書評:竹田恵子著『生きられる「アート」 パフォーマンス・アート≪S/N≫とアイデンティティ』

 個人的な思い出話から始めたい。
 それは1984年のこと。季節はいつだったか覚えていない。私は、偶然手にしたチラシに導かれて、京都市立芸術大学の学生劇団が母体になった「ダムタイプ・シアター」という劇団の旗揚げ公演を見た。寺山修司が亡くなり、天井桟敷が解散した翌年のことで、無意識にそうしたものを期待する気持ちがあった。会場で見たものは、今はほとんど忘れてしまったが、舞台美術が俳優と等価に扱われていること、天井桟敷の舞台で見たことのある大きな古い旅行用のトランクが若干のノスタルジーを伴い使われていたこと、パフォーマーの一人が途中で唐突に裸体になったこと、などをぼんやりと覚えている。私は勝手に寺山的なものを感じ取り、「私好みの」舞台だと思った。ちなみに、ダムタイプが当初寺山の影響を受けていたことは、インターネット上の記録によると、2019年、「DUMB TYPEパフォーマンス作品連続上映会」のトークイベントにおける山中透や、2020年、東京都現代美術館での展覧会「ダムタイプ|アクション+リフレクション」のトークショーにおける高谷史郎などの証言がある。さらには、高谷と同じトークショーで、浅田彰が、「60年代の小劇場運動の中でも寺山がきわだってマルチメディア的であり、ダムタイプは80年代にそれを、エレクトロニクスを使ってクールにやった」と語っていることは、ここで確認しておいてもよいだろう。
 当時の私はといえば、後期天井桟敷の可能性を、舞台美術が劇の背景をなすものとしてではなく、俳優と等価に、否それ以上に扱われていることに見ていた(これによってプロセニアムアーチの舞台を超える空間を作り出すことができていることや、こういう設定でこそ現代の人間の条件をビジュアルに表現できていると考えていた)ので、その舞台は、デビューしたばかりでまだまだ未熟だったが、大いに期待を抱かせるものだったのである。
 それから十年後、私はすでに「ダムタイプ」と名を改めていたパフォーマンス集団の≪S/N≫を見る。ダムタイプは十年前とは比較にならないほど驚異的な進化をとげ、そこには「私好みの」といった言葉には到底おさまらない、素晴らしい舞台が出現していた。十年前に見た舞台の諸要素は変わらなかったが、それぞれが第一線のものに変貌し、美学的に洗練されたものになっただけでなく、以前と違い、明確に社会に訴えるテーマをもつものとなっていた。裸体一つとっても、以前は唐突に投げだされただけだったものが、他の要素との兼ね合いのなかで政治的意味を獲得していた。≪S/N≫は、まさしく「古橋が、自らのHIV感染という事実をふまえ、エイズや性などをめぐる問題を、鋭い社会批判と洗練された変態[クイアー]パフォーマンスを織り交ぜながら全体としてハイ・テックな舞台に仕立ててみせた、衝撃的な作品」(浅田彰)として立ち現れていたのである。しかも、この作品の中心的存在であった古橋悌二は、1995年にはエイズで亡くなり、≪S/N≫は、古橋不在のまま、1996年まで上演を続け、古橋の遺作といった面をもつものになっていった。
 私はこの作品を三度見たが、一度目は、古橋らパフォーマーの、マイノリティとしてのカミング・アウトとアーティスティックなスペクタクルの組み合わせを茫然として見守り、二回目は、そのハイテクな、マルチメディアスペクタクルのひとつひとつに全身を打たれることに快楽を見出し、三度目は、古橋の不在を痛いほど感じながらも、その作品のもつ力を、いまさらのように驚きをもって見つめた…。
 以来、四半世紀、こうした体験は言語化できぬまま、私の中にくすぶり続けたが、今回、ようやく、まとまったものとしては初めての研究書となる、竹田恵子による『生きられる「アート」 パフォーマンス・アート≪S/N≫とアイデンティティ』(ナカニシヤ出版、2020年)という本を手にすることができ、かつての記憶が蘇り、思考を大いに触発された。

 一読して感銘を受けたのは、この作品のもつメッセージ性、政治性の特質から目をそらさない筆者の読解のあり方である。おそらく竹田は、リアルタイムにダムタイプに接したわけではなく、ビデオの記録映像で≪S/N≫体験をした世代であろうが、その分、上演に立ち会った者のようにその芸術性の魔力におぼれることなく、(もちろんそのインパクトを強く感じ、それに共鳴しつつも)冷静に分析を加えているようにみえる。
