今回とりあげる書物は、2019年に文藝賞、2020年には三島由紀夫賞を受賞した、宇佐見りん著『かか』である。文藝賞は20歳という若さで受賞し、三島由紀夫賞も最年少の受賞となって注目を浴びたが、若さゆえの新生さと、若さには不似合いなほどたくらみに満ち、思想性をひそませた作風に、私はすこぶる感銘を受けた。以下、現在思いつく限りを書いた書評である。
主人公はうーちゃん、19歳の浪人生。うーちゃんのかか(母)は、うーちゃんが小学校に入ってすぐのころ、とと(父)が浮気が原因で家を出て以来、次第に心を病み、ババ(祖母)から「姉のおまけで生んだ」と言われ、十分に愛されなかったと感じる恨みもあって「根深いものに苦しめられ」内部から壊れていく。なりふりかまわず暴れたりもする。そんな「はっきょう」したかかをうーちゃんは、愛しながらも憎しみを覚え、「うざったく」思う。そして、うーちゃんは、かかを物理的には殺さないまでもひとりにして「淋しさで殺してしまう」自分を想像し、いたたまれなくなり、かかを自分が妊娠し、産んでイチから育ててやりたい、つまり自分が「うーちゃんたちのかみさまになる」という突拍子もない祈りを抱えて、かかの子宮摘出手術を目前にひかえたある日、熊野に旅立つ…というのが大まかなストーリーである。
全編、語尾に意味不明な言葉をつけた造語や「似非関西弁だが九州弁のような、なまった幼児言葉のような言葉遣い」からなる「かか語」で、弟のみっくんに「おまい」(おまえ)と呼びかけるうーちゃんの親密な私語りが続き、それは、ある種の読みにくさはあるが、独特の世界観を形成するのに一役かっている。
例として、うーちゃんのかかに対する愛憎を示した箇所をいくつかあげておこう。
「それは本当の痛みにちかかった、かかの痛みは望むと望まざるとにかかわらずうーちゃんに乗り移るんです、前にそう言ったときおまいは信じられんかおをしましたが、本当のことです。/うーちゃんとかかとの境目は非常にあいまいで、常に肌を共有しているようなもんでした。」
幼稚園の頃、将来の夢はかか、おかあさんになることと答えたうーちゃんは、かかを今も愛しており、<私>が成立する以前の呼び方で自分を名指すことにもよく表れているように、大好きなかかと「常に肌を共有しているような」感じで一体化しているが、以下のようにそれにはうらみ、憎しみも混じる。
「「かか、もう、つらくて。結構、つらくて。ずうっとがまんしてた、もう限界、がまんできない、つらいよお、しにたいよお」
気分を高めて、その自分の台詞でもらい泣きするかか、いつもとまったくおんなじ泣き方にうんざりしました。……なんでこのひとは、しにたいしにたいと言いながらしなないんだろうとうらみました。彼女がしぬとわめくたびにうーちゃんにもその気持ちはうつります、もう、つらくて。ずうっとがまんしてた、つらいよお、うーちゃんの肌のしたに詰まった肉が叫ぶんです。しにたいよおう。」
そうした愛憎はまた、うーちゃんにあっては、自分が女であることへの違和へとつながってもいる。
「…うーちゃんはにくいのです。ととみたいな男も、そいを受け入れてしまう女も、あかぼうもにくいんです。そいして自分がにくいんでした。自分が女であり、孕まされて産むことを決めつけられるこの得体の知れん性別であることが、いっとうがまんならんかった。男のことで一喜一憂したり泣き叫んだりするような女にはなりたくない、誰かのお嫁にも、かかにもなりたない。女に生まれついたこのくやしさが、かなしみが、おまいにはわからんのよ。」
地の文に方言を使った小説は少なくないが、この小説の語りの特徴は、そうした小説に多い、リズミカルで滑らかな快活さとはいい意味で異なった「どこか不自然で、吃音のように滑らかさを拒否していること」(高橋源一郎、三島賞選評)にあり、それは、かかと一体化し、かかを愛しながらも、うらみ、憎しみを感じ、女性性への問いも生まれつつある主人公のもどかしい世界を見事に浮かび上がらせている。
もちろん、こうした母と娘の愛憎は、これまで手を変え品を変え書き継がれてきたといえるだろう。しかし、フロイトが定式化した主体形成の途上で要請されるエディプス・コンプレックスの解消、息子による父殺しとくらべて、母と娘の関係は単純ではなく、フロイトもこれを明確には定式化できなかったため、その空白を文学が埋め続けてきたといってよいかもしれない。
