の実践を行うようになった時代なのだという。そして、「1960年代が「評論の時代」であったとすれば、「天井桟敷」の活動が展開する1970年代以降は「対話の時代」と呼んでいいだろう」とまとめている。
なるほど、そういうまとめ方もあろうかと思う。60年代、寺山は時代のアジテーターであり、若者や大衆に向かって語りかける新しいタイプの「評論家」でもあったのだから(もちろん第Ⅱ部で、60年代におけるラジオドラマやテレビドラマの制作について詳細な分析を行い、60年代特有の、創作者として試行錯誤する悩める寺山の姿を浮き彫りにし、混沌とした60年代の分析に厚みを与えているのだが、本稿では触れない。是非、本書にあたられたい)。
もっとも、堀江氏の言わんとすることはその先にあって、「評論の時代」から「対話の時代」へと変化するなかでもけっして変わることなく根底にあったのが、ダイアローグの精神であり、それがジャンルの越境を促したのだという。
このダイアローグの理念については、堀江氏は、「自分のこころを、あらゆる手段を駆使して、その場に即すように自分で伝えること。かつ、伝えることによって、自らに変革をもたらすこと(この衝突の産物として、作品が創出される)」と自分なりの定義を行い、それに即して『戦後詩』(1965年)の読解を行い、60年代「評論の時代」のありようを詳細に浮かび上がらせ、「対話の時代」への移行の必然性を示しており読み応えがあるが、ここでは、その一例として「地理主義」をあげておこう。
寺山は、『戦後詩』において、自分が「歴史嫌いの地理ファン」だと宣言し、修理工と老運転手がキャッチボールをする場面を喚起し、「ボールが、老運転手の手をはなれてから修理工のグローヴにとどくまでの「一瞬の長い旅路」こそ、地理主義の思想である」とし、以下のように語っている。
「「地理」主義とは配布図の問題ではなくて、いかにしてそれを渉るかという思想の問題である。それは、人間を決してマッスではとらえない、相互コミュニケーションの中で、実感を復権させることになるのだ」、と。寺山が、地図を片手に直接的対話による実感を求めて書物を飛び出す直前にいることが伺える。
70年代には、演劇活動において観客との直接的な対話を果たし、そして地図や地球儀を片手に海外公演を次々に実現していくことによってこの「地理主義」を実現していくことになることを想起すると、65年の地理主義の発言は予兆的であり、その意味で70年代の寺山は60年代の試行錯誤に呼応した充実期にあるという印象を受ける。
実際、堀江氏は、1970年代以降、寺山作品は、「<私>論とダイアローグが有機的に絡み合い結ばれた高みにおいて、提出され続けた」としている。そしてそれによって実現した「既成概念に対して、表現形式そのものを疑うかたちで批評を差し挟むような作品」を「自己遡及的批評」と呼び、そこに寺山作品の「真価」を見出している。
たとえば、それは、天井桟敷の活動として開花し、とりわけ1974年寺山修司監督作品『田園に死す』において顕著にみられると言い、次にように書いている。
「この映画は、予備知識なく観ると詩情に富む映像のコラージュであるような印象も受けるが、自分で自分の存在について思考を巡らす主人公の「私」の存在と、映画が自らを映画と認識し暴露する構成とが重なって展開する、寺山の自己遡及的批評性が最もよく見られる無二の作品である」と。
そして一章分を割いて、引用される短歌と映像の関係を分析し、公的デビュー作における「ロミイ」がここに出現し、「ロミイの代弁」で書かれた、「来るべき短歌」が実践され、<私>論を展開していることを示している。それが映画形式を問い、それ自体を解体していき、観客と自己への「ダイアローグ」を形成していることを想起すれば、 この作品は、なるほど「自己遡及的批評性」を実現した「無二の作品」であることが了解されるだろう。
以上、活動理念はダイアローグ、作品の主題は<私>論、という分析によって、60年代から70年代への移行のありようが明快に説明されていることを見た。
付け加えるとしたら、70年代、ダイアローグの理念に従って行為する寺山は、作品について<反世界>ならぬ<半世界>という概念を持ち出し、「作者は世界の半分を創造する。あとの半分を補完するのが、受け手の創造というものである。表現は相互作用によってのみ一つの世界を完遂する」と語っていたことである。この時期、伝統的な作品概念の変更を、自信をもって語るようになっていた証左だといえよう。
また、そうした<私>論と絡みあうダイアローグ、<半世界>のありようをよく示す例として、映画『書を捨てよ町へ出よう』(1971年)において、主人公が鑑賞者に向かって、寺山を彷彿とさせる青森弁なまりで延々と話しかけるシーン、ラスト付近の「灯をつけてください」というシーン、そして最後のクレディットの代わりに、こちらを見つめる俳優やスタッフ、寺山自身の映像が繰り出されるシーンをあげておこう。
最後に、本書は以上の内容にとどまらないことを付言しておく。というか、ここで紹介した内容は大著のごく一部にすぎない。このほか、錯綜する資料を整理して分析された60年代のラジオドラマ、テレビドラマについて、また、四方田犬彦や篠田正浩らとの世代間ダイアローグの分析など、従来の寺山研究にない論考が目白押しである。また、巻末の寺山ラジオ番組年譜、単行本全書誌などは資料的価値が高く、きわめて貴重である。
一方、寺山の主要な活動といえる演劇作品についての言及はわずかである。タイトルに「六十年代」を冠しているのだから当然かもしれないが、堀江氏は、朝日新聞の「著者に会いたい」というインタビュー記事でこう語っている。
「記憶を言葉にしていく、誰かとの出会いや現象を文字化するというのは、僕には心もとなくて、文字として書かれたという物的な安心感、あれ何だったっけという時に戻れる安心感、それがほしい。不確かなものは信用できない、というか」。
寺山が亡くなったときに二歳だった若い研究者にとって、見たこともない演劇や現象としての寺山修司について語るのは「心もとなく」、活字から零れ落ちる者が多い演劇作品は、分析対象とするには「不確か」すぎるものだったのだろう。
演劇活動のすごさを知る者からすれば、残された活字や映像だけから再構築できるものは十分ではない…と思う気持ちもあろうが、死の直前、寺山が「私の墓はコトバであれば十分」と書いたことを想起すれば、堀江氏のような分析は、案外寺山の意に沿う試みなのかもしれない。研究者たる者、簡明な分析概念と、文字として書かれたものや一次資料に対する徹底した姿勢など、本書から見習うべきことは少なくないはずである。
初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2020.5.1より許可を得て転載
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〔opinion9746:200513〕