 たとえば、第二章で展開される、≪S/N≫の作品構造の分析である。
 ≪S/N≫は、観客席からみて、前方に巨大な白い壁のような舞台装置が設置され、その前方と上方に演技エリアがあるが、その巨大な白い壁のような舞台装置は、テクストや映像を投影するスクリーンにもなっており、パフォーマーの動きと語り、映像、テクスト、音響が同等に権利をもって、スペクタクルを構成する。そのため、私もそうだったが、リアルタイムで上演に接した者は、一貫した意味をもたない、断片的でポリフォニックなスペクタクルのいちいちに全身で打たれることになり、パフォーマンスをテクスト中心にみることはないし、その意味づけには興味をもたない場合が多い。それどころか、「言語は完全に舞台の従属あるいは支配から解き放たれ、無権力な空間のなかでどこにでも接続可能な「断片=マシーン」へと散乱したのである」(西堂行人)といった演劇批評のように、その断片性は称揚される場合が多い。
 しかし、竹田は、そうした見方に理解を示しつつ、あえて、≪S/N≫のテクストを中心として、引用の様態について詳細に調査し、≪S/N≫における引用は、「統一的な意味秩序の伝達を助けていること」を明らかにしている。
 白い壁のような舞台装置に投影されるテクストは、様々な引用から成っているが、引用元が映像内で明らかになっているのはミシェル・フーコーだけで、あとの引用については、丹念に竹田が引用元を追い、それと非引用部分との関連を調べ、「プロット」を読み込んでくという丁寧な作業を行っているのである。簡単に見ておこう。
 第一に抽出されたプロットは、「言説の流通と禁止」である。
 シーン1では、「科学の申し合わせ/沈黙の申し合わせ」という意味の「conspiracy of scientia / conspiracy of silence」と言葉が何度も投影されるが、これらがオーストリア出身の生化学者エルヴィン・シャルガフの著書からの引用で、引用元の文章を参照しながら、これらが、「「ノイズ」を切り捨て沈黙を課す一方、言説を流通させる力」を意味しており、「作品全体を貫く一つのプロットを先導」するものだとしている。
 そして、シーン2では、トライクラーの『意味の伝染病』の引用に、このような沈黙と言説の流通がHIV/エイズに関連づけて語られていることを見る。
 これらの引用は、タイトルの≪S/N≫、シグナル/ノイズというテーマを直に示しているところであるといってよいだろう。竹田は、こうしたシグナルに抑圧されるノイズとして、おー、あーなどの、パフォーマーたちの言葉にならない声や身振りや、シーン5の、「喋り方が少し普通の人と違う」ろう者、アレックスの喋り方などを見て、非引用部分を引用部分に関係づけている。
 第二に抽出されたプロットは、「関係性の発明」である。
 竹田は、シーン4から5にかけて、巨大な壁に投影されるフーコーの「生の様式としての友情について」の引用、たとえば「彼らは、いまだに形をもたぬ関係をAからZまで発明しなければなりません。そしてその関係とは友情なのです。言いかえるならば、相手を喜ばすことができる、一切の事柄の総計なのです」や「私は、性行為そのものよりも同性愛的な生の様式の方が、遥かに同性愛を人々にとって「当惑させるもの」にしているのだと思います」などをとりあげ、ここに他の非引用部分との関係でプロットを読み込んでいる。
 たとえば、シーン1、「人間はつねに存在したのではない、いつまでも存在するわけでもない。ならば発明せよ」という、白い壁に投影されたテクスト。そして、シーン2、ピーターの、現在、未来のラブソングはどうなっているかの問いかけに対して、テイちゃん(古橋)やブブ・ド・ラ・マドレーヌがそれぞれに自分の経験を語りながら、今までのラブソングに典型的な、男性が女性を所有する異性愛男女の関係性を問題化しつつ「固定化されたカップル間の関係性を批判し、新しい仕組みを模索すること」を提起していたこと。さらには、シーン5、アレックスの述べた、「私はあなたの愛/性/死/生に依存しない。あなたとの愛/あなたとの性/自分の死/自分の生を発明するのだ」という言葉。