その意味で、この小説も、そうした流れの一つとして読めるもので、賞の選考では、「一言でいうと、『かか』は「娘による母殺し」の物語」(斎藤美奈子、文藝賞選評)、「モチーフとしては、飽きるといっていいほど見たことがあるものが、作品の中で再構築され、主人公だけの言葉で存在している」(村田沙耶香、文藝賞選評)小説、「母と娘の関係を描く、その際に公式の言語以外の言語をつくる、という現代女性文学の主流を受けついで、真っ直ぐ流れる完成度の高い作品」(多和田葉子、三島賞選評)といった評価を得た。
では、こうした流れの中にいる宇佐見りんの特異性とは何かというと、それはすでに書いたように、この小説のために作られた、内容と不可分な方言もどきの独特の文体であり、「小説とはそれでいいのだろうかと、何度も読み返したが、そのたびに細部に驚きがあり、発見があった」(村田沙耶香、同上)というディーテイルということになるだろう。実際すでに引用した個所からも知れるように、それらは魅力あふれるもので、ここにそのいちいちを引用したい誘惑にかられもするのだが、今回注目してみたいのは、「飽きるといっていいほど見たことがある」モチーフである娘の母への愛憎、娘の母からの自立に対して、これまた「飽きるといっていいほど見たことがある」かもしれない論理であるフロイト(=ラカン)を改めて参照することで見えてくるものである。
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まず、「女性の性愛について」などの論文を参照して、女性の主体形成にかかわるフロイトの理論を改めて概観してみよう。問題になるのは、あの悪評高いが、性差を説明する理論として依然無視できないエディプス・コンプレックスである。それは言うまでもなく、幼児の男根期に見られ、その後、思春期に再活性化されるという両親に対する複合的な感情の総体である。
男児のエディプス・コンプレックスはとてもよく知られている。男児は当初母を愛情・欲望の対象とするが、それを妨げる第三者、父親の存在がそれを妨げる。そこで、男児には自分を父親の位置において母親を愛する道と、自分を母親の位置において父親を愛する道がひらけるが、前者では父親が、後者では母親が邪魔ものになる。これがエディプス・コンプレックスであり、前者の、母を欲望し父を殺したいという願望がとりわけ有名だが、理論的には両方考えられるものである。しかし、どちらの道を選んでもペニスというナルシシズム的な愛着をもつものを失わざるをえない(男児の去勢コンプレックス)ことから、男児は母親への欲望を断念し、一般的には父に同一化してエディプス・コンプレックスを解消するとされる(ちなみにこの場合異性愛者になるとされる)。
これに対し、フロイトは、女児では、性器領域が二つあることから、また母に体の世話をしてもらうことから、前エディプス期においては母親を愛情・欲望の対象とする点では男児と同じであるが、ペニスがないという、あるいはペニスにくらべ劣った性器クリトリスをもつという去勢の事実を認めることで母親を憎み(女児の去勢コンプレックス)、ペニス羨望に陥るとする。そしてそのことから、愛情・欲望の対象を父親へと向け換え、そこで母親と競合状態に陥り、エディプス・コンプレックスが形成されるとし、それは次のようにも書かれる。
「この頃(解剖的な性差を意識し、ペニス羨望へと陥る頃)から少女のリビドーは、ペニス=赤子という象徴方程式に従って、新しい位置に進んでゆく。少女はペニスへの願望を放棄して、これを赤子への願望に転換する。そしてその目的で父親を愛の対象とするのである。こうして母親は嫉妬の対象となり、少女から小さな一人の女性が誕生する。」
これがいわゆるフロイトのいう「正常な」女性らしさの誕生である。もちろん、性的な要素を抑圧してしまう場合や、去勢の事実を認めない場合など別の道もあるとするが、ともあれ、去勢コンプレックスを経てエディプス・コンプレックスの段階に達した女児は、去勢恐怖など、男児のようにはそれを克服する決定的動機が存在しないため、それは劇的には解消されないという。ただ、「ペニスをあきらめることの代償」である父親の赤子を産みたいという願いは満たされることはないため、「エディプス・コンプレックスはゆっくり消滅していくような印象を受ける」としている。
このように、フロイトは、ユングが、男女ともに、異性の親を愛し、同性の親に敵意を向けるというエディプス・コンプレックスを見出したのとは違って、女児にあっては、男児と対称的な在り方は見出せないとした。つまり、幼児期には、女児は男児と同じく母を欲望する時期と、去勢コンプレックスを契機にペニス羨望を赤子を産むことに切り替え、愛の対象を父親へとむけかえて母親と競合するエディプス・コンプレックスへ参入する時期があって、これらは共存し、しかもどちらも完全には克服されないとしたのである。
とりわけ後期フロイトは、女児の前エディプス的な母親への愛着が長く続き、そこでは男児の場合のようなリビドー的な力が働いており、それは父親を無視するほどであり、簡単には解消されないことに注目していた。
ここから読み取れるのは、「原理的に」、女児は、女性は、母に対する愛と憎悪が共存したまま解消されず、娘の母からの分離はきわめて困難な道をたどるだろうという予想である。
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では、うーちゃんはどうだろうか。父をめぐって母と競合するというエディプス・コンプレックスは、思春期にあって再活性化されているはずだが、熊野詣以前のうーちゃんにあっては、それによる母殺しの契機は弱いといえる。なぜなら父は浮気をして母を悲しませた張本人だからであり、母の娘であるうーちゃんは、父を愛せないから母を憎む要因がないし、前エディプス期に由来する母への愛を豊かに持っており、母が壊れたのは母が自分を産んだためであると考えるほどである。
しかし、うーちゃんは女に生まれたことを我慢ならないことと思っており、こんな性に産んだ母をどこかで憎んでいる(これはエディプス・コンプレックスに由来する憎悪ではなく、去勢コンプレックスに由来する憎悪である)。何より、今目の前にいる母は、「穢れきってうざったくてわざとらしくて自分のことしか考えていなくてころしたいほどにくいと思うことがある」のである。ここに母殺しの契機があると思われるが、うーちゃんは、母殺しの感情を自覚しつつもそれを認めることができないでいる。自分が母を物理的にではないにしても淋しさで殺してしまうような兆しを見出すだけでいたたまれなくなるのである。
そこで生み出されたアイデアが、母を妊娠してイチから育てたいという「祈り」であり、そのことによって「信仰」を回復することである。うーちゃんは母への愛を母への「信仰」という言葉で表現しており、母への愛がゆらいでいる今のうーちゃんの在り方を、「母への信仰は消えていく一方」だとしていた。もう一度、失った信仰を回復するために、うーちゃんは、熊野へ参詣して国生みの母、いざなみに会って母を妊娠したいと思うのである。
では、この突拍子もない祈りは、熊野への旅でどのように展開していくか、段階を追ってみていこう。
まず、熊野詣ではじめに目指したお寺では、重要文化財である千手観音に欲望を抱き、「あの繊細な指を自分の裂け目に入れてみたいと思」うと同時に「自分に男性器が生えてきてほしい」と願い、「あのかすかにふくれた胎のなかに子種を植え付けたいと思」い、軽い罪責感を感じる。フロイトのいうペニス羨望が顔をのぞかせているともいえるし、母を愛し欲望していた前エディプス期の名残りを示唆しているようにも見える。
次に、山に入り、沈黙が支配すると、うーちゃんは、心のよりどころとなっているSNSを求めるが、タイムラインがざわついていることにいら立ち「母が死にました」という嘘のツイートをしてしまい、罪責感に襲われる。
うーちゃんは目の前に広がる静かで孤独な山々を見て、「古代より連綿と受け継がれる生命に責められているように感じ」るが、その前に、そうした山々の稜線は、かかが誰かに殺された夢から目覚めたあとに見た、「仰向いたかかの胸と腹と尻とふくらはぎのつくるグレーの影ぼっこ」であるとしており、そうした宗教的感慨には寄る辺ない幼児期の母に対するイメージが根底にあることが示されている。