 竹田氏は、こうした非引用部分に、フーコーの引用を関わらせ、「関係性の発明」というプロットを読み込んでいく。
 さらに、こうした二つのプロットに加えて、テイちゃんによって誘われる「旅」や「新しい世界」、「軟着陸」のイメージを喚起するサブ・プロットの存在を指摘し、「舞台装置からのパフォーマーの落下という演出によって強調される越境性やサバイバルした先の新しい世界を予感させる」ものとして、これが作品に重要な意味を与えていることに言及している。
 こうして竹田は、「≪S/N≫では複数のプロットに沿って引用部分と非引用部分が組み合わさりながらまさに織物のように作品が構成され、それらのプロットに沿って類似部分が反復、発展するといった構造をもっていた」とし、≪S/N≫の引用部分は、「脈絡なく継ぎ木されているのではなく、一貫した作品の構造に沿って存在している」と結論づけている。
 つまり、≪S/N≫は多くの引用から成り立っているが、それらは、意味に回収されることを拒む言葉の断片でもなければ、パロディ、パスティシュ、脱構築的引用でもなく、ごくシンプルに、引用元に共鳴しつつ、引用元の意味に即した意味で引用され、プロットを構成する契機となっており、ある種の物語性が見出されるというのである。
 実際、複数のプロットは、互いに絡まりながら、「ノイズを抑圧するシグナルの力の提示→ノイズの解放→新たな人間関係への創出への意志→未知の世界へのダイブと軟着陸」というゆるやかなストーリーを形成しているのも事実で、引用部分は、それに至る明確な道筋を与えるものとして読めるものとなっていることが確認できる。
 その意味で、それは、まさしく、エイズパニックで保守化しやすい人間関係を前にして明確になった古橋のメッセージ、「未知の人間関係の実験室に、生まれてこのかたこれが自己を規定する枠組みだと思っていたものをかなぐり捨てて飛び込んでいく」を伝達するために必要な劇構造だったといえるだろう。
 そしてそれはまた、映像やテクストを投影する白い壁の上方にある幅の狭い演技エリアが、「オン・ザ・ボーダー(境界線上)」を意味し、境界線上を生きる人々の様態を浮き彫りにしつつ、彼らがそこから未知の世界をめがけてダイブするありさまをみごとに現出させる素晴らしい美術装置(小山田徹発案)をともなうことで、こうしたメッセージの伝達をいっそう強力に推し進めることができたことも、見落とせない点であろう。
 このように竹田は、第二章、この作品が「芸術のための芸術」ではないのはもちろん、「ポストモダンの美学」を体現するマルチメディアスペクタクルという評価にも回収されない、メッセージ性を強くもったものとして読み解いていくが、本の後半部、とりわけ第四章では、さらに、カミング・アウトの政治実践という視点から、この作品のメッセージ性、政治性の特質を分析していく。

 この作品において、古橋、ピーター・ゴライトリー、アレックス(石橋健次郎)は、作品中で自らのマイノリティ性(ホモセクシュアル、HIV陽性、Black、Deafなど)をカミング・アウトする設定になっているが、竹田は、「「アート」であるからこそ行うことのできる政治実践」としてこれを肯定的にとらえている。
 「男性同性愛者」が、行政、メディアによってHIV/エイズのハイリスク集団だと考えられていた1990年代の「男性同性愛者」の対処法は、大きく三つあったと、竹田は言う。ひとつは、そうしたアイデンティティを明示しない「パッシング」という戦略。第二には、「HIV/エイズに関する偏見は社会の問題であるとしたうえで、(社会的)アイデンティティを肯定的に受け入れ、積極的に明示する「カミング・アウトという方法」。第三が、第二のカミング・アウト派のように「HIV/エイズに関する偏見は社会の問題とである」としながらも、自らのアイデンティティを「アーティスト」であるとし、「「アート」を行うことにより、社会に介入し、その問題点を解決しようとする」古橋の戦略。
 「あるアイデンティティに同一化し、「カミング・アウト」を行うことは、不可視の存在を可視化する実践として非常に有意義である」が、一方で「当のアイデンティティに終始とらわれることにもつながる」のであり、<主体化=隷属化>の罠(フーコーの「人間の≪assujettissement≫[服従=主体化]」という概念から着想)におちいる危険があるし、社会変革のためアイデンティティを社会に向けて明示することで社会から被るリスクもある。しかし、≪S/N≫は、「「アート」でしかできない「語り口」や「表現方法」によって」、そうした危険を回避しつつカミング・アウトという政治的実践を成し遂げているというのである。
 たとえばオープニング・トーク。自らのアイデンティティを複数のラベル(Male,American,Black,Homosexual)にはりつけて登場しているピーターは、自分たちは「俳優ではなく」、「こういうもの」だと語る(ちなみに三人に共通なアイデンティティはホモセクシュアルである)。竹田は、これを「舞台に期待される「虚構」を故意に裏切ることにより、ごく一般的に期待されるような観客と出演者の関係を壊している」という。こういう出現の仕方をしたピーターに“How are you?”と問われる観客は、もはや「それまでの安全な観客対演者という構図で舞台を見ることができなくなってしまう」というのである。一方でそういうこともまた、これは劇に過ぎない、虚構にすぎないと考えることも可能であり、実際、テイちゃんはそうしたありようを作品の中で自己言及的に語りもするが、それも含めてこの作品は「日常/虚構という二項対立的な構造を崩し、観客との想定される関係を崩す」ことになっており、それによってこの作品が、アートでありながら、アートとして自足することをやめ、「社会的変革の可能性を秘めることになった」のだということに竹田は注目を促す。
 確かに、この作品において観客は、現実と虚構がないまぜになり、若干の距離を置こうと思えば可能ではあるものの、どこかぬきさしならない現実を突きつけられたことを忘却しきれない、独特の空間を生きることになるのであり、それは「芸術の魔力」(古橋)がかけられたマルチメディアスペクタクルに酔いしれるシーンにおいても変わらなかったと、私自身記憶する。それほどオープニング・トークはインパクトを秘めていた。アートとしてのすばらしさに没頭し、それを記憶すればするだけ、オープニング・トークの異物感もまた忘却を拒むものとして回帰してくるのであり、そのメッセージは、あいまいなまま、観客に思考を促し続けるのである。
 そしてもう一つ、竹田が注目するのは、シーン5のアレックスの発話行為。
 オープニング・トークで、ホモセクシュアルでろう者であることをカミング・アウトしているアレックスは、シーン5では、独自の発音で、先に一部引用した「あなたが何を言っているのか分からない。でもあなたが何を言いたいのかは分かる。私はあなたの愛/性/死/生に依存しない。あなたとの愛/あなたとの性/自分の死/自分の生を発明するのだ」などの、未来への投企を表出する印象的な言葉(セリフ)を繰り返し発話するが、竹田は、このパフォーマンスを説明するにあたって、ジュディス・バトラーの「パフォーマティヴィティ」という概念を導入する。
 それは、バトラーのこの概念が、主体やジェンダー・アイデンティティをあらかじめ存在するものとはみなさず、パフォーマティヴに構成されるものとみなし、さらには、そうした行為の反復によって意図せずアイデンティティの異本を作り出し、構造を変革、攪乱させる可能性があるとして、従来のジェンダー論を大きく更新した功績をもつものだからである。しかし一方で、竹田は、バトラーが、この概念を、「パフォーマンスなどの非日常には適用できない」、「あらかじめ意図や主体を想定する「パフォーマンス」には必ずしもあてはまるわけではない」と考えていることには批判的で、バトラーの理論を、修正を加えながら、このパフォーマンスの分析に適用している。
 劇中の(といっても虚構/現実の境界線はすでにぐらついているが)アレックスの身体行為と切り離せない発話行為、名づけえないものを指示する発話行為は、「未来に向けた自己の可変性を示し」ているため、「名付けによって既存の言説変性のもとにとらわれる」危険を回避しており、さらに、「アレックスの発音に際立った独自性があることにより、主体が言語によってあらかじめ定められないものへと可変的に構築されるという可能性を見出すことができる」とし、バトラーのいう意図せぬ規範の攪乱の可能性をここにみている。