ここでのうーちゃんは、幼児期の寄る辺なさによって求められる母なるかみさまの存在を感知している。
一方、「母が死にました」というツイートをしたことは、現実的に、かかがアナフィラキシーショックで死ぬ可能性に思い至ることにつながり、「ばちがあたった」と思い、次のように書く。
「すべてのばちあたりな行為はいっとう深い信心の裏返しです。…そのばちあたりな反抗は、何か理解を超えた力があるという前提に立ってこそ存在しうるんです。…ばちあたりな行動はかみさまを信じたうえでちらちらと顔色をうかがうあかぼうの行為なんでした。そいしてばちがあたったとき、その存在にふるえながらようやく人間たちは安心することができるんです。自分のことを本当に理解する誰かと繋がっているという安心感に、身をまかしることができるのんよ。」
ばちがあたったとする感覚が、「何か理解を超えた力」を感知することと不可分であり、かつ、宗教的な畏怖が、寄る辺ないあかぼうの両親への畏怖と安心感に関係することを示唆している。ここで感知されたかみさまは、先の山々に感じた母なるかみさまとは同じなのか違うのか不分明だが、いずれにしろ先のものより抽象度が増しているように感じられる。
そして、ばちあたりの行為によって「ここのかみさまを怒らせた」と思ううーちゃんは、「何かと会える気いし」てさらに山を分け入っていくことになるが、その過程で、「もしかすると、かかをにんしんするにはかかがしなねばならんのかもしれん。誰かの命日に生まれたあかぼうが故人の生まれ変わりだと言われるんはようある話でしょう、そいとおんなじです。かかはこの世に二人はいんから、うーちゃんがかかを産むためには今のどおしょおもなくなってしまったかかはしぬ必要があるんです」という独特な論理に逢着する。そして「びかりと空が雷で強烈に光ったとき、身籠ったと思いました。かかがしんだと思いました」というクライマックスの場面が続く。うーちゃんは雷神の登場によって聖なる母を新たに身ごもり、壊れゆく俗なる母を死なせるのである。
ここで問題になるのは、この雷が、雷神が、何を意味するかということである。
まずあげたいのは、うーちゃんがこの旅の初めに、那智にいるといういざなみに会いたいと思っていたことから、ここでいざなみが姿を現したのだとする考えである。なぜなら、古代神話では、いざなみは火神を生んで死に、黄泉の国では八雷神とともにあるとされているからである。雷が光ったとき、うーちゃんはいざなみという母なる祖神の現れを体感し、「身籠った」と確信するのだととりあえず言えそうである。聖マリアの処女懐胎の引用とも考えられるが、ともあれ、この場合、うーちゃんは母神への信仰を回復し、母を身籠ることで自らがかみさまになることを果たすと同時に母殺しを遂行することにもなるといってよい。
しかし一方で、雷神は古今東西の神話・伝承を想起しても男神がほとんどであることを想起すると別の考え方も浮上する。雷が光ったとき身籠ったと確信するというのは、母親の位置で父なる神に対峙しているというようにも見える。実際、それが母を産むという荒唐無稽のものであれ、うーちゃんは産むことを選択している時点で母に同一化しているといえる。前エディプス期やペニス羨望の契機を超え、母の位置で父の子を身籠りたいというエディプス期が再活性化しているといえる。「うーちゃんが新たにかかを産むためには、壊れたかかは死ぬ必要がある」というロジックは、産むうーちゃんと現実の母が父なる神をめぐって同じ位置で競合している結果ともいえる。たとえば、多和田葉子の『聖女伝説』において、主人公は、聖人を産む聖母にはなりたくない、自分が聖女になりたいと言っていることと比較すれば違いは明らかだろう。
そのあとの記述を読んでも、この雷神(かみなりさま)は、「あかぼうのへそを奪」い、「かかから引き剥がす」存在であることがわかる。その意味では、雷神は父なる神だということができるかもしれない。実際、那智大社は改修中で、うーちゃんはいざなみに会えなかったのである。それゆえ、この場合、うーちゃんは、母から父へと愛の対象を向け換えることで、エディプス・コンプレックスを再活性化し、その活力で母殺しをしているともいえそうである。