 つまり、竹田は、アレックスがオープニング・トークでカミング・アウトしながらも、未来に向けた自己の可変性を排除せず、意図せぬ攪乱的未来に希望を見いだしていることに注目を促しているのである。
 一方で、バトラーの理論が「事前に意図や主体を想定しないがゆえに、戦略としては非常に使いづらいものにならざるを得ない」ことに対して、他者のディレクションやプロットの働きによって、この作品における意図や主体を想定したパフォーマンスが長期的な戦略として有効であることを述べてもいる。
 このように、竹田は、「虚構/現実、意図/非意図といった境界線を往還し」つつなされるパフォーマンスに、アートならではのカミング・アウトの可能性をみているのである。
 もちろん、それは、「公然とゲイではいられなかった」時代において、古橋の第一のアイデンティティが、ゲイでありHIV陽性であること以上に「アーティスト」であり、「精神の病巣を治癒する手段としてアートは、やはり有効な手段と成りえるのだ」と考え、強い絆をもった友人たちとともにそうしたアートを創出できる状況を作っていたことぬきにはありえないことには注意をしておく必要があるが、ともあれ、竹田は、上述のことを確認したうえで、そうしたカミング・アウトが開くある種の「共同性」に着目する。この作品は、「アイデンティティの表明とコミュニティへの参入が循環構造をなしていた1990年代のゲイ・コミュニティ」とは一線を画すもので、アートが開く観客とのコミュニケーションの場、つまり、「実体的な空間にも規定されず、制度化もされないが、ある種の共同性を確保できる」コミュニティに、連帯を、共同性を求めるものだというのだ。
 実際、ここで開かれた共同性は、流動的で不安定だが、ジェンダー、セクシュアルアイデンティティ、国籍、経済力など様々な要件にかかわらず見た者すべてに開かれ、見た者をゆるやかに拘束し続ける。先に、虚実ないまぜになったこの作品が、アートとしてのすばらしさに陶酔する者に対しても、オープニング・トークの異物感によって、この作品にこめられたメッセージについて思考を促し続けることにふれたが、こうしたゆるやかな拘束は、今にして思えば、観客が古橋らのメッセージに追いつくために猶予された時間を意味するものだったともいえるかもしれない。
 ちなみに、古橋はあるインタビューで、「一般的に「OUT」っていうとなんか「告白」みたいなイメージでしょ。そうじゃなくて、人とコミュニケーションの新たな段階に入るためにOUTしてみるというように「OUT」を使うみたいなイメージってありますけど」と語っている。「沈黙の申し合わせ」から逃れ「OUT」(カミング・アウト)することによってこそ人とのコミュニケーションが可能になる、そしてそれが社会変革につながる、そう古橋は語っているのである。

 以上、第二章、第四章を中心に、竹田の読み込んだ≪S/N≫のメッセージ性、政治性の特質を、私の体験と絡めて見てきた。この本には、このほか、1990年代日本におけるHIV/エイズの言説の分析、そして≪S/N≫を生みだすと同時に、それに触発され、巻き込まれもした、1990年代京都市左京区の、HIV/エイズを契機としつつ「広くジェンダー/セクシュアリティをめぐる構造的問題」を扱った社会/芸術運動のありようについて詳述されている。また、古橋の生涯と、彼の生を支えた、学友やドラァグショーを行うクラブなどのネットワークについても詳しい。
 竹田はあくまで、≪S/N≫という作品をアートとして囲い込むことなく、それ自身が志向していたように、社会とのかかわりのなかでいかに生まれ、いかに生き、いかに変革を求め、いかに引き継がれたかを伝えているのだ。
 そのことによって、≪S/N≫とそれを引き継いだアートにおいては、「アートを道具的に使用したアクティヴィズム」とは異なり、アートとアクティヴィズムは一体化しており、「「アート」とは自分の「生」のあり方を発明していくもの」であるということを浮き彫りにすることに成功している。みごとな研究的達成であるといえるだろう。

 最後に付け加えるとしたら以下二つのこと。