いずれの考えが適切なのか判断に苦しむ(追記参照)が、熊野詣が、かみさまを求める旅であると同時に、うーちゃんのかかからの分離、独立を促す一連の軌跡であることはまちがいなく、ラカン的にとらえれば、想像界から象徴界への参入を果たした幼児期の、思春期における反復ということになるだろう。つまり、熊野詣は前エディプス期からエディプスの坂を登るように展開し(前者の見解をとっても、うーちゃんはペニス羨望を「産む」ことに切り替えているので、エディプスの坂を登る途上にあると考えられる)、父を遠ざけ母と一体化していたうーちゃんの母殺しの願望は、母を妊娠したいという特異な祈りの背後を伏流水のように流れ、そして実現するのだといえよう。
うーちゃんは、母が大きな手でかみなりさまがへそをとることから守ってくれた幼年期を思い出しながら「いつから、信じてはいけんものになったんでしょうか。あの言いつけを真に受け続けることの、なにが、いけんのでしょうか」と言って泣く。母殺しは痛みが伴い、それを導いたかみさまにもうらみが残る。しかし、うーちゃんにあっては、かかとみっくんとうーちゃんで共有していたかか語を消滅させ、<私>という呼称と新たな言語の担い手になっていくために必要なプロセスだったのである。
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このように、うーちゃんの熊野詣は、文字通り、失った信仰を回復する旅であると同時に、思春期に再活性化するエディプスの坂を登ることで母殺しを完遂する旅だということができる。そうした旅については、前出の斎藤美奈子が「一言でいうと『かか』は「娘による母殺し」の物語」だと喝破したように、宗教的イメージは表向きでその裏にあるエディプス的な危機と母殺し、つまり思春期における新たな象徴界への参入とそれに伴う母殺しこそ重要であるという読み方が可能であり、本稿も基本的には、そうした方向で読解してきた。しかし一方で、それらを「信仰」という言葉でとらえ返したことが作家独自の視点で新しいのではないかと考えることができるのも事実で、ここでこの点について注意を向けてみることにしたい。
実際、この小説においては、序盤、幼児の母親への想いは以下のように唐突にも「信仰」と表現され、その言葉遣いは読者の記憶に鮮やかに残る。
「あかぼうのひとみはかみさまに守られた憎らしいひとみなんよ。信仰を持ったひとみほど強いものなどないんです、たとえうーちゃんにはかたわらの女がただの女に見えたとしても、あかぼうのひとみにはたしかにかみさまのようにうつっていて、エイリアンみたいに真っ黒に濡れたそれは人間を断罪する力を持っている。」
その後、こうしたありようと対照的なものとして、うーちゃんにおいては、「かかに対する信仰は消えていく一方」であると記され、そこで「信仰を取り戻す」ため、熊野詣を企てるというのが、この小説の大まかな構成であることはすでに述べたが、このことから、作家が、序盤からこの小説を「信仰」という言葉で一貫して書き切ろうとしていることが知れる。
ここで想起されるのは、フロイトが、「ある幻想の未来」などの著作で、宗教的なものの起源に、幼児の寄る辺なさとそれによって呼び覚まされた両親(とりわけ父親)への憧憬をあげていることである。
誰しも幼児期に寄る辺のない状態を経験し、それを守ってくれる両親への欲求が目覚めるが、幼児期を脱出しても外界の厳しさに直面する人間は、その寄る辺なさから、両親、とりわけ父親の像を模した神を求めるというわけである。
フロイトは、宗教的なものの起源を、ロマン・ロランのように「「永遠」の感情とでも呼びたいような感情、なにかしら無辺際・無制限なもの、いわば大洋的な感情」に求めなかったばかりか、「人間は宇宙に比較すれば卑小で無力な存在だという感情に徹している」こと自体にも求めず、「そういう感情からの救済を求める行動」こそ、宗教的なものだとしている。フロイトによれば、宗教とは、あくまで幼児の寄る辺なさに由来する両親への依存願望が生んだ「幻想」なのであり、それゆえ、幼児期と同様、神経症的症状もあわせもつものであり、いずれ「乗り越えられるべき定めにあるもの」なのである。
ところで、これまで「寄る辺なさ」という言葉を説明抜きに書いてきたが、ドイツ語でHilflosigkeit、英語でhelplessnessというこの言葉は、一般的な言葉ではあるものの、フロイト理論においては土台になる基本的な認識を表わす重要な言葉である。それは、幼児、とりわけ乳児において、渇きや飢えなどの諸欲求を満足させるのに、全面的に他人、とりわけ母(の全能性)に依存しており、そうした内的緊張を終わらせるのに有効な行動をとれないでいるという状態を指すのだということを、遅ればせながら確認しておきたい。
こうした認識からフロイトは、他者の助けと充足体験を軸に幼児期神経症などの一連の精神分析理論を展開しているわけだが、ここで見落とせないのが、幼児の寄る辺なさが否応なく他者を求める、とりわけ全能の両親を求めるありようが、「子宮内での生活期間は、たいていの動物にくらべて、比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくる」、つまり人間の生理的早産に由来する生の条件であり、それは、精神現象の構造化に決定的な影響をもたらし、幼児期神経症の克服以後も消えることはないとしたことである。
晩年に書かれた宗教論「ある幻想の未来」も、こうした基本的認識が生み出したもので、すでに書いたように、宗教とは人間の寄る辺なさがそれを耐えうるもににしようとして生み出した全能の両親への憧憬であり、幻想にすぎないものだと言っているのである。
逆に言えば、幼年期にその寄る辺なさから両親のような他者を求めるありようは、この小説がとらえたように、「信仰」のようなものなのであるともいえる。実際、フロイトは、「神経症は個人的な宗教性であり、宗教は普遍的な強迫神経症である」という言い方もしている。
この小説でも、うーちゃんは、「信仰を取り戻す」ため、霊験あらたかな熊野へ詣でることを企てるわけだが、そこで起こっていることを記述する作家の筆は、道中に出会った数々の偶然や「荘厳な景色」に感嘆するという神秘的な体験に言及しつつも、すでに引用して説明したように、基本的には、信仰を、幼児の寄る辺なさから両親像を求めるように、超越的なものを希求して生まれるものだという認識から離れないように描いているといえる。フロイトの「ある幻想の未来」の基本的な認識と同じである。
その意味では、うーちゃんのSNSを介した大衆演劇の俳優の傾倒というエピソードも、そうした基本的な認識が生み出したものだといえるだろう。
うーちゃんは、母の変貌に由来するきびしい現実から逃れるように、西蝶之介という大衆演劇の、ときに女形を演じることのある俳優のファンになり、そのフォロワーからなる小さなネットコミュニティを心のよりどころとしている。手が届きそうで届かない俳優への思いは一方的なもので、超越的な存在に対する「信仰」のようなものであるといってよい。
一方、ネットコミュニティの間ではフォロワー同士の相互性があって、その「信仰」を支えているが、これについては、うーちゃんは「インターネットは思うより冷やこくないんです。匿名による悪意の表出、根拠のない誹謗中傷、などというものは実際使い方の問題であってほんとうは鍵かけて内にこもっていればネットはぬくい、現実よりも少しだけ、ぬくいんです」と言い、それは、「コンプレックスをかくして、言わなくていいことは言わずにすむ」からだとしている。俳優への一方的な熱い思いと、ネットコミュニティのあたたかさがうーちゃんの寄る辺なさを耐えうるものにしている。
興味深いのは、西蝶之介の相手役、北川洋次郎がファンと結婚し、引退することになったことが、フォロワーのツイートを紛糾させ、結果的にうーちゃんの「母が死にました」という嘘のツイートを誘発し、うーちゃんは、収拾がつかなくなって、アカウントを消すに至ることである。
というのも、フォロワーの紛糾は、もうひとりの「かみさま」北川洋次郎が超越的な存在ではなくて人間だったことを露呈することによるフォロワーの「信仰」のゆらぎ、崩壊を意味しているからであり、それは女形である西蝶之介にも起こりうる可能性のあることであり、ネットコミュニティが存亡の危機に瀕することだったからである。うーちゃんもそうした騒動の中で「信仰」の拠り所を失ってしまうというこの小説の設定は、単に、現代的な風俗描写としてこの小説に添えられたエピソード以上のものであるように見える。