 一つは、本書は60年代に始まるアングラ演劇にふれ、ダムタイプがそれを批判的乗り越えの対象としたとしているが、両者はことのほか近いものがあるということ。
 というのは、すでに本稿で、初期ダムタイプが寺山に影響を受けていることを述べたが、それは美術装置に対するこだわりなど美学的な面(本書のインタビューで、小山田は、60年代アングラ演劇に対して批判的なトーンで答えているのが目立つが、私には、彼の美術装置に対する考え方は後期天井桟敷と連動しているように見える)だけではなく、寺山が旗揚げ公演(67年)にシスターボーイ丸山明宏を中心に据えた演劇を上演しており、当時としてはマイノリティの生や、今でいうジェンダー/セクシュアリティの問題に敏感だったこと、演劇が演劇として自足するのを忌避する一方で、アートとしての力そのものを信頼しつつ社会変革を目指したこと、その社会変革も、大文字の政治を意味するものではなく、個々の生のあり方を問題にするものであったことなど、多々共通する部分が散見されるからである。
 また、この本で知ったことだが、ダムタイプ(・シアター)の結成が、鈴木忠志の主催する「利賀フェスティバル’82」を見るためにメンバーが合宿したことに関わっていること、そして、ブブの演じる、股間から万国旗を出す祝祭的なラストシーンは、私にはなぜか、唐十郎の紅テントで目撃した李礼仙の演じるラストシーンにかぶるものだったことなどを想起させたからでもある。
 私は、≪S/N≫のシーン1における、ピッという電子音(信号音)、それに同期するストロボの点滅、誰のものとも知れないつぶやき声(ノイズ)などを背景にして上映される、グリッド線に区切られた男女何人かの上半身の裸体、そして「オン・ザ・ボーダー」を意味する壁の上の通路に立っている、眼と性器を影で隠して匿名のものとなった男女何人かの裸体が、ドラァグ・クィーンに変身する古橋やセックス・ワーカーを名のるブブと同じくらい、80~90年代のアンダーグラウンドの身体を象徴するものだと考えているのである。
 そしてもう一つは、この本は、基本的に古橋を中心にして論じられており(≪S/N≫は古橋が「仕切った」作品であるから当然だが)、ブブやOKガールズなど女性パフォーマーの印象的なパフォーマンスについては十分に触れられていないということ。少なくともそこに論述の焦点はあてられていないこと。
 私自身は、古橋のHIV陽性を知ってこの作品をともにつくりあげた女性たちのありように心を動かされた者である。たとえば、シーン2~3の「玉ねぎ娘」(スカートのすそを頭の上で縛られた女性で、当時そう呼ばれていたと記憶する)。上演後のトークで、これを演じたOKガールズの一人(たぶん砂山典子)が、この形象について、「男性が男性を愛する可能性に気づいていなかった当時の自分、古橋を異性愛の対象として愛していた当時の自分をあらわしている」という意味のことを言っていたと記憶する。ヘテロ女性がそれと知らずゲイの男性に出会ったときに生じうる一つのありようであり、スカートを一枚隔てて外を見ている玉ねぎ娘は、下半身が露出するというこの形象の残酷さとともに、こうしたありようをリアルに伝えているだろう。ちなみに、このパフォーマンスには、「泣かないで…君はちょうどいま、退屈な人生から脱出しようとしているのだから」という言葉がかぶさる。玉ねぎ娘は、アレックスの言う、「あなた」の生に依存しない「私」の生、「あなた」の愛に依存しない「あなた」との愛をいかに発明するのだろうか?問いは今も古びない。
 ともあれ、この本には収録されていないが、竹田にはすでにブブのパフォーマンスについての論文、≪S/N≫における女性表象についてのエッセイがあり、今後、こうした方面の分析が多くの人の目に触れ、さらに展開されることを期待したい。
                             (2020年10月2日)

初出:ブログ「宇波彰現代哲学研究所」2020.10.2より許可を得て転載
http://uicp.blog123.fc2.com/blog-entry-363.html#more
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 https://chikyuza.net/
〔opinion10186:201011〕