実際、この俳優=かみさまが女形なのは、うーちゃんの信仰の対象が母であったことと関係があるだろう。また、その女形の相手役の引退がフォロワーのツイートを紛糾させるという設定も、男次第で女の状況が左右される、つまり、父とのかかわりで母が変調をきたさずにはおれなかった現実と無関係ではないと思われ、細部に作家の慎重な創作姿勢が垣間見える。
ちなみに、第二作『推し、燃ゆ』では、現実世界で生きづらさをかかえる少女の「「推し」を推す」という行為、それに全生活をささげる生存様態そのものが「信仰」のようなものとして描かれており、こうしたテーマが別な形で追求されていることはここで確認しておいてもよいだろう。
ともあれ、繰り返すが、この小説で一貫して示された作家の基本的な認識は、信仰のような超越的なものの希求の根底には、人間の生の条件である幼児の寄る辺なさがあるということであり、新たな象徴界への参入をめぐって生じるエディプス的な危機と母殺しも、「推し」への傾倒とその崩壊も、同じパースペクティブにおいてとらえられるということなのである。
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以上、フロイト(=ラカン)の幼児の主体形成をめぐる論文とフロイトの宗教論を導入することで、この小説を検討してきた。
フロイトは、思春期について、「思春期において最も重要で苦痛な心的営み」は(近親相姦的な空想を克服し、放棄することで)「両親の権威から離脱すること」だと言っている。これは個人が成長するための<宿駅>のひとつだという言い方もしている。こうした言い方を借りるなら、この小説は、この、誰もがくぐりぬけなければならない<宿駅>における出来事を、「信仰」という言葉で自分なりにとらえなおし、かか語というこの小説のために新しく作られた文体を駆使して再構築した作品だといえるだろう。
自覚的に選び抜かれた文体と「信仰」という言葉づかいがわれわれの生の条件である幼児の寄る辺なさと超越的なものの希求のかかわりをあらためて照らし出し、「信仰」への要求の切迫性とその克服(ないしは崩壊)の必然性を浮き彫りにすることで、この小説に、単なる思春期をテーマにした小説として片づけられない思想的骨格を与えている。
また、思春期における娘の母殺しの困難さがつぶさに描かれることで、少女が新たな象徴界に参入する際に問題になる「愛情が常にほどくか断ち切るかしなければならない想像的な隷属の結び目」(ラカン)が浮き彫りにされ、フロイトもその定式化に悩んだという女性の主体形成や女性性への問いが突きつけられることになり、そのひとつひとつは繊細で骨太なジェンダー論に展開していく芽をもったものとなっている。
それらはまさに、かねてより「見たことがある」モチーフに、かねてより「見たことがある」論理を参照することで見えてくる思想性であり、その意味で、宇佐見りん著『かか』は、稀有な才能が生み出した、古くて新しい小説なのである。
追記:雷神の解釈については、本稿では、これがへそを子から奪い母から引き剥がす存在であることを念頭に置いて、第二の解釈の方に力点を置いて書いたが、第一の解釈も捨てがたく思っている。ただし、この場合、いざなみのいざなぎに対するあり方に鑑み、作家は、父に対抗する母を擁立していると考えることができる。また、ラカンの言う、ファルス的享楽の外にある女の享楽を現出させているともいえる。ともあれ、この小説がそのように読めるテクストでもあることを、ここに記しておきたい。読者にご感想、ご意見があればたまわりたいと思う。
(2020年12月2日)
初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2020.12.3より許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-368.html
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/〔study1146:201205〕